竜姫の身代わり供物の青年は、岩場で青色の髪の少女と出会う

竹神チエ

第1話 森の集落 ククスに住むケセド

 夜が明け始めたらすぐわかるように、屋根裏部屋の押上げ窓は開けたままだった。


 おれは物音一つ立てないよう神経をとがらせながら起き上がると長持ながもちの上にある丸籠をのぞく。


「セラプト、お前もあいさつしに行くか?」


 アシアリヘビのセラプトは前足をぴーんと張り、小さな爪がついた三本の指を広げて反応したが、気だるげに寝返りをうって丸くなる。彼はまだ眠いらしい。軽くセラプトの白い肌をなでてからはしごに向かう。


 身を屈めていないと頭をぶつける低い屋根裏がおれの住処だ。といっても、持ち物は限られている。隅にある敷物と掛け布、わずかな衣類は誰かの着古したものばかりで枕代わりに重ねているだけ。


 ここはジジ様の屋敷にある屋根裏で物置だ。古びた棚には書物や巻物が詰まれ、使わなくなった食器が壁際に無造作に重ねてある。仕立てられる前の木綿や麻生地の束をまたぐと下に行くはしごがあって、軋ませないよう慎重に下りた。


 木材と藁を組んで作った屋敷は、歩けばすぐ音を立てる。なるべく基礎の上を歩いて静寂を壊さないようにした。誰か起き出したらと思うとそれだけで身がすくんでしまう。


 ジジ様の家族に見つかって良いことなんて一つもない。おれは影のように存在したかった。そこにいてもいい、でも取り立てて目に留まるわけじゃないただの家具や柱が作り出す影みたいに。


 炊事場の下り、裏木戸から外に出ると、ひんやりとした夜の冷気が残っていた。畑では赤い花をつけた赤栗南瓜が緑豆を侵略する勢いで生い茂っている。通り抜けていくと朝露が素足を濡らした。


 集落は寝静まって見えた。けれど薄暗さに紛れて誰がどこで見ているかわからない。屋敷の外に出ても気は抜けない。告げ口屋はそこら中にいるから。


 それでも軋んでばかりいる屋内よりは早く動ける。なるべく裏通りを選んで足早に移動した。もたもたしているうちに、ヌンが集落を出てしまったら。焦るけれど一心不乱には駆け出せず、人目を気にしながら森に行く。

 

 集落の境界線を示す柵の近くに赤毛を無造作に束ねた頭を見つけ、焦りと恐怖も吹き飛んだ。黒髪しか住んでいない場所で、あの紅葉そっくりの赤毛はひとりだ。


「ヌン!」


 ラバが引く荷車にたっぷり膨らんだ穀物袋を積んでいた大きな背中が動きを止めた。用心深く振り返った男の顔が、手を挙げるおれに気づいてしわくちゃな笑顔に変わる。


「ケセド。来てくれたのか」

「あたりまえだろ。もう出て行くなんてさ。いつもはもっと長くいるのに」


 すねた声音になってしまう。行商人のヌンは集落を出てしまうと次はいつ会えるかわからない。特にヌンはあちこち気まぐれに移動している物売りだからなおさらだ。


「祭りには出たくねぇからな」


 ヌンは背を向けると全く緩んでいない荷台に渡してある紐を確かめ、大人しく待っているロブの背を叩いた。ロブは縮れ毛の珍しいラバだ。商売の品物は毎回変わるけど、このロブだけは三年前も八年前も同じだった。長いまつげが利口そうな茶色の瞳を縁取っている。


「新しいジジさまなら、ヌンが明日、集落にいても気にしないよ。先代とは違うからさ」


 おれは気を引きたくて明るくいった。


 先代のジジ様なら伝統ある水神祭に異邦人が混ざっているなんて許さなかったはずだ。何でもない日でもヌンが集落のみんなと話しているのを見かければ、顔をゆがめ汚らわしい物でも見るような態度だった。


 でもヌンはいつも珍しいものを集落に運んでくれる。だから仕方なく立ち入りを許可していたんだろう。


 ヌンはいつもジジ様に一番良い物を贈り物していた。細やかな細工が施してある肘掛け椅子や異国の植物の絵柄が入った陶磁器、子どもが遊ぶような人間そっくりの巻き毛の人形も、ジジ様の部屋に飾られて色あせるままだった。


