17話 「ぼくは……だから、ぼくは」
「……………………」
「どうしたんだい、ロンジ君」
「いえ………………」
そうして――すべてが、回帰する。
刹那の時間に見たのは、セレオルタのこれまでの軌跡の、その断片。この――なによりも残酷なこの現実で、時間はほとんど流れていない。なのに、ぼくは……とても長い時間をこの、隣でうずくまっている魔女、セレオルタとともに過ごしてきたかのような、そんな錯覚を覚える。
――それは、ぼくが魔女化しているからとか、そういう話ではなく、ぼくとこいつが似た者同士だったから、きっとそう感じるのだと――ぼくは、思う。
「セレオルタ……」
「ひ、ひいい……………………」
――今も、ユクシーさんの足元に転がっているタミハを見ながら、ぼくの声など届いていないだろう魔女。
「お前は…………」
そうだ。
魔女は、耐えられなかったのだ。
はじめての、最愛の人の死に。
これまでたくさん……本当にたくさんの人を殺してきたくせに。
その後ろに、どれだけの悲しみを湛えた人間がいるのか、そんな想像すらできずに。
自分は、たった一人の死を前に、こらえることすら出来なかった。
魔女は、己の罪から目を背け、妄想の中に生きることを選んだ。
こんな――こんなやつ、本当にどうしようもない。今すぐ死ななきゃならない世界の敵そのものだ。そんなこと、ぼくは……ぼくだからこそ、良く分かっている。
辺幽の魔女セレオルタは……今日ここで、殺されなくてはならない。それをするとしたら、ぼくの目の前に立っている、ユクシーさんのような……真っすぐな目をした人がきっと相応しいのだろうと思う。
セレオルタとは対極に……濁ったような、玉虫色の瞳をした、この魔女や。淀んだ目をしているぼくとは、この人は圧倒的に違う、きっとユクシーさんは正しい……正しすぎるくらいの人なんだろうから。
彼女は、人間だから。
「ロンジ君、セレオルタをこちらに連れてきてくれ」
「…………」
剣をゆらゆらとさせて、吐息を漏らすようにユクシーさんが言った。
「もう終幕にしよう。じき、国軍がこの場所にやってくる、後の処理は任せてくれ……」
「や、いやだ……だめなのだ………………やめてくれロンジ! タミハを助けてくれ! おねがいだ………………おね、がい…………くっ…………」
――ぼくの脚に、魔女が縋り付いてくる。
本当に、初めて会った時とは違いすぎて。あの、すべてを見下し、それに見合う圧を備えた、魔女にふさわしい威厳なんて、もう彼女の姿かたちからはどこにも見当たらなくて――
それは、趣味の悪い主人の拷問に、どうか手心を加えてくださいと卑屈に笑む、奴隷、のような……いや、そんな上等なものですらなく、もっと、下の……彼女が見下していた人間よりも下の。
「この場で魔女とこの人形も処分する。ロンジ君、君は人間だから私の持てる力を以て君を守ることを約束する……悪いようにはしない、ということだ。だから安心してくれ……」
「ユクシー、さん……」
空いた方の手で、こちらに……まだ二十歩は距離が離れているのに、握手をするかのような仕草で笑いかけてくるユクシーさん。
この人は……本当のことを言っている。
この魔女とは違う、すべて本物で嘘偽りなく、本心からこの提案をぼくを案じてしてくれている。
ユクシーさんは、すごく正直な人なんだと、ぼくは改めて思って。
「しかし……見苦しいことこの上なくなってきたね。魔女……かつて世界を陥れた魔女が一体がこれとは……なにか溜飲が下がった気分だね」
ぐりい、と、ユクシーさんの足にまた力が加わる。気を失ったままのタミハの……人間を模した人形を見下ろしながら。
「こうも、人間を舐めた真似をしてくれるとは、そこは流石と言うところだけれど……ああ、ダメだ、また胸糞が悪くなってきてしまった。魔女より……最初から徹頭徹尾人間でないものより、下手に紛い物のほうが……こうも癇に障るとは」
「ユクシーさん………………!」
「こちらを先に処分してしまおう、それが良さそうだ!」
「…………!」
力が、こもる。ユクシーさんがタミハの頭を踏みぬこうとしている。タミハは死ぬ。また死ぬ……それはきっと、ユクシーさんにとってはそもそも人間ではないもので、その命すらも虚構なのだろうけど。
「ああああ、あああああ―――ん、あああああ………………」
