夢心地
チョンマー
本編
独りで部屋にいた。
ドアや窓はきっちりと閉じられていて、外界から完全に遮断されている。
ヘッドフォンを耳につけ、音楽プレーヤーに繋いだ。流れる曲は私のお気に入り。
目を閉じて、今日も一日中音楽を聴くことにした。
『嫌だ、ねえお願い。死なないで!』
『置いていかないで。私を一人にしないで!』
まただ。また雑念が私の頭の中に入ってきた。
私は音楽のボリュームを上げた。頭の中がさらにお気に入りの音楽で満たされていく。
鳴り続ける音楽は、私を外の嫌なものから守ってくれる。私の中に残る雑念も消していってくれる。
目を閉じていると、体が沼か何かに沈んでいくような感覚がした。沈み込んだ体はどうにもこうにも動きそうにない。しかし、頭だけはまだ沈んでいないためか、別の理由か、意識がはっきりしていた。でも、時間の問題だろう。
私はこの感覚が嫌いでなかった。音楽でいっぱいの頭が感じるそれは、温かいぬるま湯に浸されているかのよう。
ただ、ひたすらに、音楽に浸っていた。
私は真っ白な世界の中にいた。
ふわふわとした感覚が私を包み込んでいる。
私が感じるそのふわふわは、落下の際に感じる浮遊感に近しいものだ。しかし、落ちているというよりはむしろ、浮いているようと例えるのが近い。
多分、人が翼とか乗り物とかでなく、超常的な力で空を飛んだならこんな感じなんじゃないかと思っている。実際に風だとか重力だとか、そんな物に縛られず自由に空を飛べたなら、どれほど楽しく、快感だろう。この世界に来る度に感じているこの幸福感は、ここから来ているのかもしれない。
そして、先ほど空を飛んだならなんて話をしたけれど、上下左右真っ白なこの世界では、自分が地面のようなものの上にいるのか、本当に空中にいるのかなんて分からない。もしかすると、本当に空を飛んでいるのかもしれない。
でも、そんなのは些末な問題だった。
そう、私にとってはこのふわふわの正体も、自分が本当に空を飛んでいるのかも、そもそもこの世界のことも全く問題ではないのだ。この世界にずっと漂っていたらどうなるかを、私は知っているから。むしろ、そっちの方が狙いだ。このままこの世界に身を浸すことで、私はこの世界と同化するのだ。
ガタン、と音がした。その雑音で、私は現実に戻された。
『こちらへ運ばれた時にはもう、ほとんど手遅れに近い状態で……残念です』
『そんな…………』
『最後に、顔を見てやってください』
音がした原因は、近くで物が落ちた音のようだ。何が落ちたのか分からないが、確認するのも煩わしかった。本当に興ざめだと思う。
自分の部屋で音楽プレーヤーを除く音の鳴るものはすべて電源を切るか、コンセントを抜いてある。もちろん、携帯もしばらく電源を切りっぱなしだ。
今回は邪魔が入ったけれど、今度こそは。
私はもう一度目を閉じた。
真っ白な世界。色づいているのは私だけ。
しかし、それも少しの間だ。私の色も周りと同じ白へと変化して、いや、同化していく。それと同時に私の意識もこの世界に溶け込んでいくのだ。
この世界の白が私の体を包み込む。それは、綿や羊毛とは違う捉えどころのない柔らかさがあった。
そのふわふわが、指先足先からどろりと溶かし、色を奪い、感覚を潰し、多幸感を練り込んでくる。
まるで、体が作り替えられていくよう。そう、雲にでも変わっていくようだった。軽くて、ぷかぷかしていて、どこまでも自由に飛んでいけそうな、そんな雲に。
それが体全体に及んだ頃、次第に声が聞こえてくる。
――沙織、またこの曲を聴いているのか?
