第3話

 ハオランにキスをされ始めて、また朝が何回か来て夜が同じ回数だけ来た。

 あの日から、なぜかハオランはルォシーとのキスがお気に召したようで、何かにつけて口づけをしてくる。


 いったいなんなのだ、本当に。


 それが嫌ではない自分もいて、それも混乱の元だった。


 確かに、最初は驚いた。

 キスなんて人生で初めてのことで、自分の唇とは違う感触を感じることがこんなにも心を安心させるものなのか、と本当に驚いてしまった。

 今日だって、花売りに行くルォシーを引き留めてまで、ハオランはキスを求めてきた。


 戸口に立ったハオランを抱き上げるようにして腰に手を回し、優しく柔らかくキスをひとつ。


 誰かに見られたら、という不安は、朝が二回来た頃に諦めた。


「はぁ……」


「あいかわらず辛気臭い顔してんな、ルォシー」


「うるせーよ」


 大通りのへりに座っていつものように花を溜め息と共に売っていると、気楽な声が横から聞こえた。

 そちらを見ると、ルォシーと大して変わらない風貌の男がひとり立っていた。


 彼の名前はリースゥ。ルォシーの昔馴染みである。


 とはいえ、小さいころに一緒に遊んだ、親同士が仲良しだった、などの関係ではない。たまたま生家が近く、年齢が近かったため何かにつけて横に並べられていただけで、友情も特にない。

 こうして自分で稼ぐようになってからは、できれば絡みたくはない相手だった。


 だがそう思っているのはルォシーだけのようで、向こうはまったく気にせずルォシーの横に座ってきた。短い緑髪を揺らしながら、リースゥはルォシーの花籠を見つめてくる。


「さっきから見ていたが、その花籠はどうしたんだ? いつものお前の汚い花じゃなくなってるし、珍しく売れてるし」


「うっせ。言ってろ」


 さすがに、彼にハオランのことは言えない。

 最近のリースゥはなんだか怪しい商売に手を出しているようだったし、彼が鎧男たちと繋がっていないとは言い切れないのだ。

 ぶっきらぼうに「拾った」と言ったものの、長年の知り合いはそれで誤魔化されてくれなかった。


 しげしげと花籠を見つめ、そしてなんだかいやらしい顔でこちらを見てきた。


「……なんだよ」


「お前、どこの店だ?」


「は?」


 突然、なんだ。

 店とはと首を傾げると、リースゥがニヤニヤ顔のまま花籠を指さす。


「これには魔法がかけられている。そんな大切なものを、お前が拾えるような場所に捨て置くはずがない。ってことは、お前さんがどこかで誰かから渡された可能性が高い。身体を売ったんだろ? 随分羽振りがいい客じゃないか。なぁ、教えてくれよ。どこの店だ?」


 どうやら、リースゥは盛大な勘違いをしているらしい。

 しかも、一番ルォシーが嫌いな方向で。


「ふっざけんな! 誰がそんなこと……!」


「じゃあ、どうしてそんな花籠をお前が持ってんだよ。おかしいだろ、お前の魔力から考えたら」


「しつこいなぁ! 拾ったんだって!」


「ふーん?」


 これだけ花を売り続けていれば、この男の耳に入るのは必然だった。それは分かっている。だが、出どころは絶対に言えない。

 大通りをゾロゾロ歩く鎧男たちは、おそらくまだハオランを探しているのだろう。あーでもないこーでもないと何かを話しながら、ルォシーの前を通り過ぎていく。向こうにルォシーの顔がバレていないことが幸いだった。


「っていうか、何しに来たんだよお前! おれの仕事ぶりなんて、今まで気にも留めなかったくせに」


「別にぃ? ちょっと人探ししていてさ」


「人探し……」


 心臓がバクバクと跳ねている。

 こういう時の嫌な予感というのは、よく当たるものだ。


「背がうんと高くて、髪は白銀。目は赤。やけに顔のいい男なんだが、お前知らないか?」


「……知らない」


「ほんとに?」


「本当に」


 やはり、そうだ。

 あぁ、本当に嫌になる。


 鎧男たちがリースゥを雇うわけがない。彼らを雇用している人間たちが、ハオランを探しているのだろう。その雇い主は、路地に住む住人に追っ手を作ったのだ。それがこの男なのは、適格というべきか。見る目があるというか。


