決戦(ティサ・ユージュ)4


 ――『英雄ラログリッドのぼうけん』。


 数百年前も昔の本が、ぼくと妹が宿としている朽ちた図書館に、そのまま完璧な保存状態で残されているのは、ほとんど奇跡と言っても良かった。

 本の内容は、かつて魔王イフラリスを打ち倒した英雄たち……その勇者パーティを率いた『ラログリッド・ユラバルデ』の勇猛果敢で勧善懲悪の物語――などではなく。


 そのユラバルデの少年期を描いたストーリー。


 ユラバルデがいかに世界を救うべく立ち上がったのか。どのような幼年期を過ごし、どのような旅を経て仲間たちと出会い、そして魔王の元に向かうに至ったのか。それが一切の脚色もなく――当然だ、この本を書いたのはユラバルデ――実際に本人と旅をした一人の吟遊詩人なのだから。

 実際に彼が見たものを、ユラバルデと共に過ごした時間を丁寧に、記憶を掘り起こように描かれているのが、このラログリッドのぼうけん、である。


 この本は最終的に魔王を倒すことになるユラバルデの話でなく、それ以前の……あらゆるものと言葉を交わす事が出来たと言われるユラバルデが、魔物や魔獣をも仲間としていき、過程で訪れる村や国の問題を解決する……人間の仲間だけではなく、それ以外の者たちをも友と呼んだ、そんな人並外れたユラバルデの歩みを章立てで書いていて、その結末は、青年期の始まり。

 ユラバルデの元にやってきた魔王顕現の一報――で、閉じられている。


 彼の足跡はとかく、魔王と戦うということに集約されがちだが、この本に限っては、そんな要素はまったくと言っていいほどになく。

 それどころか、魔王の手先とさえ言われた魔物や魔獣と仲良くしていると言う牧歌的な挿絵と展開がまとめられている始末――そして、それが、多くの国でこの本が発禁・禁書となった理由でもある。


 ともかく、ぼくの妹はこの本が大好きだった。


 とくに、魔物や魔獣と分かり合う、その過程の章がお気に入りで、何度も何度も読み返していたのを覚えている。


 ――魔物や魔獣と分かり合ってみたい、が口癖だった。ぼくたちの両親は、魔獣に殺されたのに……そんなことを言う妹を、ぼくは……どう諭したらいいのかもわからず、ただ流すように話題を逸らすだけだったように思う。


 そして、そんな妹も魔物に殺されて。


 その日は、珍しくあいつが遠出して、森の深くでのみ取れる木の実か果物を取りに行くといって……ぼくは面倒だから家にいるとか言って。

 それで、あいつは二度と帰ってこなかった。あいつを探しに行って見つけたのは、血まみれの衣服と、魔物の死体。

 もう、どこかで手傷を負ってほとんど死にかけだった魔物に……手負いの魔物に運悪く出くわした妹は。無駄に……無暗に殺されて。

 妹の手には、抱えてきれないくらいの果物が、木の実が抱えられていて。

 それで、終わりだった。

 この場所でなにがあったのか、そんなもの、考えたくもなかった。


(……………………ぼくは、)


 ぼくは、忘れようと思った。なにもかも、忘れようと思った。

 あいつのことも両親のことも、魔族への憎しみも、すべて無かったことにしてしまえば、そうすれば――ぼくの心は死なずにすむんじゃないかって、そんな風に浅はかに考えて。


 そうして、魔女と出会ったんだ。


 魔女への怒りはない――だって、ぼくにはもう、どうでもいい、それは無関係なことだって、そう思えたから。

 ただ、魔物になるのだけは――ぼくの魂が拒否していて。

 それは結局、ぼくが、捨てきれていないものがあったからに、他ならなくて。

 でも、それすらも、今は。


(ぼくは大切な人を忘れようとした。でも、この魔女は――セレオルタは、忘れようとしなかった。それどころか、)


 

