第8話 口紅の赤

今年一番大きいコンプが終わった私たちは、束の間のゆっくりとした期間を楽しんでいる。

しかし、私には随分大きな気掛かりが残されたままであった。

遂に仕事にまで影響をもたらし始めた、宮間の浮気騒動である。

私は人がまだ少ないオフィスで、淹れたてのコーヒーを飲みながら、

ただ流れるデスクトップを見つめて、考えた。

先輩として止めてあげるべきだろう。せめて、話し合うべきだとか。

奥さんとその人は別れるつもりなのか聞くべきだとか。

それくらいはいうべきだ。そう自己完結をして、

ガタッと音を鳴らし立ち上がると、後ろで可愛げのない悲鳴が聞こえた。

肩をびくつかせ、悲鳴の方を見ると私が立ち上がった椅子から逃れた位置に、友井が立っている。

「…おはよ」

「…おはようございます」

なんだかその間に流れる沈黙が気まずい。暫くの沈黙ののちに、友井は思い出したように笑った。

「珍しいですね、先輩がボーッとするなんて」

「私だって考え事ぐらいします〜」

デスクトップが永遠に流れていたパソコンを閉じて、

友井と向き合うと彼は、私のデスクの上に似合わない雑誌を置いた。

観光雑誌か。紅葉の綺麗なページが写っている。

その雑誌を置いた意図が見えず彼に、話を促すと彼は拗ねた子供のように話し出した。

「…最近、宮間のやつ疲れてるみたいだから。でも、俺には何にも話してくんないし。

 景色の綺麗なとこで休ませてやりたいなって」

友井の言葉の意味を理解した途端に、私は腹の底から笑いがこみ上げれ来るのがわかった。

私が押し殺しながら笑っていると、ますます拗ねた友井は、思いつかねぇんですもん。とごちた。

違うのだ。

たった1人の脈もない片想いの相手のためだけに。

わざわざスマホ族の彼が、雑誌を手に取って調べて。

自分は興味もないだろう、景色の綺麗な場所に連れて行こうとしているなんて、なんて可愛らしい。

「良いと思いよ。二人で温泉でも行ってきたら?」

「泊まりは絶対断られます…っていうか、二人も断られる…」

ブツブツと呟く、友井の肩をポンと叩き、誘ってみなって。二人が無理なら一緒に行くからさ。と、

私は転がった椅子を収めて、オフィスに入ってきた宮間に向かって歩き出す。

いつもより少し色っぽく感じる宮間に声をかけると、曖昧に宮間が微笑んだ。

「おはよう」

「おはようございます」

「今日、夜空いてる?飲みに行かない?」

善は急げである。決意は揺らぐ前に決めてしまう。仕事でもなんでも、重要なのは機動力だ。

いつもより色の濃いリップが色っぽく見える理由らしい。その唇が少しだけ、歪む。

「都合悪かったらいいよ?」

「いえ、大丈夫です」

私の言葉に被せて、少し食い気味にいう宮間に少し気圧されると、宮間は唇をかみしめて、

スマホを握りしめ、すいません少し行ってきます。と去っていく。

その後ろ姿が、どこか自信なさげで私はどうしてか、少し胸が痛む。

そんな宮間の後ろ姿を、彼女のリップのように鮮やかな景色の雑誌を握った友井がジッと見つめていた。


「そういえば、珍しいね。そんなに真っ赤な口紅つけてるの」

思い出したように、尋ねるとびくりと肩を震わした宮間は、曖昧に微笑む。

私は枝豆を落ち着かない手で掴みながらその顔を眺める。

可愛らしいとは思うが、彼女はこんなに赤い唇は向いていない。

大人っぽい少女ではあるが、意外と可愛らしい顔立ちなのだ。

「…えっと…これは、恋人の好みで…」

宮間は、薄いメイクの方が似合うと思う。なんて、口先まで出てきかけた言葉を飲み込んだ。

女の子だったら、好きな人の好きな自分になりたいなんて思うのは普通のことだ。

それが例え、既婚者相手の不純物だらけの恋だとしても。