 だけど代替わりした今のジジ様はそこまで閉鎖的な頑固者じゃない。今回もヌンの訪問を喜び、笑顔で会話し酒を交わしていた。


「お前はこの三年ですっかり大きくなったな」


 ヌンはまたがっしり固く結ばれている荷台の紐を確かめると、おれの頭を分厚い手で押さえつけるようになで回した。重くて首が曲がりそうだ。


「当たり前だろ。おれだって大人だ」


 胸元に下がる首飾りを見せるよう胸を張った。鹿の背骨と縞模様の数珠玉を連ねて作った飾りは成人の証だ。ククスで生まれた男の誇りでもある。


「ケセドも十八か」


 ヌンはちょっとだけ寂しそうに目尻を下げた。


「最初にお前を見た時は猫のように小さかったのにな。今じゃおれと変わらねえ背丈をしやがって」


 ヌンがまた頭をなでようとするから、おれは笑いながら避ける。


「よせよ、大人だっていってるだろ」

「生意気な野郎だ」


 ヌンが頭のてっぺんからつま先までじっくり見てくる。くすぐったい視線に、おれはまた祭りの話を持ち出した。


「今年の水神祭はククスから供物が出るんだよ。他の集落のジジ様たちも集まる。すごく盛り上がるはずなのに」


 ヌンを引きとめたかった。もっとここにいて欲しかった。


 森にある五つの集落が五年ごとに持ち回りで開くのが、水神祭だ。今度ククスで祭りを見られるのはうんと先になる。


 でもヌンの温もりのある目が警戒に満ちたものに変わって、おれは言葉を間違えたんだと気づいた。


「ケセド」

「今年の水神祭は」


 おれは焦って付け加えた。


「おれも『竜の胃袋』まで行けるはずなんだ。ここを」

 境界線を示す柵を指差した。

「出て行く。成人したから。みんなと行くんだよ」


「そうか」


 ヌンはおれのほうを見ようとしなかった。なだめるようにロブの長い首筋をさすっている。


「ヌン」

「お前さんところの供物が酒や果物だってんならおれだって楽しめただろうが」


 うなるような低い声。それでも周りに耳をすませ、他に誰もいないことを確かめた。おれは声をひそめて辛抱強さを見せようとした。


「供物は名誉なんだ。おれたちとは違う存在だよ」

「おれたちってのは」


 ヌンはやっとこっちを向いた。でもそこに温もりは失せていた。


「お前さんたちのことか? それともおれも入ってんのかね」

「……入ってるよ、ヌン。おれとヌンは友だちだろ?」


 ヌンは肩をすくめた。返事はそれで終わり。


 でも仕方ない。大陸を旅してまわっているヌンにとって、おれたちがやる水神祭なんて古臭くてバカらしいんだろう。おれたちが供物をどれだけ大切にして特別な存在として育てているか、理解なんてできないんだ。


「お前にこれをやろう」


 ヌンは肩にかけていた荷袋からひゅんっと何かを投げてよこした。受け取ったそれは固くて冷たかった。


「これってソーダ水だよね」

「ああ。好きだろ? またズンダに盗まれるなよ。隠れて飲め」


 夏空を溶かしたような色をした瓶に入った弾けるソーダ水。ククスでは瓶も甘い水も珍しかったから、ソーダ水なんて奇跡みたいな飲み物だ。


 おれは嬉しくなってソーダ水の瓶を昇り始めた朝日にかざして眺めた。陽光がガラスを照らす。ヌンが教えてくれた。この瓶は『紺瑠璃色』だって。瑠璃は海の色だ。


「ヌン。ありがとう」

「ケセド」


 瓶に見惚れていたおれは、いつになく真剣なヌンの声に頬をはたかれたようにびくりとした。


「ククスを出たいと思ったことないか?」


 ソーダ水をもらった喜びであがっていた口角が自分でもわかるほどひどく下がった。


「ないよ。おれはかあさんとは違うから」

「そうだったな」


 ヌンは目を伏せ、草を食んでいたロブの背中を叩いた。ゆっくり歩を進めるロブ。荷台の車輪が回り出した。


「じゃあな、ケセド。また会おう」

「今度は祭りの年じゃないときに来て」

「ああ。いつもは覚えてたんだけどな。一年、間違えちまった」

 

 笑顔で手を振り荷車を引いて去っていく行商人。おれが一生行くことの場所へ、いとも簡単に踏み出していく。それがヌンの日常だから。


 ヌンが見えなくなると、またソーダ水の瓶を陽にかざした。


 うっそうとした森は知っていても、打ち寄せては引いていく波の動きや、空の色を映す広大な海の姿をおれは知らない。見たことのある水源は森の湧き水だけで、細い筋になって流れ落ちてくるだけだった。


 森には五つの集落があるけれど名前を知っているだけ。おれはククスから出たことすらない。このちっぽけな土地がすべてだった。


 ヌンは次、いつ来てくれるだろう。そのとき、おれは何歳になっているだろう。


 太陽が集落に降り注ぎ、人々の朝が始まっても、おれは集落の端っこに立っていた。


 荒削りの木と乾いたつる草で組み立てた柵はもろく、触るとすぐに壊れそうだ。でもそれがククスと外の世界とを隔てる境界線。無断で出ることは禁じられている。


 それは絶対の掟で破ればそいつは罪人となる。これは何よりも悪しき罪だった。

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