 偏執的に……タミハに追いすがった。

 セレオルタは、それは本当に醜い妄執で執着であったとしても、タミハの幻影を追いかけて、彼女の事を忘れてしまう事も拒否して。

 それでも、タミハと一緒にいたいと強く願った。

 そんなの――よっぽどじゃないか。

 こいつのほうが、ぼくなんかよりよっぽど――大切な人を思う、その気持ちはぼくよりもずっとずっと人間らしい。

 魔物の女王のくせして、ぼくなんかより、人間なんかより遥かに。


「……………………う、」


 正直に告白する。

 ぼくは、魔物のことが大嫌いだ。大嫌いだった……今も、気がくるってしまうくらい嫌いで、魔物が憎い。考えると苦しくなるくらい……自分が魔物になりかけていると思うと、発狂してしまいそうになるくらい、魔物が憎い。

 だから、魔女化なんて、どうしても避けたかったけれど――


「う、ああああああ……………………!」


 ――魔物のことは大嫌いだけど、それでも。

 ぼくにとって魔物の中の魔物、魔女のことは……辺幽の魔女、セレオルタのことはそんなに嫌いじゃない、と。

 今なら、はっきりと言える。

 妹は――こんなぼくを見て。悲しむだろうか、それとも、自分が魔物に殺されてなお。こんなぼくの醜態を、喜んでくれるだろうか――


「あああああああああああああああああああああああああああああああ…………!」


 でも、もしも、ぼくが。

 魔物の最たる女王と分かり合う事が出来たなら。あいつなら、きっと――


「…………ロンジ君、気迫よしだが――」

「………………!」


 荒いな、と。

 呟くと同時、ぼくの目の前で剣が、ユクシー……ブラッサさんが抜いた刀身が、消える。

 いや違う、消えているんじゃない――速すぎて、見えない。

 それも違う――違う、違う――


「それだけの膂力があるなら、気勢は邪魔だな。頭を冷やした方がいい動きが出来ると思うよ」

「う、っ………………いっ…………」


 速いだけならば、ぼくの動体視力で確実に捉えられる。

 なのに、ブラッサさんの剣は振りかぶってからこちらに向かってくるまでのどこかで、ぼくの視界から消えてしまう――

 盲点? 呪言? どっちも違う、信じがたいけど、ただの体裁き、一種の歩法と腕の振りだけでこんな事が出来るのか――


「ふう…………」

「が、ああああああ」


 ――、同時にぼくは左手でそいつを掴んで、思い切り握りつぶして、血しぶきでブラッサさんの目つぶしを行う――が、軽く体を捻っただけで血の霧は完全にかわされてしまう。


「う、ああああああああああああ!」

「これは避けられないね」


 ――次は広範囲攻撃。ぼくは隣の壁に体当たりするように突っ込んで、抱えるようにレンガを砕いたものを集めて、それをブラッサさんに投げつける――が、身軽な感じでトントンと、壁を蹴って、彼女は上部――建物の屋上のへりを陰にしてよけきった。

 辺りは穴ぼこだらけに……同時に、ぼくの右腕も一気に回復する。


(どう、する………………!)


 狭い所よりおそらく広いところの方が有利だ。ここにはタミハとセレオルタがいる。彼女たちから出来るだけ離れたところで、ブラッサさんと戦って――あいつらが、逃げる時間を稼いで…………、


「…………!」


 ぼくは自分の両足に力を籠める。

 ――くそ、数回のやり取りだけで嫌と言う程に分かってしまう。

 あんなの、どうやったって勝てる相手じゃない……今のぼくは魔女化が進んできて、正直無敵に近い状態だと思い始めていたのに……全然ダメじゃないか、なんなんだあの人!


(あれが、〝剣境〟…………)


 ――もちろん、その名称の意味するところは知っている。

 あの『帝国』の最高戦力……剣の境に至りて、なお高きに置かれる……剣の果て。世界最強に等しい称号…………しかし、なんでそんな代物がこの国に……よりにもよってブラ……ユクシーさんなんだよ! レドワナに何の用が……あ、確か御前試合か何かがあるとか…………ああ、くそっ!


(格好つけて、セレオルタに発破かけてやったのに、早くもだっさいな…………!)


