第5話 見習い天使は頼りきり (2)
その日の放課後。
空は相変わらず突き抜けた群青色。深く澄んだその色は、俺のこぼれかけの涙ですら染めてしまいそうだった。
俺は、ふらふらとおぼつかない足取りで昇降口を出た。今日は一日、ろくに授業も頭に入ってこなかった。糸田が流したガセネタのせいだ。いつも優しくて慎み深く、俺に全愛情を注いでくれている柴崎さんに、カレシがいるなんて。そんなの嘘に決まっている。でも、少なからず確実に俺は動揺している。
B校舎の裏をぼやけた足取りで進む。敷地の端にある古桜の太い幹が目に入ってからも、俺は行先の定まらないシャボン玉のようにふわついていた。やがて古桜の向こうのベンチにたどり着いて、そこにかばんを無造作に放り投げて、どさりと座り込んだ。
柴崎さんにカレシがいるなんて……。
しかもつい最近できたなんて……。
信じないぞ。そんな世迷言、ぜってー信じないぞ!
「くそっ」
あんなにやさしい笑顔で俺を見つめてくれていた柴崎さんが、あろうことか社会人のカレシがいるなんて……。そんなわけ、そんなわけ、あるはずがない。
俺は深い前傾姿勢でベンチに座り、両手で顔を覆った。ときたま手のひらを見つめる。ぐっと拳を握り込むと、なんとも言いようもない無力感が襲ってくる。
「くそーっ!!」
握った拳でベンチを殴ろうとしたとき、ふわりとさわやかなシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。追い打ちをかけるように、柔らかく響く声が耳に届く。
「だから言ったじゃない。一目惚れが悪いとは言わないけど、もっと冷静にならなきゃだめだよ」
背後には柊木千紘の姿があった。柊木はきれいなしぐさでセーラー服のスカートを押さえて、俺に並んで腰をおろした。通学かばんを膝の上で抱きかかえる。
「……柊木か。なんだよ、俺を嘲笑いに来たのか?」
「柴崎さん、社会人のイケメンに熱を上げてるって、女子の中ではわりと有名な話だよ。まだ付き合うところまではいってないみたいだけど。噂では、ね」
柊木は静かな声で淡々と語りかけてくる。
「石塚さ、告白盗み聞きしちゃって、ごめん」
「今さら、なんだよ」
「ここで読書してるとさ、告白シーン目撃しちゃうこと、たまにあるのよね。成功率は半分以下かな。ここ、あんまり告白するのに縁起のいい場所じゃないみたいだよ? あんたの時もさ、最初男子が誰なのか分からなかったけど、相手は柴崎さんだってすぐ分かった。柴崎さん、カレシ欲しがってるって噂だったから、これは行けるかな、と思ってつい聞き耳立てちゃったんだ。ごめん。ま、柴崎さんの一番の狙いは社会人のイケメンらしいんだけどね。惚れた腫れたは時の運だから。相手が悪かったか、さもなければタイミングが悪かったと思って諦める方がいいんじゃない?」
俺は拳をおさめて腕を組む。柊木に改めて指摘されると、なんとなく悔しい。腕を組んだまま、今朝方糸田に聞けなかった質問を柊木にぶつけてみた。
「柊木……、例えばの話だけど、狙っている男がいてもさ、他の男にやさしくできるもんなのか? 女子ってのは」
「そんなの人それぞれだけど、そういう誤解されるようなことは、しないかな。普通は」
胸に抱いていた通学かばんを向こう側に下ろして、なんでもないことのように柊木は俺の質問に答えた。あくまでまっすぐなその声は、決して俺を咎めてはいない。
「でもね、石塚の場合はハードルが低すぎると思うよ? チョロすぎる、とも言えるかな。今までよっぽど女子にやさしくしてもらったこと、なかったんだね。それもなんかかわいそう」
「うるせーよ」
ちくしょう、面白くもない正論をぶん投げてきやがる。母親に叱られた気分になって、俺はむっとして押し黙る。
「でも、そういう何気ない、ちょっとしたことで喜んでもらえるのって、嫌いじゃないよ、私はね」
柊木はふわりと微笑んで、そう言った。
「柊木、ユアはどこ行ったんだよ」
俺は咄嗟に話題を変えた。柊木ができの悪い生徒を諭す先生のように見えたからだ。
「ダンス部の練習が見たいとかって言って、一人で体育館に行ったよ。面白い子だよね」
柊木はそこまで言うとふっと表情を緩めて、続ける。
「よっぽど好きみたいね。ユアちゃん、踊るのが」
