stand by you

 明彦は、空を見上げた。

 先ほど手続きを終え、留置場より解放された。実に、十日ぶりのシャバである。たかが十日の話だったが、本当に長く感じた。留置場の一日はシャバの一年、などと言っていた人がいたが、あれは本当だ。あまりに退屈な生活は、時間を異様に長く感じさせる。それだけで、ひとつの拷問なのだ。思わず、ふうと息を吐く。

 出来ることなら、美味いものを食って酒でも飲んでのんびりしたかった。今ならば、ファーストフードのハンバーガーでも、高級フレンチ並の味に感じられるだろう。留置場にいた時は、出たらあれを食べたい、これを飲みたい、ということを考えていた。

 だが、いざ出てみると、そんな暇はないのだ。今は、やらねばならぬことが多過ぎる。明彦は、足早に警察署を離れた。



 あちこちを歩き、時には電車やタクシーを乗り継ぎ移動した。丸一日かけて、やらなければならないことを全て終わらせる。

 その後たどり着いたのは、とある一軒家だった。見た目は、古そうな平屋である。

 ここは、明彦の隠れ家だ。最近は、この家で寝泊まりしている。もっとも、名義は違う人間のものだ。今のところ、警察にはバレていないらしい。

 中に入ると、何も変わりはなかった。出て来た時と、全く同じ状態である。室内はがらんとしており、殺風景という言葉そのものの状態である。家具は最低限の物しか置かれていないし、壁は灰色だ。部屋はきちんと片付いていたが、ただ単に物がないせいで、散らかりようがないとも言える。

 全く面白味の感じられない家だ。物がほとんど置かれていないが、いわゆるミニマリストともまた違う。ホラー映画に登場するような殺人鬼は、基本的にコレクターが多いようだが……明彦とは、完全に真逆であろう。

 もっとも、余分な物を置かないことには理由があった。いつでも、この家を捨てられるように……という配慮からだ。

 これまた、チンから学んだことである。



 

 奥の部屋に入り、久しぶりに机の引きだしを開けた。中から、一枚の写真を取り出す。これを見るのは何年ぶりだろう。

 明彦は、中学から高校の時に撮影した写真の類は全て捨てている。皆と写した画像も消してしまった。逮捕された時、証拠になる可能性があるからだ。しかし、この写真だけは捨てられなかった。

 写真には、三人の少年が写っている。丸い体の正和が真ん中でしゃがみこんでおり、明彦と健一が左右にて立っている形だ。

 困ったような表情でカメラの方を向いている正和とは対照的に、明彦と健一はお互いにパンチを打ち合っているポーズである。ボクシングのクロスカウンターのような形だ。

 そんな写真を見て、明彦はくすりと笑った。かつての思い出が、まざまざと蘇る。


 ・・・


 明彦は、もともと転校生だった。学校を移って間もなく、健一と喧嘩になる。

 今では、何が原因だったのかも覚えていない。つまらないことで意地の張り合いとなり、罵り合いの末に殴り合いになった。クラス中の机と椅子をぶっ倒し、全員が遠巻きに観戦するしかないほど凄まじいものである。もちろん、止められる者などいなかった。

 明彦は、天性の運動神経と向こう気の強さを持ち、頭もキレる。喧嘩では負けたことがなかった。しかし、健一も腕力では負けていない。その上、打たれ強く根性がある。お互い、へとへとになるまで殴りあったが決着がつかない。子供同士の喧嘩など、ほとんどの場合どちらかの優勢が決まった時点で終わるものだ。しかし、このふたりはどちらも引く気配がない。

 最終的には、担任の教師が止めに入ることで終了した。さんざん説教された挙げ句に、無理やり仲直りの握手をさせられたが、お互いに納得してはいなかった。

 しばらくしてから、些細なことでまたしても喧嘩になる。今度も、決着はつく前に教師が止めに入ってきた。前回よりもさらに長く説教され、またしても仲直りの握手をさせられる。

 その後は、接点もないまま時が過ぎていった。明彦は、健一のことを意識していたし、また一目置いてもいた。しかし、自分から話しかけたくはない。同じクラスだが、お互いに距離を置いていた。

 ところが、ひょんなことから関係が変わる。




「おいブタ! なんだこれは!?」


 放課後、帰ろうとしていた明彦だったが、耳障りな声を聞き立ち止まる。見れば、廊下に数人の生徒がいた。どうやら、ひとりの少年をイジメているらしい。

 やられているのは、同じクラスの生徒のようだ。確か、中田正和という名の太った少年である。一方、イジメている少年は隣のクラスにいる郷田ゴウダとかいう奴だ。手下を連れ威張っていたガキ大将タイプである。クラスが違うため特に面識はなかったが、何となく好きにはなれていなかった。