 ――そうしてぼくが、逃げろ! とセレオルタに向けて叫ぼうと思った時だった。

 この間、ブラッサさんが上方に飛んで行ってから、一瞬も経ってないと思う――思考が加速してぼくの肉体もそれに合わせて速度を上げていける事を願っていたところで、


「ロンジ、ほんの少しでいい! あと数十秒粘れ………………っ!」

「なっ…………!」


 セレオルタが立ち上がっていた。いや、立つことは別に変ではないけれど………………数十秒って、何の話だ。


「おぬしでは勝てん! われは剣境と戦ったことがある! やつらの剣技は……純粋な剣技だけならば、腹立たしいが、全快時のわれと張る!」

「…………………………」


 張る……って……お前、剣とか使えるのかよ? そんで、なにさりげなく、自分はめっちゃ強いですよその強さはマルチですよ的なアピールを差し込んできてるんだ……?

 っていうか、さっきまでグスグス落ち込んでたくせに、えらい変わり様じゃないか、ええ、おい……!


 ぼくは――少しだけ覇気を取り戻したみたいに見える、だけど明らかに焦っている……そんなセレオルタの様子がなんだか珍しくて可笑しくて……嬉しくて、思わず出る言葉も出なくなってしまう。


「――それゆえに……ってなに笑っておる! 今はふざけてる場合ではない! このままではおぬしは冗談ナシで死ぬのだ! ゆえに、少しだけ粘ってくれ!」

「お、おう…………?」

「そしたら――短い時間だが、われは元の姿に戻れるのだ! 全盛期の姿だ! 全快とはいえんが、全盛期……それならば――」

「……………………」


 それは――おそらく、こいつ自身も分かっていないのだろう、確信が持てない故の間であることが、ぼくにも簡単に分かってしまったが。


「勝てる! 凪ぎ果てるブラッサを、われならば倒せる…………だから、数十秒粘れ!」

「―――!」


 その言葉を聞き終わるか否か、そのくらいの時間差で、ぼくはすでに跳躍した。高く、高く……高すぎず。辺りを見回して、すぐに彼女を発見できるだろう、そのくらいの高さに――はたしてブラッサさんは、いた。


「おや、こちらから戻ろうと思っていたが、来てくれたか」

「こっちの方が戦いやすいので」

「それは――私も同じだね」


 隣だ。ぼくたちがいた路地裏横の建物を、さらにひとつズレた位置にブラッサさんが佇んでいた。

 その屋上は、公園のような造り……金持ちの家か? かなり広い空きスペースで、ブラッサさんはまた降りてくると言ったけれど、多分そんなつもりはなかったな、と思う。

 彼女は――ぼくと戦う為に良さそうな場所に移動して待ってくれていたのだろう。


「…………」


 逃げたいが……そういうわけにはいかない。たった数十秒だから。

 首肯せずとも、セレオルタの言葉を今のぼくは信じられるから。今のあいつになら、ぼくは自分の背中を預けられそうなくらいだから。


「では…………」

「はい…………」


 地面に降り立ったと同時、ブラッサさんが接近してくる。ぼくも、灰色の世界に突入せずに、ゆっくりと彼女に近づく。

 この人相手に灰色の世界は悪手だ。

 この人がどの程度見えているのかは分からないが、たとえ感覚的なものでぼくにカウンターを入れたとしても、実際に見て返してきたとしても、どちらにしろとてつもない事をやってくれた事実は動かない。


 ぼくはまだ灰色の世界を完全に制御出来ていない……そんな状態で時間を稼ぐ……ましてや、勝てる相手では決してない。確実に、自分の出来る事をやる。それだけしか、生き残るすべは見いだせない――


「ロンジ君、元人間への質問だけれど」

「…………?」

「今、どんな気分だい?」

「―――!」


 最初に仕掛けてきたのはブラッサさんだった。何のモーションもなく剣を真っすぐに突いてくる――速い、だけど、路地裏より明るく開放的なこの場所だからか――辛うじて、目で追えた。ぼくの集中力もかつてなく研ぎ澄まされて――


「あ、れ………………?」


 ごぶ、と。

 口元から血が……なんで、避けた、のに…………


「なんでもなにもない、避けれてないから当たったんだよ」

「………………」


 ぼくの胸に穴が開いていた。それは、ちょうど彼女の持つ、何の装飾もない、この国の百貨店で買ったかのような特徴すらない安物の刀剣――その刺突部分の、直径と噛み合っている。