ぼくの脚にすがりついたまま、セレオルタが泣いている。産声のように、自分が絶対弱者だと言わんばかりに泣いている。
赤ん坊が泣くのは、自分が庇護下の存在であると他人に知らせるためだと言うけれど。
どうして、どうしてこいつの泣き声はこんなに。
雑音。
醜く歪んだ表情は、その両の瞳からこぼれる透明の液体は、ぼくの衣服を湿らせて。なのに、ぼくを掴むその手は、馬鹿みたいに簡単に払いのけられそうで。
ああ――
こいつの泣き声はなんでこんなに――イラつくんだ。むかっ腹がたつんだ。そのイラつきは、きっと――
灰色の世界。
「…………なんのつもりだい、ロンジ君」
「………………ッ」
肩口が――切り裂かれていた。
それは一瞬未満の世界の交錯。
ふと見ると、ぼくの左手指も一本切断されて――遅れて、焼けつくような痛みがぼくの脳髄に走って……しかしそれも、魔女化の力によって、数呼吸で完全に回復する。
ぼくの血は止まって――
「……はあ、は…………」
「う……ろん、じ………………?」
あとに残ったのは、突然寄り掛かる対象を失って、その場で転がるセレオルタと――、
そして、ぼくの腕には、気を失った、額から血が滲んでいるタミハが抱えられていて。
ぼくの視線の先にはユクシーさんがいる。その先には一人、呆然としてこちらを見ているセレオルタがいる。それはさながら挟撃の形――ぼくたちでユクシーさんを挟み込むような構図。実際は、実態はその逆、だったけれど……
「どうしたんだ、急にすごい速度でこちらに……危ないじゃないか。そして謝罪する。君の事を反射的に切ってしまった。未熟の致すところだな……」
「ユクシーさん……、あなたは…………」
ぼくの目をしっかり見て、心の底から悪びれているように頭を下げるユクシーさん。いや、この人は偽りなくぼくに……ぼくを切ってしまったことを申し訳ないと思っている。それが今のぼくには、とても恐ろしいものに感じてしまう。
(うそ、だろ………………)
あのたった一瞬、思わず衝動的に――灰色の世界に突入したぼくは、ユクシーさんの下のタミハに向かって突入――その勢いのまま反対側にまで、超速タックルを行った。
すべてはあまりに短い時間、あまりに短距離の出来事だ。
こんなの、こんな速度ぼく自身、今ブレーキをちゃんとかけれたのは偶然の産物で、もう一度同じことをやれと言われたら絶対再現不可能……そんな感覚の中での接触だったのに。
この人は――この、ぼくより少しだけ年上の女剣士……ユクシーさん、は…………
完璧な反応で、ぼくを切った。
斬った。
切って落とした――落とされる、ところだった。
そんな。
そんなことは、魔女教だろうと魔女狩りだろうと、ぼくが戦った強者たちでさえ出来なかった。曲芸どころじゃない、とてつもない、剣の技量――
……というか、
(そんなことが出来る人間は、もう人間じゃない―――)
「…………良かった、傷は治っているね。このことはまた後で改めて謝罪させてもらうとして。ということでロンジ君、君はなぜその人形を……その手に抱えている? どういった意図があるのか聞かせてもらえればうれしいのだけど」
「…………」
ユクシーさんは、相変わらず笑っている。最初に出会った時と変わらない、ひどく親しみやすい表情で、笑っている。
「…………………………」
ぼくは――ぼくは何を言うべきだろう。何が言いたいのだろう。何をしたいんだろう。自分でも、自分の行動の意味が分からずに、ただ出ていくのは、それはこの場にはまったくそぐわない……何の脈絡もない、本来唾棄すべき事実だった。
「ぼくも、同じ、なんです………………」
「…………?」
口元を微かに動かして、疑問を表すユクシーさん。
「ぼくは……この国に、お金を儲けるためにやってきました……」
「……知っているよ? 妹さんのためにお金が必要なのだろう? レドワナ大祭で一攫千金して、故郷に帰って一緒にいいモノを食べる。素敵な目的じゃないか。ぜひ見習いたい素晴らしい兄妹愛……」
「違うんです!」
「………………ちがう?」
彼女の言葉を遮って、少しだけ強めてしまった語気。
それと、タミハを抱える腕の力をもう少しだけ緩めて。
「………………」
セレオルタ……上体だけ起こす彼女が今見ているのはぼくか、それとも、ぼくの腕の中で気を失ったままのタミハか。それは分からないし、どうでもよい事だったけれど。
