第21話 見習い天使が駆けつけた (3)


「ケン、どうしましょう? ヘルハリケーンの弾、あと一発しか残ってないです!」


 さすがのユアも青ざめている。やり直しの利かない一発勝負。カタツムリは屋上の端っこのフェンスまで突進すると、ゆっくりと向きを変えて、またこちらに向かって進んできた。


「ユアちゃん、一応聞かせてくれない? もしその一発、外したらどうなるの?」


 柊木が難しい顔をしてユアに尋ねた。


「悪魔は、あの大きさのまま、分裂して増えます」

「あれが二体になるの? 一体でもありえないほど大きくて大変なのに」

「ちいちゃん、二体になるだけなら、まだなんとでもできますー。そんなヌルいもんじゃないんです……」


 ユアは切羽詰まった表情で答える。柊木は黙って表情でユアに先を促した。


「悪魔は大きくなればなるほど、一度にたくさん分裂できるようになるんです。あの大きさだと少なくとも十体、もしかしたら一度に三十体にまで分裂しちゃうかもしれません。そうなっちゃったら、……さすがに処理できないです。この街の人の大半が『悪魔の種』を吸い込んで、感情が歪んでしまうことになります」


 まじかよ。そうなると一人の女子高生をめぐる惚れたとか失恋したとかのレベルの騒ぎじゃ、絶対におさまらないことぐらい俺でも分かる。この街の大半の人の感情が歪むということは、大混乱間違いなしだ。殴り合いとか殺人とか暴動とかも多発するに違いない。


「あのでっかいのだけは、今晩中になんとしてもやっつけないといけません。一体でも残っていると、いつまでも満月のたびに分裂して増えていっちゃいます。あっという間に世界中が悪魔だらけになります!」

「なるほど。たしかにイーヴィル・パンデミックだな、それは」


 ことの深刻さが俺にもよく理解できた。人類の歴史の中で起こった大量殺戮、例えば中世ヨーロッパの魔女狩りとか、大戦中のジェノサイドとか、そういう事態にまで行きつくのが目に見えている。イーヴィル・パンデミック、しゃれにならない。ユアたち天使が必死になってそれを抑えこもうとする理由が納得できる。

 先月の満月のときには、まだあそこまで悪魔が育っていなくて、分裂する数も、ばらまかれた『悪魔の種』の数も大したことなかったのだろう。柴崎さんのまわりの限られた人が、ちょっとした好き嫌いの感情が変化するという影響を受けただけで済んでいた。まあ、その影響をもろに受けたのが俺なんだけど、そこはあんまり触れられたくないところだ。


「でも、ここであのでっかい悪魔をやっつけておけば、悪魔を飼う人がまた出て来ない限り、もうこれ以上悪魔が育つことはありません。おねーさんの除魔は終わっていますから」

「なるほど、分かった。そのバズーカの最後の一発を、確実にあのでっかいのにヒットさせればいいのね? うーん、普通に狙っても殻で弾き飛ばされちゃう。狙うなら頭かしら」

「そうですよねー。けど動きが素早いからそう簡単には『アクマエクスターミネイター・ヘルハリケーン』を頭にヒットさせられないですー。少しだけでも動きを鈍らせることができればいいんですけど……」


 ユアが弱音を吐くのは珍しい。そりゃそうだ。一発で仕留めないとパンデミック一直線だ。


「弾は補充できないの? 教官さんやアリスさんが予備持ってないのかな」

「エンジェルフォンアプリで注文して『お急ぎ超特急お届けオプション』を使っても、届くのは明日の昼ですー。教官とアリスには予備があれば、すぐ持ってきてーってメール打っておきます」


 柊木はくちびるの端を噛んで考えている。そこへ戻ってきたカタツムリがまた勢いよく突っ込んで来た。


「とりあえず左右に分かれて! 石塚、ユアちゃんをお願い!」


 柊木が身体をかわして声を上げた。こりゃ予備の弾が届くのを待っているひまはなさそうだ。カタツムリはほとんど無音で迫ってくる。あのカタツムリ特有のぬめりのせいだろう。重戦車のような大きさなのに無音なのが、かえって気味が悪い。俺はユアの手を引いて、左手に逃げた柊木とは逆の、右手のペントハウスの方向へ逃げた。カタツムリは柊木をターゲットに追いかけていく。