 ハオランが危ない。


「最近、随分懐もあったまっているみたいだし? なぁ、ルォシー。この籠は本当は誰に貰ったんだ?」


 リースゥの手が、ルォシーの肩に絡みつく。

 ねっとりとした声が耳を撫で、背筋が凍った。


「聞いてんのか、ルォシー」


「……だから、拾ったんだって」


 そう言うのが精いっぱい。

 ルォシーのそんな姿を見たリースゥは、「ふぅん」と言うと、背後へチョイチョイと指を動かした。


「残念だなぁ、ルォシー」


「え?」


「昔は素直なやつだったんだけど。本当に残念だ」


「なにが、……っ! おい! 離せよ!」


 突然、背後から首根っこを掴み上げられる。身体をはちゃめちゃに動かして逃げ出そうとするが、こちらを掴み上げているのはハオランよりも屈強な男。周囲にも似たような者が数人、ニタニタ笑いながらこちらを見上げてきていた。


 ゾッと顔から血の気が引く。


「すまねぇなぁ、ルォシー。こっちも仕事だからさぁ」


 リースゥののんきな声は、耳に入ってこない。周囲の下卑た笑いが、鼓膜を揺らした。

 これから何をされるのか、いくつも頭の中に候補が浮かんでしまって、身体が固まってしまった。


 *****


 ぴちょんぴちょんと、高い位置から水が垂れている音が聞こえる。

 軽い頭痛もする。


「ぅ……」


 ゆっくりと目を開けると、そこはどこかのあばら家で、かなり埃臭い。

 固いベッドの上に横にさせられているようだ。

 手が動かないので上を見ると、ルォシーの手はきつく縄で縛られベッド上の柵に括り付けられている。きつく縛られているせいで、じんわりと手首にしびれが走った。


「ここは……?」


「気づいたか」


 低い声が耳に届き、声がした方を見るとルォシーを先ほど持ち上げた男がいた。

 筋骨隆々で、首がやたらと太い。

 ケタケタ笑う声が更に聞こえて顔を巡らすと、ベッドの周囲にはこれまた屈強な男たちがおり、ヒュッと息が詰まった。


「その顔、今から何をされるのか理解しているようだな」


「……」


 この顔で生まれてきて長年生きてきたのだ。嫌でも理解してしまう。


「まぁ、その方が手っ取り早くていい。お前ら、準備しろ」


「ま、待て!」


「待てねぇなぁ」


 男たちは好き放題にルォシーの服を破ろうと手をかけてくる。

 それを慌てて静止したが、やっぱり止まってくれることはない。


「こ、こんなことされる筋合いはないぞ! 何が狙いだ!」


「さてね。俺たちは雇われてここにいるだけだ。上が何考えているのかは知らん」


 これは、絶望的だった。

 男の一人がしびれを切らしたようで、ルォシーの服に手をかけてくる。


「俺たちは、ここでお前をいたぶるよう言われたんだよ。おら、服脱げ」


「い、いやだ! やめろ!」


 身体全体を使って逃げようとするが、手を縛られているので大した抵抗はできない。

 ブチブチと嫌な音を立てて服が破れていく。

 もうすでに男の一人は汚い下半身を露出させていて、顔面が蒼白になる。


 嫌だ、それだけは絶対に嫌だ。


 嫌だ嫌だ嫌だ!


「《光よ》」


 脳内に直接、ハオランの声が響く。

 何が起きているのか、と理解する前に、部屋中がまばゆい光に包まれた。


「うわっ」


「な、なんだ?!」


「ぐあ!」


 光の中で、何が起きているのか分からない。

 眩しくて目を開けていられなくて、ぎゅうっと目を閉じると、突然ふわりと身体が浮いた。


「へ……? ハオラン?」


 目が開けられない。

 だが、こちらの身体を支える手はハオランのものだと確信した。

 不思議だ。

 同じ屈強な男だというのに、ハオランの腕の中にいるのは全然怖くない。

 腕も縄から解放されていて、ルォシーはハオランの首元に縋りつく。


「よかった、ルォシー。早くここを出よう」


「うん。うん……帰ろう、ハオラン」


 トン、とハオランが床を蹴った。

 空を飛んだのか、身体に当たる風が強くなっていく。


「ハオラン、ありがとう」


 絞りだすようにそう呟くと、ハオランがギュウと抱き締めてくれた。


「無事でよかった。本当に。……すぐに帰ろう。身体を休めなければ」


「うん」


「そのまま目を閉じていて。……少し、スピードを上げる」


 ハオランに言われた通り、ルォシーは目を固く閉じた。どれだけスピードを上げるのか怖くなってハオランに抱き着く力を強めると、布の感触の他に、何やらモフモフとした感触が返ってきた。

 はて、これはなんだろう?