「同じ軌道を二往復した。すると剣が重なって、ゆっくりと見えるだろう?」

「…………?」


 何を言っているんだ、この人――冗談だろ、まったく、ぼくの眼すら欺くくらいの速度と精度で、剣を出して引いて出して引いて、したっていうのか……それがあまりにも早すぎて、その刺突が剛速すぎて。

 残像が重なって、ゆっくりに見えた。まじ、でかよ………………


「かはっ………………」


 ぼくは避けたと思ったのに………………。まずい…………


「はあ、……………………!」


 なんとか、思い切り、転がるように身を引いて、ブラッサさんと距離を取る。


 あんまり激しく動いたから、信じられない勢いでぼくの背負った麻袋がどこかに飛んで行ったけど――今だけは、そちらを見やる余裕すらない。

 目を切ったら殺される。死ぬ。

 圧倒的に――そもそも、まずいぞ、近づけない……彼女を倒せるとしたら、戦力を削るくらいしかないと思っていたのに……近づけないなら、飛び道具、か――


「で? どうなんだいロンジ君、どんな気分だい?」

「あ……ああ? えーと……」


 ぼくは、口元を拭いながら、隠す素振りもなく時間を稼ごうとする。くそ、やばい、あと何秒だ……体感、ここまで百時間くらいに感じるけれど、今は十秒とすこしを過ぎたところだろうな――

 達人は剣を選ばないのか、ちくしょう。


「――最高の気分ですね。魔物最高って感じです。あー人間をやめるってこういう…………力が無限にあふれ出してくるわ! くくくくくく…………」

「…………嘘だね?」

「はい…………」


 本当は、家帰って寝たい。こんなに痛いなら魔物やめたい。

 そんな風に考えていました。

 そして、普段はそう思っているくらいの方が、ぼくらしいかなって。

 そう――


「ッ…………」

「君から本心を聞けないのは残念だけれど。そろそろ、私も時間がない。遊びはなしでいこう――」

「な…………」


 なにか、用事があるんですか、とか。今までが遊びというのはネタですよね? とか。ちょっとした雑談を挟む時間なんてもはやなかった。

 一足跳びにブラッサさんが接近してくる。今のところ彼女は基本的な剣技のみしか披露していない。

 底を、まったくぼくに見せてくれない。かくいうぼくといえば、灰色の世界が底で唯一の引き出しなんだから、ホントどうしようもないな――


「――ふう」


 ため息をつくような息吹で。


 ブラッサさんの剣が揺れる。ぼくとの距離は、あと三歩。それは剣の間合いからは、少し離れている距離感だけれど。それは確実に当たる。間違いなくぼくの首を撥ねる、そんなかつてない怖気――悪寒、前例なき確信――


「…………っ」


 ぼくは。

 そんなぼくはといえば、手も足も出ない。だって、一見無防備だ。大の字の間抜けな姿勢のまま、特に迎撃態勢すら取れずに流れるようなブラッサさんの接近を許してしまった――両手を広げて、さあどうぞ斬ってくださいと言わんばかりに。

 そんなあからさまなぼくに、彼女がなんの躊躇もないのは、本当に時間がなくて急いでいるからか……そんなわけはない、どちらかというと、己の対応力への信頼から来る――


「…………?」


 そんな、ブラッサさんの瞳が。

 わずかに、ちらりと――ぼくの方から逸らされる。ぼくの――おそらく、そこを斬ると言うことをわざわざ、あえて教えてくれていたのだろう、ぼくの首元に視線を送っていた彼女が。


 それは通常、剣を極めたと言える人間ならば起こり得ない、そんな刹那的でかすかなものだったけれど。


 この接面の瞬間にあって、 


 いや、もっと厳密に言うならば、ぼくから目は逸らしてはいない。ただ、ぼくの首から視線を下げて――下半身――から、もっと下げて。

 ぼくの足元に彼女が目をやったのと、爆発は同時である。

 ぼくは、自分の親指から渾身の一撃を、万力どころではないほどの力を――事実、それどころではないエネルギーはあるだろう、力をこめてこめてこめて――開放する。


 でこ、ぴんだ。


 デコピンのように――足の親指、そのつま先部分に入れていた、隠していた、小粒程の石ころを――インパクト、した。


(すごいな、ブラッサさん…………)


 こんな、普通気付けるか?