 その郷田が、正和からノートを取り上げ、げらげら笑っている。聞いていると不快になる笑い声だが、取り巻きはそうは思っていないらしい。一緒になって笑っている。


「か、返してよお」


 訴える正和に、郷田は蹴りを入れた。バタリと倒れた姿を見て、取り巻きが歓声をあげる。

 明彦は呆れて苦笑する。ここまでわかりやすいバカな悪者キャラが、現実にいるとは思わなかった。あれでは、評判が下がるだけだ。

 普段なら、明彦は見て見ぬ振りをしていただろう。だが、その時は健一が近くにいた。苦々しい表情を浮かべている。助けたいが、ふんぎりがつかない……そんな風に見えた。

 明彦の中の負けん気に火がついた。あんな奴らにビビってんじゃねえんよ。俺は、お前とは違うからな……心の中で健一を罵り、すっと息を吸い込む。


「君たち、ずいぶんとつまらないことしてんね。んなことしてて面白いの?」


 すかした口調だったが、内心ではドキドキしていた。郷田を含め、全部で七人もいる。こいつら全員が、一斉に襲いかかって来たら勝ち目はない。逃げるしかないのだ。

 イジメていた少年たちは、じろりと睨む。


「何、お前このデブの味方すんの?」


 郷田が言った。周りにいた取り巻きが、ゲラゲラ笑う。明彦は、心の中で舌打ちした。こいつらは、引いてくれそうもない。

 その時、健一が進み出てきた。明彦の前に立ったかと思うと、こちらを向く。

 次の瞬間、とんでもないことを口にした。


「なあ、この前の決着つけようぜ」


「はあ? 何言ってんだよ?」


 平静な表情を作ってはいた。だが、内心では己の行動を後悔していた。まさか、この状況で健一まで敵に回るとは。

 健一はというと、ニヤリと笑った。そして、郷田たちを指差す。


「こいつらを、どっちが多くぶっ飛ばせるか勝負だ」


 一瞬、何を言っているのかわからなかった。だが、すぐに理解する。健一は、自分に手を貸してくれる気なのだ。

 感激のあまり、思わず笑顔になっていた。健一の強さは、肌身で知っている。この男が味方になってくれるなら、郷田たちなど怖くない。


「面白いじゃん。いいよ。勝った方が、ジュースおごりな」


 言った直後、明彦は手近な相手に殴りかかる。一瞬遅れて、健一が続いた──



 数分後、相手の少年たちは泣きながら引き上げていった。

 明彦は、健一の顔を見る。着ているタンクトップには、血が付いていた。だが、本人はどこも怪我していない。相手からの返り血だろう。

 こいつの手助けがなかったら、危なかったのは間違いない。ありがとう、と言いたかった。だが、別の人間が先にその言葉を口にした。


「あ、あの、ありがとう」


 正和だ。おどおどした態度で、ふたりに近づいてきた。かなり太っており、いつもノートに絵を描いているという印象しかない。

 その時、健一が口を開く。


「おい中田、どっちの勝ちだ?」


「えっ?」


 困った顔の正和に、健一はなおも尋ねた。


「お前、見てなかったのか? 俺とこいつと、どっちが多くぶっ飛ばしたんだ?」


 明彦を指差しながら、健一は正和に詰め寄っていった。


「なあ、どっちの勝ちだよ?」


 繰り返す健一を見て、明彦は思わず苦笑した。本当に負けず嫌いな奴だ。正和は、泣きそうな顔でふたりの顔を交互に見ている。

 仕方ない、今回は負けてやるか。


「見てなかったみたいだな。じゃあしょうがない、俺の負けでいい。ジュースくらい、おごってやるからよ」


 言った途端、健一がじろりと睨んだ。


「負けでいい、って何だよ? 勝負は、はっきりさせねえといけねえだろうが」


 何と強情な奴なのだろう。その上、融通が利かないときている。明彦は舌打ちした。


「わからない奴だな。俺の負けでいいって言ってんじゃねえか」


「んだと!? 勝ちを譲ってやるってのか!?」


「そんなこと言ってないだろうが。細かい奴だな。いい加減にしろバカ」


「この野郎……」


 健一が凄んだ時だった。突然、正和が叫んだ。


「もうやめてよ! 悪いのは、数えてなかった俺だよ! 殴るなら、俺を殴ってよ!」


 予想もしなかった言葉に、唖然となるふたり。だが、そこで終わりではなかった。正和は目をつぶり、腹を突き出し前進して来る。


「さあ、殴りなよ! 殴っていいよ! その代わり、ふたりは喧嘩しないで! お願いだよ!」


 ぶるぶる震えながら、なおも叫ぶ。この奇行を前に、さすがのふたりもやる気が消えた。健一は顔をしかめ、明彦を見る。