 *****


 家に無事に到着すると、ハオランは急いでベッドにルォシーを寝かせてくれた。

 その間ルォシーは目を閉じたままだ。


「ハオラン、目を開けてもいい?」


「いや、まだだ」


 ここに到着してから、ハオランはどこか苦しそうに呼吸を繰り返している。それだというのに、こちらにかかる声はしっかりしたものだ。いや、しっかりした声を努力して出しているのかもしれない。


 心配になって、ハオランの忠告は無視してそっと目を開ける。


「っ!」


 ハオランがいた、と思ったのだが、目の前にいたのは、白銀の毛並みを持った大きな獣だった。大きく太い脚に、鋭い爪。口から見える牙も大きく鋭く、ルォシー程度なら簡単に粉砕できてしまいそうだ。

 犬のような風貌のその大きな獣は、家の隅に丸くなって荒い呼吸を繰り返している。


 あれは、なんだ?


 だがルォシーには、あれはハオランであると思った。

 慌てて起き上がって獣の近くに寄ろうとベッドから降りると、獣がギッとこちらを睨んだ。


「来るな」


「ハオラン、だよな? 大丈夫か? 怪我をしているのか?」


「来るな、と言っている!」


 彼の静止など聞かずにそっとハオランに近づくと、獣が吠える。

 だが、ここで止まれるはずがなかった。


 獣が動けないのをいいことに、ルォシーは走って獣の首元に抱き着く。

 柔らかな体毛は太陽の匂いがして、とても安心する。

 グル、と威嚇しようとした獣は、ルォシーが首元に埋まりながら「ハオラン」と言ったのを聞いて、すぐに諦めた。


「ハオラン。たぶん、おれのせいだよな」


「……違う」


「違うもんか。分かるよ」


 ここは魔力を回復させる設備がない。

 彼から感じる魔力は微々たるもので、きっと魔力が枯渇してしまったのだろうと分かった。


 彼の本来の姿が獣だったのは驚きだが。


 だがよくよく考えれば、あれだけの美貌を持った男が人間であるはずがなかったのだ。

 なんだかストンと納得できて、ルォシーはまた「ハオラン」と呼んだ。


「ありがとう、おれのために」


「……こわく、ないのか?」


「なんで? ハオランが怖いわけない」


 たしかに、こんな大きな獣が目の前にいるのは、怖いだろう。

 それがまったく知らない獣ならともかく、相手はハオランなのだ。


 近所のじいさんばあさんに愛されて、子供たちにまとわりつかれて、ベッドから落ちないようにルォシーを抱き締めてくれる。


 彼の優しさを知っているから、まったく怖くなかった。


「魔力が枯れちゃったんだよな、たぶん。回復する方法はある?」


 ここは自然回復しかできないような場所だ。こうして蹲っているだけでは、きっと人間に化けられるまで回復はしないだろう。

 もし何か方法が別にあるなら、と思って聞いてみたものの、ハオランは辛そうに首を横に振るだけだ。


「魔力は、枯れてしまったら源泉に行かなければいけない」


「なら、もう……」


「だから、ルォシー。しばらく、そうしていてくれ」


「え? こ、こう?」


「そうだ」


 首元に抱き着いていた力を、少し強める。

 苦しくないのか、と思ったが、ルォシーの力が強まるとハオランは安心したように息を吐いた。


「お前は、私の源泉だ」


「大げさすぎない?」


「大げさではない。お前と一緒にいると、とても安心する。魔力も回復しているように思う」


 本当だろうか。

 だがハオランがそう言うのだから、そうなのだろう。

 無理矢理納得することにして、ルォシーは目を閉じた。


 トクトクと、ハオランの心臓の音が聞こえる。


 妙な事件に巻き込まれた疲労が、今になってこみ上げてきた。


 温かな体毛に包まれて、瞼が落ちてくる。

 ハオランの様子を見ると、ハオランも落ち着いてきたのか目を閉じて前足に頭を乗せていた。


「(安心する……)」


 心がぽかぽかと温まってきたような気がする。

 ルォシーは誘われるまま、目を閉じて眠った。


 ハッと気づいた時、ルォシーはベッドの上にいた。


 ハオランは、と慌てて起き上がろうとして、後ろから強く抱き締められていることに気づいた。

 そっと後ろを見ると、深く眠っているハオランが人間の姿でルォシーを抱き締めていた。


「(戻れたんだ……)」


 そっと寝返りを打ってハオランに触れる。

 最初に感じたような、溢れ出る魔力は感じないものの、先ほどよりは少し回復したようだった。

 穏やかな寝顔だ。


 嬉しかった。


 苦しまず、心穏やかに寝ていることが、とても嬉しかった。


 そっと彼の顔に触れる。

 まだ少し乾いたような感触があり、本調子ではないのは分かった。


「ハオラン」


「……なんだ」


「っ! 起きてたのかよ!」


「あぁ、すまない」


 そう言いながらも、ハオランはルォシーを抱き締める力を強めてきた。