 攻撃する前に、彼女の視線はすでにぼくの足先に向けられていた。自分が攻撃している最中に、相手の――親指に目をやるほどの余裕があるなんて、おそらくぼくの体のわずかな緊張などから力点を辿って、目をやったのだろうけど――こんな、不意打ちの中の不意打ちみたいなものさえ悟られるとは。

 強すぎるだろ、剣境。

 それもこれで第四位――この人より強い人がまだ帝国には三人もいるのか。にわかには信じられないな……


「………………!」

「どうぞ」


 ブラッサさんの刮目。

 それと言うまでもなく、すでにぼくの靴を突き破って、小石はブラッサさんに直進している――彼女に向かって真っすぐに。

 最初。

 路地裏から飛び上がる時に、すでにぼくは靴の中にこの小石を仕込んでいた。その時はどうこれを活かすかなんて、そもそも活かせるかなんてまったく思っていなかったけど――結果的に、ベストのタイミングでぼくはこいつを放つことになる。

 これまで不幸続きだったけれど……この小石だけは、悪くはない思いつき、幸運だったと言ってもいい。

 狙いは勿論――


「ふう………………」


 ――息吹。

 ブラッサさんは突然下方から発生した攻撃――それも魔女化したぼくが放ったものだから、お遊びではなく、直撃すれば絶命は免れない――そんな弾丸以上の威力を持つ攻撃に対応するべく、剣をかすかに揺らして受けようと…………


「………………む…………」

「そっちじゃないですね」


 ――ブラッサさんは、今、自分の剣を、自分の身を守るために動かそうとした。ここが分かれ目だった。

 もし、いくらブラッサさんが剣の果てにいる人だからといって。

 自分よりも剣に優先順位を置く人だったら、ぼくの攻撃はおそらく成功していなかった。なぜならぼくの攻撃は、ブラッサさんではなくて。


 ――あなたが持つ安物の刀身を、狙ったものだったから。


 それゆえに、自身が攻撃されていると、ほんのわずかに逡巡してしまったブラッサさんの受けは――修正を余儀なくされて。


(………………よし……!)


 ブラッサさんは。

 人間のことが好きだと言った――それは本当に素晴らしいことで。そう本心から言えることは幸せなことで。

 そして、だからこそ。

 そんな彼女を信頼したぼくが、ここでは勝ちをもぎとった、と。

 これは、そういうこと――


「ふう………………」


 息吹。

 ブラッサさんの長い溜息のような息吹と共に、小石は――今度こそ、ブラッサさんではなく、ブラッサさんの剣に直撃して。

 それでも、最初の、攻撃の始点の時点でぼくの狙いが分かっていれば、彼女なら受け流してしまっていたかもしれないが――思考のタイムラグを持ってしまったことにより、小石の受けに失敗した彼女は――


「………………」


 弾かれるように――剣から手を離し。その剣は宙を舞い――彼女の、はるか後方に、とさり、と。

 目視はしていないが、落ちた――落下した。おそらく屋上から路地に落下した。それを、ぼくは確信する。


「……剣を失ってしまえば。あなたの戦力は大幅に下がると思いました。だって、あなたは剣士だから――」

「…………すごいな、ロンジ君」


 そうして、この場に残っているのは。数歩の距離で向かい合う手ぶらのぼくと、手ぶらのブラッサさん。

 魔物もどきと、人間の、どこか晴れやかな――そんな、構図でしかなかった。


「もう一回やれって言われたら無理ですよ。正確にあなたの剣に小石が飛んで行ったからなんとか……マグレです」


 照れくさそうに鼻をかくぼくに、ブラッサさんは息吹ではない恥ずかし気な溜息をついて、


「君が人間なら……私は求婚していたかもしれない」

「え? あ、はい…………? ん……」


 え……今、なんて…………え? これ、会話噛み合ってるのかな……突然の謎ワードのぶちこみに、ぼくはちょっと頬が紅潮して……ええと、なにを……さっきまでぼくたち、マジモンの殺し合いをしていたはずなんだけど……


「――来るのがゆっくり、という事は、君が私に殺意を向けていないということなんだろうね。凄いね……君は魔物なのに……」

「え…………いや、殺意なんて……というか、来るのが、って………………」


 ゆっくり?