「――ぼくに妹は、本当はいません……」
「………………」
「いや、います……いました。二ヶ月前まで……でも、ぼくの妹は、魔物に殺されました」
「なんて――」
悲劇だ、と。
沈痛な面持ちで。胸でおそらく帝国式の祈り手を切って。
これもまた、嘘偽りなく、ぼくの家族にお悔やみの言葉を述べてくれるユクシーさん。でも……それを、そんな祈りをぼくに受ける資格はない。
まったくないのだ。
「…………う、そだ…………」
「…………」
ぼくの言葉を聞いて。そんなユクシーさんより一層大きく反応したのがセレオルタだった。それは、困惑、混乱……辛苦。
複雑なマイナスの感情が互いを引きあって、息を呑み、瞳を大きく見開き……歯を食いしばってうつむくセレオルタ。
今のセレオルタは、ぼくのほうもタミハの方も向いてはいない。ただ内向きに――自分の殻に閉じこもるように。耳をふさぐように、その場でうずくまっていた。
「ぼくは……だから、ぼくは」
そんな彼女を無視するように、ぼくは、多分今言わなくてはならないことを言う。誰も、それを遮る人はいてくれないから。
「ぼくがこの国にやってきたのは、妹の遺品を売ってしまうためでした。形見といってもいいかもしれません……あいつは、本が好きだったから。それを……特に気に入っていたあいつの本を売ってしまおうと思って、ぼくはこの国にやってきました」
「どうして、そんなことを……」
――ユクシーさんが沈痛な表情のまま、首を振る。どうしてそんな……そうだな、どうしてだろう。きっと、それが一番楽になれる手段だと思ったからだろうな。
だからぼくは。
「最初……セレオルタたちが……羨ましかった。二人で助け合って……生きている、そういう感じが、ぼくには出来なかったことだから……ぼくには妹を守れなかったから。だから、タミハとセレオルタの前で、ぼくは嘘をついたんです」
「…………」
「妹の為に頑張っている自分……ぼくも、お前たちと同じだぞ。と言いたくて。本当は妹を、なにもかも、糞な過去を放棄して……すべて忘れてしまおうと思っている、ぼくはそういう情けない人間なのに……見栄を張った。本当にダサいですね…………」
「そんなことはない! ロンジ君! それは……君も辛かったからだ! 人は、自分の心を守るために、時に合理的でない行いをすることがある……それこそが人間じゃないか!」
「ユクシーさん……」
ぼくの――そんなぼくの自戒の言葉を否定してくれるユクシーさん。ああ、この人は本当にいい人だな……人間にとって、本当にいい人だ。あなたはとても優しい人だと、ぼくは思う。
「だから……妹を魔物に殺されたけど、魔女とつるんでいてもぼくは平気でした。だって、ぼくは過去と自分を切り離していたから。それに、別にセレオルタが妹を殺したわけじゃないですしね……まあ、つまるところ……」
ぼくは自分を騙していたんです。と、つぶやくようにぼくは言う。
セレオルタとぼくは変わらない。同じ穴の狢だ。
セレオルタが己を騙して、終わりのない人形劇をしていたように。
ぼくは、自分を騙して、妹の離別から目を背けた。魔物への憎しみとか、家族への思いとか、そんなもの全部、この国で売り切ってしまおうと、そう思ってぼくは大祭に参加したんだ。
セレオルタたちと出会っていなければ。
それはすごく簡単なことだったのかもしれない。いや、そもそも路地でチンピラに殺されていたか……まあ、落としどころとしては妥当だったんじゃないかと思う。
この世界でよくある悲劇。
食傷気味の、死に様。
でも。
「なんででしょう、自分でも分からないんです。きっと、この感情は言語化できない……出来ても、したくない……」
「……? ロンジ君……?」
誰に向けた言葉でもない。そんな言葉を拾って、ユクシーさんが一歩踏み出す。
「ぼくは………………」
――心臓が、焼けるように熱かった。魔物の……女王の紛い物のぼくの弱点はそこにはない。
なのに、心臓が意思を持ったように、ひりつく。苦しい……焦げ付き…
…
「……なるほど。そう、か……事情は分かった。そこのところも詳しく、よければ後で私に話して欲しい。それで苦しみが和らぐとは言わないが……少しでも楽になるならば、君の思うところを私に吐き出して欲しい。しかし、まずは」
