第26話 この雨が竜の怒りなら

 雨粒なのか自分が上げる飛沫なのか。視界もおぼつかないままに、それでも酷なほど冷静になって泳いでいた。


 それでも迷ったのだろう。見つけたい岸は見当たらず、道中で捨てた船に出くわすこともなかった。薄暗くなってきたのは陽が落ちたからなのか、それともただ雨雲がより厚く垂れこめてきたためかわからない。雨はずっと降り続け、感覚を失わせた。


 やっと川からあがり土を踏みしめて立っても、ずぶ濡れになるのは変わらなかった。雨は滝のようだった。自分の呼吸音だけが耳障りなほど大きく聞こえる。


 思考のわずかな部分しか働いていないまま、おれはアオサギ亭に戻ってきていた。あまりに濡れていたので中に入るのをためらっていると、窓から見えたのか、女将さんがドアを開けてくれた。


「裏からお入り。わかるね?」


 とぼとぼと厩の横を通って裏に回り、裏口を開ける。中に入ると、ちょうど声が聞こえた。


「ヌンさん、坊が帰って来たよ」


 女将さんが階上に向かって声を張り上げていた。戸口にたたずむおれに気づく。


「お湯が沸かしてあるからね。今は誰もいないから、独り占めしてきな」


 大きな柔らかい布を持った手がおれを包んだ。


「まったく、とんでもない雨さね」


 この雨は普通じゃなかった。やむ気配はなく、ますます勢いを増していく。屋根を打つ音は巨人の手が叩きつけてきているようだ。冗談でなく、穴が開くのではと見上げてしまう。


 この降りようでは、あの洞窟は誰かが到着する前に沈んでしまうかもしれない。さっきが最後の機会だったのだ。イシュチェルとセラプトは、それを不意にした。無知だからだ。おれのせいじゃない。


 おれは濡れてまとわりつく服を脱ぐと、湯がたまった木枠の中に身を沈めた。温かさはすぐには感じなかったけれど、徐々に足先がちりちりするように温もっていく。


 唇の下まで浸かり、考えた。尋常じゃない雨の様子に、竜の怒りだと言い出すバカがいるのもうなずける気がした。でも雨が竜の怒りなら、それは何に対しての怒りだろう? 


 眠りを妨げたから? でも地割れは人間のせいで起こったわけじゃない。竜はなぜいま姿を現したのか。


 もしも竜さえ出現しなければ、おれはイシュチェルとセラプトがいる洞窟に戻っただろうし、街であれこれ買ってきては、彼女を喜ばそうとしただろう。


 頃合いを見てまた街に誘い、いつか洞窟から抜け出してノムアに住みたいと密かに計画を立てていく。それから飛行船にだって乗っただろう。イシュチェルとセラプトと一緒に空から眼下を見下ろすんだ。そこには瑠璃色の海が広がっている……。