 それって、いったい何の話――

 さっきから、何を言っているのか、ぼくは最初彼女と会話していると思っていたんだけど、もはやそれは……ブラッサさんが言っているのは、ただの独り言のようで――


「ロンジ君。これは何なんだろうね」

「え……………………?」


 直後――のことだった。


(ど、う……………………………………)


 どうして。なんで、という言葉が、疑問符がぼくの脳内を埋め尽くす。

 だって、今見ている光景が、それはあまりにも非現実的で、ばかげていて、とにかく、ありえなくて――

 ぼくは、それに対処できない。身動きを取ることが、まったく出来ない。


(の、ろい………………?)


 そういえば――呪いの銃、というものがあった。

『腐食の呪い』――因果な力を持った、呪銃と、あの……魔女教幹部ファイク・ザオは呼んでいた……すべてを腐らせてしまう、そんな力を持った武器が。


 ――あれは、今思えば。

 厳密には、呪いではなくて。

 呪いの特性をセレオルタの能力によって完璧に模倣した――ただ、それだけの、偽物の呪いを宿した銃に過ぎなかったわけだけれど。

 だから、あの銃もこの宗教的物質溢れる街中にあって、問題なく使用できたものだったわけだけれど。

 それでも、セレオルタの力は全てのものを作りだせる。創り出して――再現してしまう。ほとんど完全に近いものを…………ともかく。

 そうではなくて、呪いを持つのは人だけではなく、武器もまたあり得る、と、これはそういう話で――


(………………あれも、)


 あの………………今、…………さっき、確かにぼくが吹っ飛ばした、ブラッサさんの刀剣も、そういうもの、だった――と。これは、そういうこと…………


「な……………………」

「ふう」


 ちゃきり、と。音がして、そちらを見もせずに、ブラッサさんはその、飛んできた刀剣を――その手に抑えて。脱力したまま、まだ構えずに、ぼくのほうを見つめる――


「呪い……何らかの、呪いを持った剣……ですか…………」

「いや、違う」


 予想に反して、そんなブラッサさんは困ったように笑って。手に持った刀剣を見やりもせずに。


「どんな刀剣でも――。私が剣を持っていなければね。一番近いところから剣が私のところに運ばれてくる…………」

「……………………、………………?」


 なに、を………………


「それは……、ブラッサさんが、そういう呪いを持っている、と…………」

「残念だがそれも違う」


 もう一度首を振ってブラッサさんは。


「私は呪い持ちではない。ただ、物心ついた時から――こんな風なのだよ。勝手に剣が寄ってくる。私の元に寄ってくる。大方、この剣も、さっき地面に落ちたものを、そこらの通行人が拾ってこちらに投げ返してきたとか、そんなオチが付くんだろうが…………」

「…………」

「困ったものだよ。あらゆる事象が、私に剣を持たせようとしてくる。寝ている時も、お風呂に入っている時も……これで呪いなら諦めもつくんだけどね。私はこれをそのまま剣寄せと呼んでいるが…………、まったく、どうにかなってしまえばいいのに……」


