はざまの底 作:奴
帰り道にある古い二階建てのアパートの石塀の陰に隠れていると、どうも自分が完全な孤独のなかに陥ったような気がしたが、それは雪雄にはかえって喜ばしかった。世界のなかの無際限に広がる野原のまんなかの洞穴にいるということが幸福にも思えるのだった。ランドセルは背負ったままだった。日当たりが悪く、足元の地面は苔が生え、湿っている。アパートの雨染みが汚かった。
結局、時田と島川はこちらには来なかった。公園のほうに行ったのだろうか、と雪雄は思った。道は静かだった。一人も通っていないのだ。車も自転車もない。その静けさはかえって、塀の陰にしゃがみこんでいる雪雄の胸に障った。彼はだんだん息苦しくなった。
社会のなかに生きていると、どうも噂というものを好んで味わう人に出くわす。この手の人間は、情報の真偽をたしかめたいというよりも、ただ他人の心を引き寄せる噂を広めて自分が情報の担い手になりたいのである。自分は何でも知っているのだと誇りたいのだ。自己を大きく見せたいのだ。
小学校で広まる噂は、職場や家庭のものとはずいぶん異なる。誰が首を切られる・昇進する、角の家に住んでいるじいさんはどうやら老人ホームに入ったらしい、などという噂は小学生とはまったく(あるいはほとんどまったく)無関係だ。すくなくとも興味を持つものではないだろう。かわりに恋愛話や怪談が噂となって会話を席巻する。二組の田中はどうも一組の吉川のことが好きらしい・五年生のカップルが校舎裏でキスをしていた、等々。
そのときはある怪談が広まっていた。怪談というより都市伝説というべきか。
≪間違い探しに失敗したやつは地獄に連れていかれる≫
≪間違い≫とは、言い換えれば≪時空のゆがみ≫だ。今まで見たこともない近所の路地・マンションのあるはずのない十一階・地図にない駅など、存在しないはずのものが現れたとき、それは怪異が人間を異界に連れこもうとしているのだ。だからそうした≪間違い≫を探し出して、連れていかれるのを回避しなければならない。
ほんとうにそんな場所があるのなら、学校よりよほどましかもしれない。
雪雄は、そうした真偽の値踏みをされないまま、その印象だけで拡散されてゆく噂のために、同じクラスの時田と島川に目をつけられた。どこからともなく噂が立ち、伝播する過程でゆがめられ、誇張が入り、より衝撃を与えるよう脚色が織り交ぜられ、雪雄をありもしない罪で糾弾するものになった。噂の範疇では、雪雄は残酷な性犯罪者という位置づけだった。
その日、≪成敗≫のために時田と島川は雪雄を人目につかないところで殴ってやろうと企て、彼のあとをつけた。別に二人は当の噂を作ったのではない。もとより彼に恨みを持ってもいない。ただそこに噂があり、正義の喚呼を大義名分に彼を殴れると踏んだのだ。つまるところ、二人はそのころ自己の生に猛烈に飽いていて、かつ力がみなぎっていたから、積もったきりだんだんと鬱憤に転じている我が身の精力を発散したかった。そのはけ口に雪雄はちょうどよかった。
二人がつけていることは雪雄にすぐ知れた。学校から出てすぐ、家の方角が違ったはずの二人がどうも自分と同じ道を歩いていると気がついて、自己の身が危ういと悟った。それで曲がり角を過ぎたとたん、いちもくさんに駆けてぜんぜん知らないアパートに身を隠したのである。
道に人の気配はない、しかし自分が出てくるのを彼らが息をひそめて待っているとしたら、のこのこ出てきた自分は、ずいぶん滑稽に見えるだろう。すると雪雄は思いきりよく帰途につくことはできなかった。その古い・妙なにおいのするアパートの敷地で体を小さくしたきり、彼は立ち上がれなくなっていた。
いよいよ思い立って道に出たのは、それから三十分ほど立った五時過ぎ。ふつうならもうとっくに帰宅している時刻だった。母に怒られるのだろう。雪雄は平生使っている帰り道を、何度も振り返り、行く手に目を凝らし、四つ角を素早く抜けながら、どうにか家のある築浅のアパートに着いた。さいわい二人には出くわさなかった。
それからである。安堵してエレベーターに入ると、ドアが閉まるさなかだった、雪雄はエレベーターの行き先階ボタンに九階があるのを発見した。アパートの最上階は八階である。
九階?