 おれは頭のてっぺんまで湯につかり、一気に立ち上がった。温もったはずの体は、湯から離れた瞬間から芯から冷えていく。


 暖簾をくぐるとそこは脱衣場だ。いつからいたのか、ヌンが籐椅子に腰かけていた。乾いた着替えの服を持ってきてくれたらしい。


「腹すいたろ。部屋にシチューがあるぞ」


 隅っこによって、もそもそ手ぬぐいで水気を拭っていたら、水滴が落ちていた髪を大きな布でガシガシとこすられてしまった。


「風邪ひくぞ」

「熱は出したことがない」

「丈夫だな。でも今回はわからん」


 部屋に入った瞬間から、美味しそうな匂いがした。でもおれは何も食わず毛布をつかむと床で丸まった。


「おい。ベッドを使ったらいいぞ」


 肩を揺すられたが無視する。寝袋を使え、と軽い布がこすれる音がしたが目を閉じて、動かなかった。嘆息が聞こえる。


「寒いか?」


 物をどかした様子のあとマッチを擦る音がした。薄目でこっそり見ると、壁面に備え付けてある小さな暖炉に、ヌンが火を入れていた。 


「まったく。反抗期かね。成人したんじゃなかったのか」


 それからヌンは「うまいうまい」と大きな声でいいながらシチューを食べていった。胃の奥のほうが収縮して腹がすいたと嘆いていたが、おれは身動きせずにいた。


 眠りと目覚めの狭間で雨音を聞きながらうつらうつらと思考がめぐっていく。イシュチェルの笑顔を、おれは見たことがあっただろうか。見たような気がするのは、おれの思い込みで、幻覚で、本当は煩わしく、追い払いたいと顔を歪めていたんだろうか。


 楽しく火を囲んだ記憶も。ハムやソーセージを焼いた記憶も。真剣に料理を見つめる彼女の横顔も。あれはおれの願望が生み出した偽りだったのかもしれない。


 卵にひびが入り、中から出てきた小さなヘビを友だちだと思って連れまわし、束縛して自由を奪っていたのが、おれだったのか。


 セラプトの白い体に傷をつけたのはおれで、人目の恐ろしさを教え込ませたのもおれで。それはひとりぼっちになるのが嫌でしたことで。そうだ。ひとりが寂しくて、おれは自分より弱いものを欲しがったんだ。支配しようとしたんだ。逃げ出さないものが欲しくて。おれを捨てないものが欲しくて。


 結局。


 イシュチェルもセラプトも。おれの家族ごっこに付き合わせていただけなのだ。おれひとりだけが満足する、そんな家族ごっこに。


 雷鳴と地響きがした。それから笑い声が聞こえたような気がしたんだ。おれを指差し、あざ笑う声が。なんてバカなケセド。なんて愚かなケセド。


 でもおれはもう過ちは繰り返さない。セラプトとイシュチェルは、おれとは関係のない存在になった。そうだよ。おれはもう外れ者のケセドじゃない。罪人の子で、虐げられて当然で、耐えて耐えて耐え続けて暮らしていかなきゃならないケセドはいなくなったんだ。


 おれはイシュチェルたちとは違う。異形な点など何もない。あるのはどこまでも無限に広がる未来だけだ。おれは何者にもなれる。惨めな時代は終わった。


 瞼を閉じていてもわかるほど雷が強く光った。どうしようもない恐怖感が一度全身を満たしたが、跳ね返るようにすぐ、縄から抜け出たような爽快感が駆け上ってくる。


 とても穏やかに眠れるような気がした。縮こまっていた手足を伸ばす。ゆっくり呼吸をした。暗闇は雷鳴で点滅を繰り返している。雨はまだ降っていた。まるで竜の雄叫びのような風がうなる。


 ふと。この雨が竜の怒りだとしたら。なぜ竜が怒り狂っているのか、その理由が脳裏に閃光した。でも、おれはすぐにその考えを追い払った。


 バカげている。そんな迷信、おれは信じない。おれはククスに住むケセドじゃない。あの忌まわしい呪縛から解放されたんだから。おれはもう、供物ではない。


 そして。


「晴れたなあ」


 窓を開けて身を乗り出したヌンが空を見上げる。おれは毛布に包まったまま上体を起こした。


「晴天だ。見ろ。綺麗な青空だ」


 太陽はまぶしく。青は濃く、遠く。


「今日は飛行船も飛ぶだろう。さあ、朝飯食って出勤だ。なあに、あの料理長は面倒見がいい。ペコペコ謝っとけば逃げだしたことだって許してくれるさ」


 どんと背を叩かれる。


 テーブルには、こんがり焼けた丸パンと昨夜の残りのシチューが温めなおして置いてあった。ヌンがマグカップに牛乳を注いで渡してくる。


「ココアだ。飲め。コーヒーより甘いぞ」


 のどが渇いていたから一気に飲んでしまった。その甘くほろ苦い味は、一生記憶に残るだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る