――まあ、確かにこの曲は俺の自信作だし。気に入ってくれたんだったらいくらでも聴いてくれてもいいぜ。
――ただ、この曲は未完成なんだ。歌詞がまだ付いていないからな。
――どんな歌詞をつけたらいいか……せっかくの自信作だ。つまらない歌詞なんかじゃ、この曲がかすんじまう。
――まずはテーマから決めたらどうかって? そうだな、そっから始めっか。
――青春、日常、冒険譚……あとは恋とか? 恋、恋か……。
――よし、決めた。恋歌にしよう! 俺と、お前との恋物語でも歌詞にしてみるとか……おいおい、赤くなるなよ! いいじゃないか。きっと良い歌詞が出来ると思うぜ。
――なあ、沙織。今は売れないミュージシャンだけどさ、いずれ、売れっ子になってみせるから。
――いつも傍にいてくれてありがとうな。愛してるよ、沙織。なあ、この曲が完成したらさ、俺と……。
「ねえ、沙織ちゃん。いるんでしょ?」
外から何やら音がする。頭の中に雑念が入り込む。
『――市内で交通事故が発生ました。被害者は二人。一人は大けがを負い、一人が意識不明の重体となっています』
『ねえ、この意識不明の重体になっている人の名前って、沙織の彼氏じゃない?』
『……嘘よ、そんなことがあるわけないじゃない!』
『落ち着いて! まずは、病院へいこう?』
全く、せっかく人が没頭していたというのに。
音楽のボリュームを下げてから、ゆっくりと体を起こしドアの鍵を開けた。
すぐにドアは開いた。その向こうには加奈がいて、私の顔をじっと見ていた。まるで、目の前の人が誰であるかを確認するかのようだった。
「沙織、沙織よね?」
私の肩に手を置いて、加奈はそう尋ねた。
「確かに、私は沙織だよ?」
「良かった。家の中にいたんだね。最近職場でも顔を見ないし、電話にも出てくれないし。どうしたのかって心配だったんだよ」
少し安心したように見える加奈の声が少し涙声になっていた。目元をよく見ると少し泣いているようにも見えた。
「心配、私を?」
「何日も見かけていなかったら心配するに決まっているでしょ! いったい何していたのよ!」
「……ずっと、音楽を聴いてた」
私の言葉に加奈は目を見開いた。肩に置かれた手の力が強くなったのを感じた。
「食事は取ってる? お風呂は? ちゃんと外にも出てる?」
「さすがにそれぐらいはしてるよ」
ヘッドフォンの音楽を流しっぱなしにしていれば、外の喧騒なんて耳に入らないから。別に問題はなかった。
「そっか、良かったぁ」
目の前の加奈はほっと安心したのか、深いため息をついた。肩に掛けられていた力が少し弱くなった。
「ねえ、辛いのは分かるけど、きちんと受け入れて、ちゃんと立ち直らないとだよ。じゃないと、天国の彼氏さんも心配するよ?」
「……うん」
「そりゃあさ、沙織の大事な人も夢も奪われて、色んなことを投げ出したいのは分かるよ。けれど、沙織自身のことは投げ出さないで。ちゃんと自分のことは大事にしてよ」
「…………うん」
ここに残っているのは、私と未完成のこの曲だけ。いくら聞いたって、歌詞なんか聞こえはしない。彼のミュージシャンとしての夢の残骸がそこにあった。
彼の夢は、私の夢だった。でも、何よりも、彼の隣でずっと一緒に暮らしていけること、それこそが一番の夢だった。
夢を奪われた私は、まるで抜け殻にでもなったよう。
彼が私の傍からいなくなったあの日に「私の夢を奪わないで」とか「私の夢を返して」なんて、ヒステリックに叫んでいれば、私はこうならなかったのかもしれない。今ではもう手遅れで、そんな気力なんて残っていなかった。今では、あの人の笑顔すらきちんと思い出せなくなっていた。
ふわっと、柔らかな温かさに包まれた。加奈が私を抱きしめていた。
「ごめんね、他人事で。でも、誰かが綺麗ごとを沙織に言ってあげないと、沙織までどっか行ってしまいそうだから」
加奈の体が少し震えているのが抱きしめられている私には分かった。本当に私の身を案じているのが理解できる。
「……大丈夫、何処にもいかないよ」
――何処にも、もういけないから。
あの長く楽しかった日々は、あてもなくどこかへと消えていった。
まるで、夏の終わりのように。
まるで、はかない雪のように。
今ではそれらに、行かないでと止める手段もない。
残されたのは、深い悲しみ。それがずっと私を見えない鎖で縛りつけている。
どうすれば、この鎖から解き放たれるのだろう。何をどうすればいいのだろう。
私は音楽に逃げ込んだ。音楽の中に浮かんでいる間は、何も考えなくていい。音楽だけがすべてになるから。
彼の残した残骸は、ほのかな残滓となって私を包み込んでくれる。幸せなあの日々に浸ることが出来る。
その幸せに包まれている間は、現実を見なくてもよくなる。彼のいない現実、彼のことを少しずつ忘れてしまっているのに、あの日の出来事だけは頭から離れることができない自分自身を。
「ありがとう、加奈」
私は音楽のボリュームを上げて、また目を閉じた。
彼女の声と、音楽が私をふわっとした幸せに包み込んでくれる。
あちらの世界に行くのも、あっという間だろう。
辺り一面が白。
もうすべてが真っ白になっていた。
一つ大きく違っていたのは、私を包むその白にどこかぬくもりを感じることだ。
今まで無かったそのぬくもりは、確かに私に幸せをもたらすもので。穏やかな春の陽だまりにでも包まれているかのようだった。
もう一生、このぬくもりに包まれていたい。
幸せで満たされていく私に、あの人の声が響いてくる。
――もし、この歌が完成したらさ……俺と結婚してくれないか。
そう。あの人は、私を抱きしめてくれた。
耳元では、あの曲がずっと鳴り響いている。
これが、私の一番の幸せな記憶だった。
この世界に浸っていれば、何度でも、何度でも。この瞬間に浸っていられる。
ああ、私は幸せだ。
大好きな音楽で満たされて、あの人の声に包まれて、確かなぬくもりを感じることができて。
ああ、本当に夢心地。
どうか、このまま、覚めないで。
夢心地 チョンマー @takumimakoto
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