雪雄の家族の住む七階に箱が昇ってゆきながら、彼はそのぜんぜん記憶にない九階を数秒見つめた。増築などされているはずがない。
――≪間違い≫だ。雪雄は気づいた。
それがひらめくやいなや、雪雄は迷わず九階のボタンを押した。その算用数字が黄色に光る。
七階で一度、エレベーターは止まった、が、雪雄はそのまま閉ボタンを押した。エレベーターを出てすぐの廊下から見える見慣れた町の景色はドアに阻まれる。箱はまた上昇する。八階。ほんとうならこのアパートはここが最上階。違う。箱はまだ昇る。九階。ドアの向こうに景色がある。闇はない。
≪間違い≫だったのだ。
出てみると、噂で言うところの≪地獄≫から想像していたところとは、ちょっとようすの違う場所に着いた。地下街のようだった。天井は低く、管が無数蔦のように這ってある、壁も床も汚れた黄色である。そして、学校の廊下ほどに細長い。向こうまで延々と伸びていて、見えるかぎり行き当らない。においがあった。
雪雄は何か肩透かしを食らったように、瞬間、いら立った。ここは地獄などではない。ほんとうはもっと、目を凝らしても何も見えない暗闇のような場所を思い描いていた。
しかしそこは紛れもなく、≪間違い≫を介して行き着いた異界だ。ぼくは引きこまれたのだ。雪雄はそう感じた。
エレベーターの箱はまだそこに止まってあった。液晶の階数表示には九階とある。ただ戻ってよいものか。
雪雄はその細長い回廊を進んだ。フォンフォン・ゴウゴウと何かが鳴っている。
歩いてみれば足元ではぼん・ぼんと床のすぐ下が空洞であるようにくぐもった響きを成した。両側は向こうまでずっとシャッターが降ろされている。ただ年季の入ったにおいはたしかにした。油とか生ごみとか、あるいはさまざまな食べもののにおいが混じってできたにおい。雪雄にはけして嫌いなにおいではなかった。そして、生ぬるかった。
ふと振り向けば、もうエレベーターははるか遠くにあった。ずいぶん歩いたのだ。ただ何も見つからない。
きっとどこかの古い商店街なのだろう、と雪雄は推理した。どういうわけかぼくはここまで飛ばされたのだ。しかし何か目につくものが一つくらいあってもよいだろうと思った。
するとやはりここは≪地獄≫だろうか。≪間違い≫に気づきながら、好奇心とか、あの二人から逃げたい気持ちとかのために入りこんでしまったここは、あの世への通用口だろうか。いやそれとも――雪雄は思い当たった――どこまで行ってもたどり着けない無窮の迷路のなかに迷いこんでしまったのか。もう帰れないのか。
雪雄は不安に駆られた。よもやこんなに味気ない、ただ何となく不気味なところに閉じこめられるとは考えもしなかった。もう帰りたくなって引き返そうとした。
背後は壁だった。
あれ。
壁は背後寸分の隔たりもないところにあった。エレベーターのところから出発して、ずいぶん遠くまで歩いてきた、と雪雄は今しがた考えた。どこかいいところで引き返すべきなのだろうと冷静になりつつあった。ただエレベーターはなかった。壁だ。もと来た道は壁で塞がっていた。天井や床と同じ、くすんだ黄色の壁。触ると、べたついた。
まずい。雪雄は壁をひとしきりたたいた。床の頼りない感じに比べると、壁は固く、絶対的だった。響くような音はなく、コンクリートなどが密に詰まってあるような音がするばかりだった。たたくほどはっきりと手に痛みが増していった。たしかな壁だ。帰れない。
雪雄は焦った。それで進んでいた道を今度は走った。ランドセルが揺れ教科書が揺れる。どこに行き着くのか、知らない。このまま走りつづければどこかに行き当るのか、無理かもしれぬ。なるたけ速く走ろうとするほど、床は大きく響き、抜けそうだった。ボン・ドドン・ボン・ドドン・ダタ・ダタ。雪雄はとうとう疲れて、また歩きだした。もう息が切れていた。背中のランドセルが走るたびに揺れるのが悪い。なかで教科書や筆箱が跳ねる。よけいに疲れたようだ。
それで振り向くと、すぐそこに壁があった。
壁だ。
息を切らして喘ぐあいだ、そう考えるほかなかった。目下、絶望感はなかった。
それでずいぶん歩いた。足が痛んできて、歩くのもめんどうになってきた。けれども雪雄は歩きどおした。時田と島川のことはぜんぜん頭になく、親に怒られるかもしれない、いやひょっとすると心配されているかもしれない、という焦りもなかった。歩かねばならない。とにかくどこまでも歩いていかねば、どうもまずい気がする。ゆっくりと進みながらに、雪雄の思考は淡くかたちを失っていった。まとまりのない色の塊が脳裡に浮遊していた。足元の音もランドセルの重みもなかった。足は止まらなかった。喉も不思議に渇かない。ただおりおり背後を見て、壁がどこにあるだろう、どこまで迫っているだろうと不安がった。壁はまだ遠く離れていたり、しばらく歩いてから振り向けばまたすぐそばまで来ているときもあった。ただもうその壁に手を振れようとも思わない。諦めて、また歩く。
シャッターの並んでいた壁の、ある一面だけは開いていた。行き着くと、そこが休憩スペースだと知れた。こげ茶色の木の机が三つほどあって、椅子も机ごとに二脚ずつくらいはあった。駄菓子屋がやれそうなくらいの広さはある。
