勝ち逃げ
「三番、調べだ」
相も変わらぬ留置係の声だ。寝転んでいた明彦は、面倒くさそうに立ち上がる。
やがて、金属の扉がゆっくりと開いた。留置係が彼を見る表情は、それまでとは違っている。いつもは、お前など知らんとでもいいたげな態度であった。話しかけても、露骨に無視されていた。
ところが、今日は違う。あからさまな憎しみがある。お前を殺してやりたい、というような、殺意に近い思いがありありと感じ取れた。手錠をかける時も、腰縄を巻く時も乱暴だ。今にも突き飛ばされそうな雰囲気である。
その理由には、思い当たるフシがあった。どうやら、
「おはよう」
取り調べ室にて声をかけてきたのは、いつもの日村ではなかった。
パイプ椅子に座っていたのは、くたびれたスーツを着た中年男だ。髪は、白いものが半分以上を占めている。背はさほど高くないが、がっちりした体つきだ。顔には皺が目立つが、それでも風貌の厳つさを損なってはいない。目つきは鋭く、ヤクザとはまた違う独特の怖さがある。そこいらのチンピラなど、ひとにらみで退散させられるだろう。
明らかに、日村よりキャリアは長い。だが、出世しそうにないタイプだ。
「
中年の刑事は、軽く会釈した。明彦は、大げさな表情で目をパチクリさせる。
「おやおや、あなたが担当になったのですか。日村さんはどうしたんです? 風邪でも引いたんですか?」
わざとらしく尋ねると、相手は苦笑した。
「へっ、知ってるくせによ。全部、お前が仕組んだんだろ」
「いいえ、知りません。何が起きたんですか?」
とぼけた表情で尋ねてはいるが、実際のところ何が起きたかはわかっている。しかし、この頑固そうな刑事の口から直接聞きたかった。
自分の勝利を、思い切り噛み締めるために──
すると、高山と名乗った刑事は語り出した。
「日村はな、この件から外された。お前を逮捕するため、違法捜査をしたせいでな。具体的には、昔パクった女をお前に接触させ、囮捜査をしたんだよ」
「えっ、本当ですか? それは知りませんでした。詳しく教えてくださいよ」
「お前、友達いねえだろ」
そう言った高山の顔は、苦虫を噛み潰したようだった。対照的に、明彦の顔は楽しくて仕方ない、という雰囲気である。
少しの間を置き、高山は再び語り出した。
「日村はな、かつて詐欺でパクった女に連絡した。そいつは、男をたらしこんでは金を騙し取っていたんだよ。ところが、そんな生き方からは足を洗い、まともになろうとしていた。だが、日村はその女を脅迫し仲間に引き入れた。チンの組織を潰すためにな」
「うわあ、更生した前科者を脅迫してたんですか。ひどい話だ。それ、ドラマで見る悪徳刑事の手口そのまんまじゃないですか。ヤクザも真っ青ですね」
大袈裟なリアクションをする明彦を、高山はじろりと睨んだ。だが、それだけだった。特に何もせず話を続ける。
「結果、日村はお前を逮捕した。だが、女と日村のやり取りが、どういう訳かお前の弁護士に知られちまった。弁護士は、ウチの署長に取り引きを持ちかけた。これは違法捜査では済まない案件だ、下手すれば脅迫罪で訴えることも可能だ……ってな。お前を直ちに釈放しなければ、こいつを公にするとも言った。署長は、それを承知したよ」
「そうですか。いやあ、助かりました。何せ、ここは本当につらかったですよ」
それは本音だ。ここは、確かにつらかった。一度は、本当に落ちかけた。
だが、弁護士が動いてくれた。女の家まで出向き、さんざん揺さぶりをかける。すると、あっさりと落ちた。日村とのやり取りを、弁護士に全て教えてくれたのだ。
後は簡単だった。弁護士が警察の上層部に掛け合い、明彦の釈放を約束させた。無論、明彦への軽犯罪法違反の容疑など不問である。
「お前は、あさってには釈放だ。悪いけどな、今すぐってわけにはいかないんだよ。こちらにも、いろいろ面倒な手続きがあるからな。ま、よかったじゃねえか。もう、お前を逮捕することは出来ないんだからよ」
そう言って、高山は笑った。もっとも、心からの笑顔でないのは明白だった。
「まあ当然でしょうね。僕は、何も悪いことはしていないですから」