見たことのない柔らかい表情をして、柊木は眼下の街並みを見ながら特徴のある少しハスキーな声でつぶやく。
青空、澄んだ空気、一筋の飛行機雲が西空に向かって伸びていく。B校舎の裏手のグラウンドから運動部のざわめきが聞こえてくる。頬を撫でる空気には晩秋の冷涼感が隠せない。
「私、一人っ子だからね。妹がいたらあんな感じなのかなーと思っちゃって。なんか賑やかで楽しいじゃない」
「賑やかを通り越して著しくノイジーだけどな。しかし、なんでまた俺と柊木にだけ、ユアが見えたり話せたりするんだろう?」
「さあ。もしかしたら……」
柊木は立ち上がって三歩ほど歩くと、フェンスに両手を置いた。眼下の街並みに顔を向けたまま続ける。
「もしかしたら、それが運命、なのかもよ?」
俺もフェンスまで歩いて行って、柊木の隣で街並みに背を向けてフェンスに背中を預ける。目の前の古桜は枯れ葉をまとって枝を広げている。少しずつ桜も冬支度を始めている。
「面白そうだと思わない? 天使って」
「願いをかなえる天使……か。それだけ聞くと、なんか崇高な理想に向けて頑張ってるような感じがするな。実際のユアは随分お気楽だけど」
「私ね、なってみるのも、おもしろいかも、って思った。天使ってのに。なれるもんならね。言ってみれば、人の願いごとをかなえるプロになるってことじゃない。面白そうだと思わない?」
俺は柊木の言葉に少し驚いた。実際の職業選択に天使が入るわけがない。進路指導の面談で「天使になりたい」とか言ったら、先生にド叱られるだけだ。しかし、柊木の表情は淡々としていて、冗談を言ってる様子にはあまり見えなかった。
「天使が面白いのかユアが面白いのか。そこがちょい微妙だな。でも、こんなところで柊木の進路相談するとは思わなかったよ」
やれやれと肩をすくめる。天使が職業的に面白い、とはずいぶん面白い考え方をするんだな。柊木は。
「ふふふ。ところで石塚さ……」
柊木はフェンスから手を放して、俺の方に向き直った。
「元気、出た?」
あまりにストレートな問いに思わず吹き出してしまった。もしかして、柊木は俺を元気づけようとしていたのか。もしそうなら、ひたすら陰鬱な空気を振りまいてしまって、申し訳なく思う。
「……まあな。ユアが言ってた惚れ薬、どれぐらい効き目があるのか分かんねーけど、それさえ手に入れば一発逆転できるもんな。効き具合によっちゃヤンデレにまでなっちゃうらしいけど。とりあえず前向きに行こうかな、という気にはなったよ」
柊木はふうと息を吐くと、若干呆れを含ませた声をあげる。
「んもう。なんだか、違う方向に向かって立ち直っちゃったみたいね。まあ、それでも、どうにもならないことでぐずぐず悩んでるよりはだいぶマシだけどね」
「ありがとな。でも、柊木、元気づけてくれるのは嬉しいけどさ、なんでそこで俺がフラれることが前提になってるわけ?」
「あのさあ。石塚さあ。あんたはもうフラれてるの。髪の毛の先ほどの希望もないぐらいに。そこんとこを認めない限り、なにを考えても間違った方向に行っちゃうよ?」
いつもの淡々としたトーンに戻った柊木の様子に、俺は一瞬地雷を踏んだかな、とひるんでしまった。凛とした声で柊木は続ける。
「ユアちゃんの惚れ薬なんか当てにしててどうするのよ」
柊木の目はいつになく真剣だ。しかしそこを突かれると俺としても厳しい。柊木、手厳しいよ。傷口に塩塗るなよな。俺は思わず浮かんだことをそのまま口にした。
「……柊木、おまえって、もしかしてものすげードS? 死体蹴りとか喜んでしちゃうタイプ?」
「私がドSなわけないじゃん、受け重視派なんだから。あ、いや、なんでもない。それより、石塚はしっかり現実を直視して、その上で正々堂々と戦わなきゃだめって言ってんの」
ここでこれ以上言い合ったとしても俺のメンタルが削られるだけだった。ここはおとなしく引き下がっておく。
「そりゃありがたいアドバイスだな。貴重なご意見として伺っておく」
「なんだか頼りないけど、まあいいわ。それじゃ、そろそろ私は行くね。石塚もしっかり現実を見て生きていきなよ? 今だから言うけど、……柴崎さんは、私もあんまりおすすめしないかな。柴崎さん、二学期に入ってから急にモテだしたみたいで、石塚の他にも狙ってる男子いるらしいからね。それに、柴崎さんじゃなくてもいい子いっぱいいるよ、うちらの学年には」