今日、私の誘いに一瞬の迷いを見せたのは、どうやら恋人に会う予定があったかららしい。

「そっか。恋人の好みね」

頭の団子を思わず撫でた。今の旦那は長い私の髪の毛が好きで。

ガラにもなく、いまだに伸ばしたままにしてしまっている。

早く切ってしまえばいいものを。

その気持ちが痛いほど分かる。痛いほどわかるからこそ、決意した言葉がつっかえたように感じた。

それでもと、つっかえた感情を枝豆の丸呑みで凌いで、口を開く。

「宮間。あのね。私宮間から話を聞いてから、なんていうのが正解か考えてたの」

「すいません。ご迷惑おかけしました…。えっと」

「でね、私も正解がわからなかったの。私は正直その浮気相手の幸せなんてどうでも良いの」

宮間のいう男がどんな男なのか私には見当もつかない。

本当に宮間のことを思っている、馬鹿な男だろうが、

宮間のことを弄ぶクズ男だろうが、そいつはどうでもいい。

宮間と、浮気されている奥さんが幸せであれば。

クソみたいな男なんざに興味なんてない。

「宮間が、幸せになって欲しい。もちろん浮気を肯定してるわけじゃないよ。

 でもね、私は宮間のことしか分からないから。宮間にとっての最適解しか分からない。

 それに宮間は立派な大人でしょ?私が全部決めるわけにもいかない」

思っていることを、半分吐き出すように言うと、宮間は気圧されたような顔をしてから、軽く頷く。

メニュー表を開いて、頼みたいものに目星をつけた私は、そのメニュー表を宮間に差し出した。

おずおずと受け取りながら、私の顔を覗き込む彼女にこれ幸いと、真っ直ぐに顔を見る。

「まずは、その人と結婚したいわけ?一緒に生きていきたいの?」

「…はい」

「じゃあ、その人はどうな訳?奥さんと宮間、どっちと生きていくつもりなの?」

「怖くて聞いたことがないです」

「結婚はしたいの?例え、彼じゃなくても」

マシンガンのように質問を重ねると彼女が自信なさげに下を向いていく。

私はそんな姿を見ていられずに、頼みたいもの頼んでいいよ。と言う。

えっと。とようやく息が吸えたような声が聞こえて、うん。と私も力の抜けた声を出した。

彼女に食べたいものを告げ、頼んでもらっている間に彼女の返答を整理して、次の言葉を紡いだ。

「まずはハッキリさせないとだよ。

 その人は宮間とお互い遊ぶとして成立してると思っているかもしれない。

 それだったら、宮間の思いは一生届かないまま」

一生届かない。そう聞いた彼女は不安そうに、俯いた。言葉にされて刺さってしまったのだろうか。

私自身もここまで強い言葉が出てくるとは思わず、零れ落ちた言葉を反芻した。

「…やっぱりずっと、このままっていうのは無理ですもんね」

拗ねた子供のような声で、やたら大人な言葉を呟いた彼女に少しだけ胸が痛んだような気がした。

「まぁずっとこのままは無理だね。私が言えることってこれぐらいしかないんだけど。

 性格上、知っちゃったら放っておけないし、なんでも話してよ」

お兄さんが運んできてくれたレモンサワーを、宮間に差し出してから、自分は目の前の軟骨を摘む。

相変わらず美味しい店だ。安いのに美味い。

彼女は、レモンサワーをチビチビと飲み込む。赤いリップが、ジョッキに控えめについた。

その真っ赤な色に、友井の言葉を思い出す。

「…まぁ、全部一人でする必要はないよ。私もいるし、それに…友井も」

私が消えいるような声でいうと、宮間の真っ赤な唇が、不機嫌そうに歪む。

欲望だらけの真っ赤なリップの色に勝るのは、あの純粋な真っ赤な紅葉だけなのだと、

キンキンのビールを飲み込みながら、1人笑った。

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