魔女と人形を処分しよう。
魔物が君の妹を殺したんだ。だから。一刻も早く――
「…………」
そう言って更に一歩近づいてくるユクシーさん。ぼくは、また少しの短い時間目を閉じて……どこを向いたらいいのか、少しだけ迷って。
自分の、胸を押さえながら……こみ上げてくる何かを、抑えつけようともせずに。
それを、言い放った。
多分、生涯で、一番大きな声で。彼女の名前を。
「セレオルタ・ヘログエス・クアトラレイド・バートリリオォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
「!」
「………………!」
――衰えた魔女に、向けて。
空に掻き消えない様に、それくらいの力を込めて。
蹲っている彼女の耳に、いやでも届くくらいの、最高の叫び声で。
――そんなぼくの声に、ユクシーさんの足はその場で止まり。
セレオルタは……緩慢な……笑えるくらいゆっくりと、顔を上げて、今度は間違いなくぼくの顔を見つめる。
「………………」
ぼくは、タミハを……自分の背後に、ゆっくりと横たえて。言葉を続ける。何も考えていない、考えて出ている言葉じゃない。
ただ自分の思うままに、心のままに、偽りなく……自分が言いたいと思っていることを、それが魔女に伝わらなくたって……構わない、ただ、それでも絶対言い切ってやるという、ぼくの渾身の気持ちを込めて。
「約束しろ、セレオルタあああああああああ………………!」
「……ロンジ君?」
いぶかしげに……疑問符を隠そうともしない様にユクシーさんがぼくの名前を呼ぶ。だけれど、すみませんユクシーさん……ぼくは、これだけは言わないといけない。
言わないと、死ねないから。
「お前が、昔たくさんの人を殺して。それを本当に後悔しているってんなら! それ以上の数の人間を絶対救ってみせると、今ここで約束しろおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――ッ!」
「なにを………………」
「ろ、ん、じ……………………」
ユクシーさんの言葉に、セレオルタの声が重なる。ぼくの声は、セレオルタの耳に届いている、それが確信に変わった。だったら、あとは勢いづくだけだ。
それだけしか今のぼくには出来そうにないんだ。
「いいか、お前の罪は決して償えない、お前は決して許されない。お前がやってきたこと……この、今回のことだって……お前は人間を侮辱して、冒涜して……まったく、本当に酷い奴だよお前は……魔女そのものだ。最悪だよ、お前………………!」
「…………っ」
――セレオルタの目から一筋の涙が落ちる。それは、何を意味したものか。なにを、誰を思って流した涙か、それはぼくが考える事じゃないけれど。
「でも、それでも……!」
――ぼくは、自分の腹を押さえて。喉が千切れそうになろうが、かすれ切ってもお構いなしに、さらに言葉を続ける。
届く、ぼくの本当の言葉は……きっと、お前に届く。そうだろ、辺幽の魔女――
「誰にも感謝されなくても! 誰にも認められなくても! 誰からも蔑まれたって! それでもお前は見知らぬ誰かをこれから救うんだ。これまで、お前が殺した数より多くの人間を救え! 救って、救って、助けて、助けて、これから、助け続けて………………!」
「……く……、あああ…………」
「いつか。近い未来に、あの魔女が……また復活しちまうんだろ! それで世界を今度こそ壊すって……! ――だったら、それをお前が止めてみろよ! 人を助けまくって、見知らぬ誰かを救いまくって! それで、その旅の果てについでに世界も救ってみせろ! お前は強いんだろ! 最強なんだろ! だったらそれくらい出来るよな、口先だけの魔女野郎がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ………………!」
「………………」
――ユクシーさんは……動かない。その場にとどまって、ぼくを見て、考え込むような仕草で……
そしてセレオルタは、まるで仮面が剝がれていくような表情で。
「ロンジ………………ロンジ………………おぬし…………は…………」
泣いている。それは、さっきの情けない泣き顔とは少しだけ違うと、ぼくは勝手に――そう思う。
何でそう思うんだろう? ぼくが、そう思いたいから、だろうか?