ようやく座れるところに来た、と雪雄は安心して、ランドセルを机上に置いて椅子に座った。一息つけた。
しかし困ったことに、時間がわからなかった。時計がないのだ。腹が減っていないことからすると、案外何時間もかかっていないのだろうか。しかし喉が渇かないままであるのはどうも奇妙に思えた。あれだけ歩いて足は疲れているが、ほかには何の不快もない。唾は繰り返し舌の裏から出てくるし、水が欲しい気分でもない。お菓子の一口も食べたいとは思えなかった。
時間がわからないというのはたいそう不安にさせる。今来た道もその休憩スペースも、天上にはところどころ白熱灯があって明るい。日の光などありはしない。雪雄は子ども用の携帯電話も持たされていないから、時を知る手立てはいよいよ何もない。そういう意味では、寂れた商店街のようなそこは沈黙していた。雪雄に何をも教えてはくれなかった。
雪雄は無性に寂しくなって、とめどなく涙が出た。ぼくはこのわけのわからない地獄にいつづけるんだ、もう出られはしないのだ、と思うと、こぼれる涙もせきあえず、ただ母が恋しくなった。お母さん、お母さんと呼んだ。天井の管がゴオゴオ言っていた。
いつまでそうしていたかわからない。雪雄は泣き疲れて我知らず眠っていた。目覚めたときには体の疲労感は抜けていた。気分はいくらかよくなった。ただ腹は減らないし喉も乾かない、周囲はぜんぜん変わりない。
雪雄はそこを動きたくなくて、国語の教科書を引っぱり出すと、授業で扱っていない物語を読んでみた。文章を読むのは苦手だが、どうにか読み進めた。砂漠をさまよう男が、ほんとうの幸せとは何だろうと考える筋の物語だった。砂漠に一人ぽっちの姿を想像すると、はじめて喉が渇いたような気がした。
ふだんまるで目を通していなかった社会の教科書を丁寧に読んでいると、外の道から音がした。つっかけを引きずって歩くような音。雪雄はそれに気づいた瞬間、慄然とした。直感的に、連れていかれる、と思った。ただ恐怖を抱くとともに、半分本能のようにして無意識に振り向いたとき、もう音の主はもと来た道のほうから姿を見せた。母親と年近そうな女だ。
「あれえ、雪雄くん」と女は言った。隣町の公園で息子の友だちを見かけた、というふうな驚いた声。雪雄には誰だかわからない女だった。
「どげえしたん、こんなところで」
「ここどこですか」
「なん、わからんと来たん?」女はもう恐れることは何もないとわかりきっているように笑む。
雪雄はうなずいた、それから、「おばさんは(お姉さんと言い換えようとして止して)、あの、誰ですか?」
「お母さんの、雪子さんのお友だち。ママ友」
雪雄はうなずいてみせたが、やはり知っている人ではなかった。
「お腹空いとらん? ここまで遠かったやろうに、ねえ」
女は雪雄に対座した。手にしていた折り畳みのエコバッグと財布を机に置いた。雪雄は卓上のランドセルを足元に置いた。
「お買いもん?」
「そう。晩ごはん。ハンバーグ作るんよ」
ふうん、と雪雄は言った。ハンバーグ。食べたいとは思えなかったから、まだ空腹ではないのかもしれない。
雪雄は女の顔をうかがった。女は頬杖をついて、ぽかんと物思いにふけっている。あすの晩ごはんを決めているのか、これから買うものを思い出しているのか。その顔に化粧はされていない。目の下のくまが濃く、見れば見るほど、目尻のしわややつれた表情や、どうしようもなく疲れた感じがわかった。顔を眺めているこの瞬間も女はしだいに老けているようでもあった。目が生きていない。
「どうやったらここから出られるん?」と雪雄は尋ねた。
んん、と我に返ったように女は雪雄を見た。
「ここぱあっと歩いていったら、出られるよ」
「そうなん」
「うん」
「え、じゃあ、ここどこなん」
「ここ?」
「うん」
「ここは楽園よ」と女は言った。
「楽園?」
なんかね、と女はゆっくり言った。ここにおると、嫌なこと忘れてぼおっとできるんよ。おばさんもようここに座って考えごとするんやけど。どっかで看板見んかった? ここ、楽園ちいうんよ。あれ、楽とか園とか、もう漢字習ったんかね、読める? 習ったか、さすがにそっか。
そろそろ行くわ、と女は立ち上がった。雪雄は見送ってはならぬと思って女のあとをついて行くことにした。怖いけれど、たぶん、別れてはいけないはずだ。そういう気がした。
「いいけど、雪雄くん、お母さんに怒られん?」
「だいじょうぶやけん、いっしょ行こ」
女はわかったとほほ笑むと、雪雄がもと来た道のほうへ出ていった。雪雄は、繰り返し自分の背後まで迫ってきた壁を思い出して、「あれ、そっちから行けるん?」
「そうよ。あれ、雪雄くんはこっちから来たんやなかったん?」
雪雄は曖昧な返事をしたきりだった。
いくら歩いても壁はなかった。雪雄がさんざん歩いてきた道ははるか先まで見とおせた。むろん両側はシャッターが並んでいる。天井には長い長い管がある。どこから来てどこに行くのか。
エレベーターにたどり着けるだろうか、家に帰れるだろうか、と雪雄は不安がった。女は、学校はどう、と取るに足らないことばかり訊いてきた。口もとには終始、笑みがあった。
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