「へえ。たとえば、D組の柊木千紘、とか言いたいのか?」
柊木は俺のことを一瞬まじまじと見つめて、ニヤリと笑った。
「ありえないわよ、ばーか。石塚は私の趣味じゃないし。しかも、それ、セクハラだからね!」
「あ、柊木! どこ行くんだよ」
柊木は自分のかばんをつかむとスカートの裾をひるがえした。俺の方を一目見やると、右手の人差し指を下まぶたにあてる。
「べぇーだ。ユアちゃん、体育館にいるから、私、ちょっと覗いてから帰るね。石塚もヒマだったら覗きに来てみたら? じゃあね!」
柊木が去ると、途端にベンチの周りは静寂のエアポケットにハマってしまった。気分的にはまだダメージが多少残ってはいるが、確かに柊木の言うとおり、ここで悩んでどうにかなることでもない。
「せっかくだからダンス部のダンスを見に行くか、俺も」
俺は立ち上がって柊木の後を追って、体育館に向かった。
◇
体育館は敷地の端の古桜からちょうど対角線上にある。正門に戻って渡り廊下を歩いていると、前方から軽快なビートのダンスミュージックが聞こえてきた。
渡り廊下から三段ほどの階段を上って、人だかりがしている体育館の入り口から中をのぞいてみる。やたら男子の見物客が多くてむさい。体育館の中では体操着姿の女子がずらりと並んで曲に合わせてダンスの練習をしていた。1-4-8のフォーメーションだ。
俺はむさい男子ばかりの人だかりを「ちょいとごめんよ」と抜けて練習に近づいてみた。先頭のセンターはダンス部の部長、二列目は三年生のダンスのめちゃめちゃ上手い三人、部長とこの三人で杉高ダンス部四天王と呼ばれている。去年ダンス部が全国大会行ったのも、この四人が原動力だ。あれ? 二列目に四人? なんか一人多くね? と思ったら、二列目の端っこで一回り小さい女の子が踊っている。
「ユアじゃねーか! あんなところで!」
なんと、二列目の右端でキレのあるダンスをしている、ひときわ身体の小さい子がユアだった。四天王に混じって互角に踊れるなんて大したもんだ。あまりに自然に踊っているから気が付かなかったぜ。
ユアも体育館に入ってきた俺に気づいたらしく、振り付けの合間に「やほー」と笑いながら手を振っている。
ダンス部の後ろ、ステージの袖の近くで柊木がぽつんと体育すわりでダンス部の練習を見学しているのも目に入った。なんだかぼっち感満載だな、柊木。まあ普段の柊木のイメージどおりと言ってしまえばそれまでなんだが。
しかし驚いたのはユアのダンスだ。ユア、そのダンス、初見なんだろ? なんとなくそれっぽく合わせて踊れているだけでも大したもんなのに、振りの合間に笑って手を振るとかよくできるよな。一応、杉高ダンス部って全国レベルなんだぜ? 俺は感心しきり、舌を巻いてしまった。わりとマジで。
三列目の八人は俺の同級生二年生と一年生のダンス部員たち。三列目で一人えらい目立つかわいい子がいるなー、と思ったら糸田の妹、糸田
ダンス部の女子たちは、激しいステップで左右に立ち位置を入れ替わる。残念ながら入れ替わる相手のいないユアも、それに合わせてくるりと回った。
いや、しかし大したもんだな、あのダンスに初見でついていくとか化け物みたいな動体視力だ。ユアと反対側の左端の子のダンスがつたなく見えてくる。曲がりなりにも四天王と呼ばれるダンス部員が霞むほどの切れ味とは、只者とは思えない。ユアを見た後に後列の子のステップを見るとキレの悪さが目立つことこの上ない。
その時、左端の子の足元の床に、のそのそと這う黒いものが目に入った。
なんだあれ? おお、カタツムリか。えらい季節外れだけど、それ以上近づくとダンス部員のステップに踏みつぶされちゃうぜ。
俺は体育館内に響くダンスミュージックのビートを浴びながら、ステージを遠巻きに左端まで移動した。手に届くところまで近づいて、カタツムリをつかもうと腰をかがめる。
「ケン! 危ない! 離れてください!」
突然、踊っていたユアが大声をあげた。ダンスのフォーメーションから一瞬で離脱して、俺の方めがけて突進してきた。
「それ、触っちゃダメです! 早く離れて!」
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