「ユア、逃げるぞ! リロードできたか? いつでも撃てるようにしといてくれ。柊木が何か作戦を考えているはずだ」

「了解です!」


 ユアは走りながらポシェットから弾を取り出して、バズーカにセットした。


「ユア、そこで待ってろ!」


 ある程度カタツムリから距離を取ったところで、俺はユアの手を離した。月明りに照らされた屋上を見渡すと、逃げる柊木とその後ろを追いかける巨大カタツムリが目に入る。俺は身体の向きを変えてカタツムリの後ろを追いかけ始めた。あのまま逃げ続けていても、早晩柊木が屋上の端に追い込まれて逃げ場がなくなってしまう。柊木からあのカタツムリを引きはがさないといけない。


「柊木! 大丈夫か! 今行くからな!」


 屋上のすみまであと十メートルというところまで走って、柊木は俺の方に振り向いた。そして叫ぶ。俺と柊木の間にそびえる巨大カタツムリの影に隠れて柊木の表情はよく分からない。


「石塚! これで殻を叩いてみて!」


 巨大カタツムリごしに柊木がパステルグリーンのおもちゃのバットを投げてよこす。アクマブンナグールだ。俺はくるくると夜空に舞うそれを、左手一本でキャッチした。相変わらず軽いし、ちゃちい。こんなのの一撃がこの超巨大カタツムリに効くとは思えないが、このままだと柊木がカタツムリに追いつかれて襲われてしまう。

 俺はプラスチックのバットを八相に構え、超巨大カタツムリの殻に向かって身体ごと突進した。渾身の突き。プラスチックのバットが殻に当たってべこっとひしゃげる。


「このヤロー、柊木から離れろ!」


 ダメだ、やっぱりこれじゃノーダメージだ。アクマブンナグールの一撃にカタツムリの殻はびくともしない。カタツムリは頭をもたげて、俺の突きに反応して体をUターンさせた。俺の方に不気味な顔を向ける。のっぺりした顔は赤みが差して、ツノをとがらせている。カタツムリは頭を低く下げると、猛然と俺の方に向かってきた。


「うげー、まじキモい! しかも怒ってるじゃねーか!」


 方向転換したカタツムリから今度は俺が逃げる番だった。しかし、とりあえずこれで柊木の逃げる時間は稼げた。俺はできるだけ柊木から離れるように、屋上の逆の端に向かって走った。背後からは超巨大カタツムリが追ってくるのが気配で分かる。無音なのがさらに不気味だ。


「やっぱり! この大きいヤツも、叩かれた方向に頭を向ける習性がある! 方向転換して頭を下げた瞬間に、少し動きが遅くなって無防備になるわ! ユアちゃん、そこを狙って! ツノじゃなくて顔を狙うのよ!」


 柊木が後ろから叫んだ。


「分かりました! 絶対一発でキメてあげますよ」


 ユアが叫びながら続ける。


「ちいちゃん! ケン! 近くだと狙いにくいです! できるだけわたしから離れたところで振り向かせてください!」

「石塚! できるだけユアちゃんから距離を取るように逃げて! ぎりぎりで私が殻を叩いてこっちを向かせるから!」


 よーし、分かった。あの屋上の一番端っこまで逃げりゃいいんだな。そういう単純な追いかけっこなら任せとけ! 俺は後ろを見ないで駆けだした。

 チャンスは一回だけ。できるだけユアに背中を向けて端っこまで逃げる。そして、そこで超巨大カタツムリを柊木の打撃で振り向かせる。

 大丈夫、柊木とユアが上手くやってくれる。俺はこの超巨大カタツムリを引き付けるだけ引き付ければいいんだ。超巨大カタツムリの後ろから追いかけてくる柊木がタイミングを見計らっているはずだ。ペントハウスの屋根の上でユアがバズーカを構えているのが、視界の端をちらっとかすめた。


「ユア! 任せたぜ! 柊木! 上手く行ったらワセリンでも綿棒でも歯ブラシでも好きに使っていいからな!」

「言ったわね。絶対だよ! 私、忘れないからね!」


 俺はひたすら屋上のコンクリートを蹴りつけて走った。だんだん屋上のすみが近づいてくる。コンクリートの途切れた先は、星が浮かぶ夜空の海。俺は必死に走った。超巨大カタツムリがうしろから無音でぬるぬると迫ってきているのが気配で分かる。

 不意に生ぬるい吐息が首筋をねぶった。横目でちらっと見ると、至近距離にカタツムリのツノが視界の端をかすめている。


 うおおおお、追いつかれてるー!

 ヤバい! キモい! 近い! 