すました表情で言ってのけた明彦を見て、高山は口元を歪める。
「そうかい。だがな、俺はわかってるよ。お前は、とんでもない極悪人だ。ヤクザも半グレも、お前に比べりゃ教会の聖歌隊みたいなもんだよ」
「ちょっとお、やめてくださいよ。僕は一般人です。そんな怖い人たちと比べないでください」
へらへら笑いながら口を挟んだが、高山は無視して語り続ける。
「俺はな、これまで色んな奴を見てきたよ。自分の家族を皆殺しにした挙げ句、家に火をつけた十四歳がいた。かと思うと、小学生で同級生の首をへし折り殺したガキもいた。世の中ってのは、俺たちが何をしようが変わらない。人間が良くなるか悪くなるかは、結局ただの運なのかもしれねえな」
しんみりとした口調だ。全身から、投げやりな雰囲気が出ている。この老刑事、日村とは完全に真逆だ。やる気が感じられない。
「俺はもう、何もかも嫌になっちまったよ。後はもう、定年までおとなしく生きるだけだ。事件解決なんざ、どうでもいい。この取り調べも、敗戦処理みたいなもんだ」
淡々と語る高山の顔は、本当に諦めてしまったように見える。明彦は、思わず笑ってしまった。
「敗戦処理ですか。上手いことを言いますね」
確かにその通りだ。もはや、警察の敗北は確定である。にもかかわらず、取り調べをしなくてはならないとは。これは、敗戦処理以外の何物でもない。
「これで、お前は勝ち逃げ出来る。さんざん悪さをしておきながら、罪には問われない。嬉しくてたまらねえだろう」
「人聞きの悪いことを言わないでください。僕は、何も悪いことはしていません。悪いことをしたのは、あの日村さんの方ですよ」
明彦は茶々を入れるが、高山は無視して話を続けている。
「俺はな、刑事になってから二十年以上経つ。お前がランドセル背負ってる頃から、犯罪者を追っかけてきた。世の中の汚い部分を、さんざん見てきたよ」
「刑事生活二十年ですか。いやあ、大したもんだ」
その軽口にも、高山は何の反応もせず話を続ける。これもまた、刑事生活二十年で培われたものなのかも知れない。挑発をスルーする能力だ。
「お前がどういう人間かは、一目でわかる。お前はもう、俺が何を言おうが変わらねえ。しかもだ、警察はお前に手出しできない。何たって、日村のやらかしたことは完璧な不祥事だからな。公になれば、日村のクビが飛ぶ。お偉いさんも、無傷じゃすまねえ」
そこで、いきなり表情が変わった。悪そうな顔になる。
「そんな訳でだ、これは取り調べじゃねえ。ただの雑談だ。なあ、何か面白いネタねえのか?」
「面白いネタ? 何ですそりゃあ?」
「誰かが人を殺したとか、どっかに死体が埋まってるとか、そんな話だよ。又聞きでもいい。カツ丼くらいなら奢るぜ」
こいつは、ひょっとしたら悪徳刑事なのかもしれない……などと思いつつも、明彦は大袈裟に首を横に振った。
「ないですよお。そんなことより、さっきの話を詳しく聞かせてください」
「何をだ?」
「日村さんは、何でそんなことしたんですかねえ? 動機は何なんですか?」
そう、初めて会った時から、日村の態度は妙だった。恐らく、個人的な怨恨で動いていたのだろう。ならば、その理由を知りたい。
もっとも、教えてはもらえないだろう……とは思っていたが、その予想は外れる。
「知りたきゃ教えてやる。あいつの彼女がな、一年くらい前に姿を消した。調べたところ、チンの組織に殺されたようなんだよ」
「えっ、そうなんですか。まあ、僕には関係ないですけどね」
すました表情で言葉を返したが、内心では驚いていた。話の内容もさることながら、こんなにも簡単に教えてくれるとは思わなかった。
この刑事、金さえ積めば何でも教えてくれるタイプかもしれない。ならば、仲良くなって損はないだろう。
「そうかい。で、日村はトチ狂っちまった。昔、詐欺でパクった女を脅迫して、お前に接触させた。ところがだ、あのバカは女とのスマホでのやり取りを消しておかなかった。結果、お前の弁護士にバレちまった」
「困ったもんですね。法を守る側の刑事が、法を破ったら終わりでしょう」