「仕方ねえ。今回は引き分けだ。それでいいな?」


「ああ、いいよ」


 言いながら、明彦は正和の頭をパチンと叩く。


「お前、面白いな。今度イジメられたら、今みたいな感じでいけ。相手はビビるぞ」




 それ以来、三人は一緒に遊ぶようになった。なぜか、引っ込み思案なはずの正和が学校で話しかけてくるようになり、ふたりは戸惑いながらも言葉を返す。やがて皆で帰るようになり、いつのまにか常に行動を共にするようになっていた。

 もっとも明彦と健一のライバル関係は変わらない。ふたりは、何かにつけて競い合う。給食の早食い、五十メートル走のタイム、ゲームのスコア、腕立て伏せの回数……だが同時に、信頼のおける相棒でもあった。

 そんなふたりのぶつかり合いを、上手く和らげてくれたのが正和である。明彦と健一だけで遊んでいたら、確実に喧嘩になっていたはずの局面でも、正和がいるから引いた……そんなことも、一度や二度ではない。正和の存在が、緩衝材になってくれていたのだ。

 三人の世界は、いつまでも続く……当時は、そう思っていた。

 

 ・・・


 明彦は改めて、これまでの人生を振り返ってみた。

 大勢の人間とかかわってきた。だが、本当の意味で心を許せたのは健一と正和だけだ。

 あのふたりこそ、本当の友達だ。損得抜きで付き合える人間だった。喧嘩っ早く強情だが、根はお人よしで人情話に弱い健一。引っ込み思案で天然だが、芸術家肌で非凡なセンスを感じさせた正和。

 もし、あの日……明彦が空き家の探検をしなかったら、三人はどうなっていたのだろう──

 

 それにしても、まさかカトケンが警官になるとはな。


 明彦は苦笑した。明彦と健一……将来、犯罪者になりそうなのは、間違いなく健一の方だったはずだ。無茶で無謀で向こう見ずな健一は、犯罪すれすれ……いや、犯罪以外の何物でもない悪戯いたずらを実行しようとして、何度止めたかわからない。一度、不良中学生に立ち向かいそうになり、明彦と正和がふたりがかりで止めたこともあった。

 そんな健一を見ていて、将来に不安を覚えたのも確かだ。しかし予想に反し、あの男は警官になっていた。自分と違い、健一はまともな人生を歩んでいたのである。その事実に、明彦は複雑な思いを抱いている。様々な感情が入り混じった思い……嬉しいという気持ちはある。だが、素直に喜べない気持ちもある。

 そして、取り調べ室でのやり取り──

 自分の前で土下座し、お願いだから罪を償ってくれ! と涙目で叫んだ健一。それは、殴られるよりつらい光景である。黒く染まっていたはずの心すら揺り動かした。

 あの瞬間、明彦ははっきりと悟る。


 俺は、こいつに負けたのだ──


 一瞬、何もかも吐いてしまおうかという衝動に駆られた。正和のことさえ聞いていなかったら、恐らくは自供していたはずだ。

 しかし、正和の自殺を聞かされた以上、自分ひとりが無傷でいるわけにはいかなかった。

 それに、健一の優しさに身を任せたくはない。あいつは日村とは違う。恐らく、全身全霊で明彦を守ろうとするはずだ。明彦にはわかっていた。警官になっても、健一の基本的な部分は変わっていない。上役に盾突いても、明彦の味方をするだろう。

 仮に日村の時と同じように、有期刑にしてくれるなら全てを話す……といえば、健一はその約束を全力で果たそうとするだろう。十年以上会っていなかったが、この男のそうした部分が変わっていないことは一目でわかった。制服警官の立場で、検事に土下座して頼みかねない。だからこそ、健一の世話になるわけにはいかなかった。

 さらに……明彦に残された小さなプライドが、かつてのライバルに屈することを許さなかった。

 結局、こんな形でケリをつけるしかなかったのだ──

 その時、強い眠気を感じた。目の前の映像が、ぐらりと揺れる。抵抗できない強烈な眠気だ。明彦は横になり、目を閉じる。


 マッちゃん、ごめんよ。

 俺も今、そっちに逝く。


 意識が消える間際、明彦は呟く。その目から、ひとすじの涙がこぼれた。



 連続女性失踪事件の重要参考人であった野口明彦。

 彼の死体が発見されたのは、釈放された三日後のことである。死因は、睡眠薬の大量摂取による自殺だった。

 発見したのは、加藤健一巡査であった。




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