 彼の逞しい胸筋に顔が埋まる。

 その合間から抜け出して、ルォシーとハオランはジッと見つめ合った。


「もう大丈夫なのか?」


「……大丈夫だ」


「大丈夫じゃないようだけど」


「うっ……」


 どうしてそんな強がりを言うのだろうか。

 ルォシーには弱い部分を見せたくないのか、とちょっと嫌な気持ちになる。


「……嫌じゃ、ないか?」


「え? 何が?」


「私が、人間ではなかったことだ」


 ハオランを見つめると、ハオランはそっと視線を外した。


「べつに、嫌じゃなかった」


 これは本当だ。


 家の隅で縮こまっていたハオラン。

 あんな姿を見てしまっては、恐怖も薄れた。


「怖くないか?」


「怖くない」


 まったく、怖くない。


 どうしてだろう。

 ハオランの背に腕を回して、どうにかこちらの気持ちを伝えたかった。こちらの思いが伝わったのかは不明だが、ハオランはほっと安心したように息を吐いた。


「こんな状況で申し訳ないが、」


「うん?」


「ルォシー、キスをしてもいいか?」


 唐突な申し出にびくりと身体が固まったものの、だがハオランの願いは叶えてやりたい。

 ハオランの手がルォシーの後頭部に回る。柔らかく髪を撫でられ、一気に頬が熱くなった。


「だめ、だろうか」


「……ダメじゃ、ない……」


 ルォシーの返事を聞いて、ハオランが上体だけを起こす。

 そっと優しく、ハオランの顔が近づいてきた。


 あぁ、キスしてしまう。


 男たちに囲まれた時、服に手をかけられた時はあんなにも怖かったのに、ハオラン相手ではまったくそんな気も起きなかった。


 チュッと可愛らしい音を立てて、キスをされる。


「嫌か?」


「嫌じゃない」


 今日起きた事件を、ハオランは気にしている。それを安心させるように、ハオランの首元に腕を回すと、ハオランは嬉しそうに微笑んで、また柔らかなキスを落としてくれた。


 二度、三度とキスをしていく中、今日はどうも終わる様子がない。

 軽いキスが、徐々にルォシーの唇を食むようなキスに変わっていった。


「ハ、ハオラン……?」


「すまない、ルォシー。止められそうにないんだ」


 そう言われても。


「ルォシー。もし嫌なら、私を殴ってでも止めてくれ」


 ハオランを殴るだなんて、とてもできない。

 こちらの困惑を了承と受け取ったのか、ハオランの顔がまた近づいてきた。


「ルォシー」


 どこか余裕の無さそうなハオランの声。

 柔らかだと思っていたキスは、途端に荒々しいものに変わってしまった。


「んぅ……ぁ、」


 突然聞こえてきた甘い声は、驚くことに自分の喉から出てきていた。

 ハオランの胸を押そうかとも考えたが、先ほどの彼の顔を思い出すととてもできそうになかった。


「は、ぁっ……んんっ」


 唇を食まれ、気づけばハオランの長く厚い舌がルォシーの咥内に入り込んできていた。

 何が起きたのか分からない。

 だが、とても気持ちがいいことだけが、脳内を駆け巡る。


 気持ちいい。


 気持ちいい。


 キスがこんなにも気持ちいいものだったなんて、知らなかった。


「ハオラン……」


「ルォシー、嫌じゃないか?」


「嫌じゃない……」


 上顎を舐めくすぐられ、歯列を一つひとつ撫でてくる。

 呼吸が苦しい。


「んぐ、んんっ」


「ルォシー、鼻から呼吸しろ」


「んぁ、ふ……ん、ん」


 ハオランの指摘にどうにか応えていくが、どうにも上手くできない。それだと言うのに、ハオランは気にせずキスに没頭していた。


 ルォシーの口端から垂れた、どちらとも分からない唾液すらハオランは舐め取っていく。


「ぷぁっ……!」


 ようやく解放されたと思えば、二人を繋いでいた唾液の糸がぷつりと切れるのが見えてしまった。恥ずかしくて、恥ずかしくて、それだというのに嬉しくて、なんとも言い難い感情が身体の中をぐるぐる駆け巡る。


「ルォシー、大丈夫か?」


「大丈夫」


「そうか。……なぁ、ルォシー」


「ん……なに?」


「この先も、してもいいだろうか」


 この先、とは。


 何を、と思っていると、身じろぎしたルォシーの膝に何か熱いものが当たった。

 驚いて下を見ると、ハオランの股間に膝が当たっている。


 この先。


 つまり、それは……


「ルォシー、すまない」


「い、いいよ」


「え?」


「この先、しても、いいよ」


 これでハオランが助かるのなら。

 ハオランが相手なら、怖くない。


 ルォシーの返事に目を丸くして驚いたハオランだったが、すぐにいつもの笑みを湛えながら「ありがとう」と呟くと、またルォシーにキスを落としてきた。

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