「確かに、あいつはやり過ぎた。もう、出世の道は閉ざされたな。しかしよう、気をつけた方がいいぜ。あいつは、これで諦めるようなタマじゃねえ。ひょっとしたら、刑事としてではなく個人でお前らを狙うかもしれねえぞ」
その口調は、まんざら冗談でもなさそうだった。明彦は、情けない表情を作る。
「そりゃまいりましたね。刑事さん、助けてくださいよ」
「知るかよ。自分の身は自分で守るんだな」
「わかりました。そういえば、さっき面白いこと言ってましたよね」
「面白いこと? 俺、そんなこと言ったか?」
「自分の家族を皆殺しにした挙げ句、家に火をつけた十四歳のガキがいた……って、さっき言ってたじゃないですか。そいつは、どうなったんですか?」
バカのふりをして聞いてみた。普通、刑事は他の事件のことをべらべら喋ったりはしない。昔ならともかく、昨今は個人情報の厳守は絶対である。
刑事が容疑者を相手に、捜査の過程で知った情報をべらべら喋った……などとマスコミに知られたら、始末書を書くような事態になる可能性がある。下手をすれば、クビが飛ぶことになるかもしれないのだ。
もし、ここであっさり喋ってしまうようなら、この老刑事は脇が甘い。今後、使えるかもしれない。
そして高山は、あっさりと喋った。
「お前と同じだよ。釈放した」
「えっ? そんな悪い奴を釈放したんですか?」
「仕方ないんだよ。物的証拠がないからな。俺も取り調べたが、何を言おうがビクともしやがらねえ。まだ十四歳だっていうのに、大したガキだったよ」
「そいつは、何で家族を殺したんですか?」
「哀れな奴なんだよ。まず、父親がおかしくなり働けなくなった。次に、生活維持のため母親が金持ちのオヤジの愛人になった。そのオヤジってのがとんでもない奴でな、昼間から家にずかずか入り込み、家族の見てる前で母親とヤッてたんだとよ。そんな場面を、小学生の頃から見せつけられてたんだよ」
一切の感情を交えることなく、淡々と語っていく高山。明彦はというと、思わず聴き入っていた。
その少年が、どこか自分に似ている気がしたのだ。
「で、ある日ブチ切れちまった。夜中に父親と母親と姉とオヤジを殺し、家に火をつけ逃げた。家が全焼した後に出て来たんだが、僕は何も知りません……なんてぬかしやがった」
そこで、明彦は思わず口を挟んでいた。
「その子は、本当にやったんですか?」
「くまなく調べたが、証拠はない。何より、十四歳のガキにそんなことは出来ない……と上は判断した。さらに現場検証を重ねると、父親が火をつけた可能性が高いという結果が出た。だから、父親の無理心中ということで決着したんだよ。だがな、俺はガキがやったと信じている」
先ほどまでと違い、自信に満ちた言葉である。本当に、その少年がやったと確信しているらしい。
この自信の根拠は何だろう……と思ったが、口から出たのは違う言葉だった。
「そのガキは、どうなったんです?」
「知りたいか? なら教えてやる。そのガキはな、お前みたいに裏の世界に入った。さんざん悪さを重ねた挙げ句、道端で頭をカチ割られ死んだよ。犯人はまだ捕まってねえが、たぶん裏の人間だろうな」
高山は、不意に口を閉じた。明彦を、奇妙な目でじっと見つめる。
少しの間を置き、再び語り出した。
「これだけは言っておく。裏の世界の住人は、ほとんどが野垂れ死にだ。死体が出て来る奴なんか、まだマシな方なんだよ。お前も、そんな死に様を晒すことになるだろうよ」
それは本当だ。
ショーの後、女たちの死体は完璧に消えている。影も形も、髪の毛一本すら残さずに消えている。恐らく、永遠に発見されないだろう。
いつか、自分もそうなる。その自覚はある。
「まあ、俺が何を言おうが、お前は生き方を変えねえだろうな。好きなようにしろよ。俺はもう、何もかも嫌になっちまった。さっさと務め上げ、退職金もらって引退したいよ」
そこで、高山は笑った。だが、おかしくて笑ったのではないように見えた。
「だがな、今はまだ刑事だ。形だけでも、仕事しなくちゃいけないんだよ。だから、明日もまた付き合ってくれ」
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