「だから! お前が無様に…………誰からも否定されたまま世界を救って、そのままカスみたいな最期を迎えるその時まで…………その時までだったら! それまではぼくが――」
「う、うううううう………………っ」
「ぼくがお前を守ってやるから! お前のそばで、お前の隣で! お前の罪は背負えないけど、ぼくにはぼくの罪があるけれど――それでも、一緒に旅をしてやるから! それでよかったら、約束しやがれえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ――――!」
「――――」
――そして。
――辺りには、つかの間の静寂が訪れた。
少し離れた目抜き通りの喧噪さえ聞こえない。あらゆる音が、ほんの短い間、この小さな世界から喪失して、抜けきっていく。
それで、それは――
「……………………っ、うん、うん………………っ」
――涙を。
顔をぬぐってもあふれ出てくる涙を、それでもしつこくぬぐい取ろうとしながら。
それでも確かにうなずいて。
ぼくの問いかけに、確かに約束を契る、そんなセレオルタの荒い、嗚咽の混じった吐息と。
「――ロンジ君、君は………………」
「――そういうことです、どうか、退いてくれませんか、ユクシーさん…………」
思い出したかのように、さらに一歩踏み出した、そんなユクシーさんの足音。そして、その行く手を塞ぐように……タミハを隠すように片腕を横に出したぼくの会話で、嘘のような静けさは破られていく。
「…………退く? 退くとは?」
「見逃してくださいってことです。タミハと、セレオルタを……どうか、お願いします……」
「それは――出来ないね。すまないが……」
――頭を下げたい。出来る事なら、腰を折って許しを乞いたい。それでこの人が止まってくれるなら、はたしてそんなに楽なことがこの世にあるだろうか。
「彼女たちはここで死ななくてはいけない。ただ、一つだけ問題がある」
「もんだい…………?」
意外な事を言って、またユクシーさんが止まった。
彼女とぼくの距離は、およそ十歩分。灰色の世界を遣わずとも、一瞬以内で詰めれるくらいの距離感――
「君は人間なのかい? ロンジ君……それだけが、どうしても分からない。はたして君の事をどう捉えればいいのか、さっきの演説で少し悩み始めていて」
「…………」
――それは、嫌味や皮肉ではない。悪意でもない、本当に心の底からこの人は、ぼくの事を魔物と捕らえるべきか、人と見るべきか、苦悩している。苦悩してくれている。それは、潔癖なほどに。
「最初……私がロンジ君と、そこの魔女と人形と一緒に行動しようと思ったのは、君がいたからなんだ、ロンジ君」
「…………?」
「人間が、魔物に魅入られて……だが、君の根っこには人間がある。だから、そんな人間が魔物たちと過ごして、どのような事を思うのか感じるのか、どう君が変わっていくのかを……君と言う人間を私は見たかった」
「………………」
「見続けていた。私は人間が大好きだから……でも、君はどうも、ここにきて、魔物に寄り過ぎている様な……そんな兆候を感じていて。それが私にはひどく危ういものに思えてならなくて……」
「危ういと言うなら、あなたも相当なものだと思いますが」
「確かにね」
――ははっ、と彼女は肩を揺らして。
「こんな言葉を知ってるかい? 『人間、誰しもどこかしら狂っている』……危ういところがあるのさ。それに異論はなく、それだからこそ面白いと思っているのだがね」
「……そうですか……」
だから、と言葉を切ってユクシーさんは。
「これは大事なことなんだ。正直に答えてくれるととても助かる。嬉しい……君は、ロンジ君は人間なのかい? それならばそれに越したことはない……でも、もし違うならば、それ相応のことになる」
「………………」
相応、と言う言葉のこれ以上怖い使い方はあるだろうか。
「それって……ぼくが言ってるだけなので、嘘をついても真偽が分からないと思うんですが。そこらへんは――」
「ああ、心配ない。答えてくれたら分かるから」
「…………」
また一歩。ユクシーさんが近づいてくる。もう、問答をしている時間すらも、この場には残されていないようで――それはすなわち。
「ぼくは人間じゃありません」
「―――そうか」
戦いは避けられないということだった。
ほんの少しだけ、目を伏せて……そして次にぼくを見つめるユクシーさんの瞳はこれ以上になく、これまでになく、橙色に澄み切っていて。
「剣境 第四位 凪ぎ果てるブラッサ。ブラッサ・ユクシジャッジだ」
「…………」
ユクシーさんが。
ユクシーさん――ブラッサさんが自分の名前を、本名を、素性を、端的に、余すことなくぼくに教えてくれる。それは勝ち名乗りとかではなく、自己紹介でもなく。
死者に手向ける鎮魂歌のように、静謐な声色で。
「ロンジ・ヨワタリ。無職です」
ぼくが出来るのは、まずは自分の事を偽りなく。
それと忘れてはいけないのは――
「辺幽の魔女 セレオルタ・ヘログエス・クアトラレイド・バートリリオン。あとタミハ・シルハナと友達の魔物です」
直後、白い光がチカチカと煌めいて、路地裏を照らした気がした。
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