 あはは、と。

 因果なものだね――と、普段と変わらない相好で、ブラッサさんは苦笑する。

 やれやれ、と本当に世間話のような感じで。


「………………」


 それは。

 そんなのは、そんなのが、もしも呪いじゃないのだとしたら。

 もはやそれは呪いよりも強い力――この世に決して在ってはならない力。

 剣を寄せる。

 剣寄せ。

 運命――


「馬鹿、な………………」

「同意だね」


 ぼくの呟きに、今度こそブラッサさんは剣を構えて。

 もはやそれは、運命、命運、ぼくが生まれた時から決まっていたかのように、彼女が生を受けた瞬間から決定事項だったかのような言い方で。


「楽しかった。君が魔物じゃなければね」

「…………………………」


 ぼくの、そうしてぼくの首は、急所は、なんの躊躇いもなく、余韻もなく、彼女の両手に携えられた安物の刀剣によって――














「―――」


 ……多分、それは、この屋上にやってきた時だったと思う。


「―---」


 やってきた直後――最初に、彼女と相まみえて。ぼくの攻撃がまったく通じない……かと思えば彼女の刺突はばかげた速度と精度で。ぼくはダメージを食らいつつ……必死に距離を取ろうと思って。

 もがきながら。

 胸に穴を空けながら、辛うじて彼女と距離を取った。


「―――――――――」


 その時、だった、

 ぼくの背負った麻袋が、空高く舞って――どこかに飛んで行って。それは大切な本がたくさん入っているものだったけれど、まずは生き延びなければ、あれも取りに行けない。と。

 そう思って――そのままブラッサさんから目を切らずに、戦闘は続行されて――そんな。


「――――」


 その時に、飛んで行った、どこかにいった何冊かの本、だ。

 そのうちの一冊には、当然、あいつが大好きな――『英雄ラログリッドのぼうけん』も、含まれていて。


「――――――」


 これは。

 はたして、これは、飛び道具に分類されるだろうか。いや、絶対に違うと思う。でも、もしブラッサさんに一矢報いるとしたら、それは飛び道具しかないんじゃないかと思ったのも、それもまた一つの事実で。


「―――――」


 直後。

 ブラッサさんが剣を振っている、あと一瞬でぼくに、刃は届く、ぼくは死ぬ――その直前に、聞こえてきた、鋭敏なぼくの感覚が捕らえた、その音は。


「―――」


 ブラッサさんは、ぼくの力点すらも見極めて、戦闘の中であっても小石攻撃を回避したほどの人だから……それも、当然と言うべきかもしれないけれど。

 彼女も、ぼくの意識が上に向いたことに、おそらく気付いた。そして、また彼女の動きが少しだけ緩慢になって――

 それは、さっきのぼくの不意打ちが起こした、唯一の成果。


「―――――――――」


 あれが、あったからこそ、今、この瞬間、剣境の彼女は再び警戒――それも、とても極小のことではあるけれど。

 彼女の剣筋に変化を与える事が出来たのだから。


「…………っ」


 ばさばさばさ、と鳥にしては騒がしすぎる異音を立てて。

 今頃、ようやく…………空から落下してきた一冊の本。ぼくのふざけた視力は、それのタイトルを『英雄ラログリッドのぼうけん』だと認めて。

 それゆえに、その異音が、ブラッサさんの攻撃をほんの少しだけ遅らせた。

 そして、それが。


「……………………」


 バキャン、と。

 おおよそ――聞いたことがない金属音が鳴った。それは生身と金属がぶつかったもののはずなのに。

 鋭く、あたりに反響して――やがて地面にしみこんで消えていくような、節操もない音。


「……普通におせえよ、馬鹿たれが………………」

「嘘をつけ」


 ――尻もちをついて。今ぼくは自分がどんな顔をしているのか分からない、そこは判然としないけど……たぶん、口角が上がっている気がする。冷や汗まみれで、息が荒くて、生きた心地も未だろくにしないってのに。

 たぶん、魔物になって一番愉快な気持ちに、今ぼくはなっている――それだけは嘘偽りなく断言出来た。


「ふう………………」


 息吹。

 ブラッサさんは――の会話に口を挟まずに、彼女に弾かれてしまった剣を、改めて、見たことのない持ち方に変えた。それはぼくに対していたものより、もっと、さらに洗練されているように、一穴の隙間すらないような、限りなく最上のものに、素人のぼくには見えて――

 結論から言って――ブラッサさんの攻撃はぼくには当たらなかった。

 だって、なぜなら。


「改めて名乗ろう。セレオルタ・ヘログエス・クアトラレイド・バートリリオン。またの名を、辺幽の魔女なのだ」


 ――セレオルタが、来てくれたから。




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