 ラブコメなら「顔が近いー!」とか言って赤面するところだが、そんなベタなギャグをやってる余裕はどこにもない。俺はさらに力を入れて地面を蹴る。


「うひー、追いつかれるー! 柊木ー! まだかよー!」

「まだよ! もっと離れて!」


 屋上の端が見えた。コーナーのフェンスまであと十メートル。俺は全力だ。もう手すりに手が届くかというところまで来ている。俺は勢いのまま手すりに全身で体当たりした。息を切らせながら振り向くと、そこに無表情にツノを振り回す超巨大カタツムリののっぺりした顔がぬっと伸びてきた。キスできるほどの近さに超巨大カタツムリの顔が迫ってくる。


「うげー、これ以上は勘弁してくれー! キモいー!」

「ユアちゃん、行くわよ! この悪魔め! こっちをー、向きなさああい!」


 柊木の掛け声にべこっという打撃音が混ざる。超巨大カタツムリが一瞬動きを止めた。

 カタツムリの顔がさっと赤くなってツノがピンと月夜に伸び、そして超早のモーションで柊木の方に向かって反転する態勢に入った。


 その瞬間、ペントハウスの方向がキラリと光った。


「悪魔、許しません! 今すぐ、消え去れー!」


 ペントハウスの屋根の上で、満月を背にしてバズーカを構えたユアがトリガーを引き絞っていた。輝く光の筋が、カタツムリのツノめがけて伸びてくる。

 振り向いたばかりで動きの鈍った二本のツノのちょうど中間を、輝く光の筋が切り裂いて行った。

 ドンピシャのタイミング。

 カタツムリの巨大な身体全体がまばゆい光のフラッシュを発し、周囲に大旋風が巻き起こった。耳元を轟音が襲う。


「うおおお!」


 あまりの明るさと押し寄せる風圧に目がくらむ。腕で顔をガードしてしばらくすると、徐々に風圧が下がって視界が戻ってきた。カタツムリはすでに跡形もなく消え失せていた。


「おっしゃー! やったぜ! ユア! 柊木!」


 さすが柊木だな。きっちり仕事をしてくれるぜ。その点に関しては、俺は柊木に絶対の信頼を寄せている。俺は視界の中にいるはずの柊木を探した。


「あ! 柊木!」


 カタツムリが消え去るときの大旋風を、俺は手すりを支えにして踏ん張って耐えたが、ラケットを全力で振り下ろしていた柊木は踏ん張ろうにも受け止めるものがない。柊木はフォロースルーの姿勢のまま旋風に巻き込まれて、吹き飛ばされていた。ヤバい! このままだと、柊木の身体が手すりを越えて、夜空の海にダイブしてしまう!


「柊木―!!」


 俺は空中の柊木に向かって必死に手を伸ばした。届け、そしてつかめ、柊木の手を! あと少し! 伸ばした指先が柊木のセーラー服の袖をかすめる。俺は腕を極限まで伸ばして、柊木の腕をつかもうとした。あと、数センチ! ちくしょう! ちょっとだけ伸びてくれ、俺の腕! 今だけでいいから! 

 極限の状態になると、人間の脳の処理能力は爆発的に向上する。秒にも満たない時間の中で、俺は伸ばした手の先で、はっきりと柊木と目が合った。柊木はにこやかに微笑んだ。一撃必殺が決まってやり切った感にあふれている。


 なに満足してるんだ、柊木! 俺の手を掴め! こっちに戻れよ!

 ―――ううん、石塚、これが私の運命。今度は私が見習い天使。


 なに言ってるんだ! 戻ってこい! 明日学校行かなきゃいけないだろ? また桜の木のところで弁当食べるんだろ?

 ―――石塚、短い間だったけど、楽しかったよ。天上界から見守ってるからね。


 バカ言うな、柊木! おかしいだろ! なにお別れみたいなこと言ってるんだ! 戻れ! 戻れよ! お前がいない学校生活スクールライフなんて、想像つかないじゃないか!

 ―――石塚は、このまま人間界に残って。ときどき、私の生前を思い出してくれたら、それでいいから。私は、私の運命に、満足しているから。


 手すりを超えた柊木の身体。俺もフェンスを越えて、星空の海に向かって手を伸ばした。足元をささえるものは、もうない。


 満月の夜空。


 俺の指先が柊木の白い手をつかんだ。


  柊木! 戻るぞ!

 

 空中でやっとつかんだ柊木の手を、俺は離さなかった。


  柊木、一人だけで行く、なんて言うな。

  離さないからな。

  ぜってー離さないからな。


 杉崎高校の屋上から、俺と柊木の身体は、四十メートル下の地面に向かって、落ちていった。

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