第壱章 第玖節:屍人 -シビト-

 心地良さに訪れた眠気に、こくりこくり、船を漕ぎ始めた一颯を現実へと連れ戻したのは他でもない。



「あの、一颯さん」



 みことである。不安そうな表情かおでおずおずと尋ねる彼女を、一颯は訝し気に見やった。



「どうかしたのか?」

「あの、村正さんって何者なんですか?」

「何者って、あの人は鎌倉時代からずっと続いている鍛冶師だよ。実際、あの人の刀は怪異に対してよく斬れるし」

「そ、そうじゃなくて! その、さっき手を握られたんですけど……すごく、冷たかったんです」



 村正が掴んだ右手を、みことは温める様に優しくゆっくりと擦った。



「なんていうか、うまく言えないんですけど……生きてる人間って感じがしなかったです」



 彼女の表現はあまりにも現実離れしずぎていて、また村正の中傷にも捉えられかねない。

 すべてはみことの憶測の域の話でしかない。手が冷たかった、たったそれだけの理由で村正を人非ざる者として認識するなど失礼な話だ――だが、一颯は「よく気付いたな」と、逆に彼女を称賛した。


 この反応はどうやら、みことも予想していなかったらしく「ど、どういうことですか?」と、酷く驚いた様子だった。



「――、まだお前には説明していなかったな。怪異には色々と種類があるんだよ」



 怨霊が時を経て実体化するまでに至ったもの、それが怪異である。

 遥か古の時代、実体化するという怪異の特性に目をつけた呪術者がいた。


 もし、怪異を食らったらどのような影響が及ぼすのだろうか――?



「――、噂によるとその呪術者は名門の生まれでありながら才能がまったくなかったらしい。だから色々と拗らせたんだろうな」

「そ、それで……怪異をもし、食べちゃったりしたらどうなるんですか?」

「怪異は負の感情を溜めに溜め込んだゴミ箱みたいなもんだ。日常ゴミだって口にしたら何かしらの悪影響を身体に及ぼすのはお前だってわかるだろ? 怪異を食らった人間は、人間じゃなくなる――魔人や咎人、色々な呼び方があるけど、俺達の間じゃ“屍人シビト”ってよく使ってるな」

「シ、屍人シビト……じゃ、じゃあ村正さんって――」

「ご明察」と、一颯は小さく拍手した。



 千子村正せんごむらまさは怪異に魅入られた憐れなる者の末路なのだ。

 怪異を知りたいがために自ら食らうなど、もはや正気の沙汰ではない。しかし彼の理性は人間のままであるし、怪異のように人を食らうこともない。


 恐らく、と前置きをして村正が未だヒトとして保っているのは、刀に対する強烈な執念があったからだ。あくまでもこれは憶測の領域で、真実は未だ解明に至っていない。


 ――ん~いやよくわからん。でも、とりあえずやめとけ。アイツらはマジで不味い。


 と、当の本人でさえもよくわからないのだから、第三者が当然わかるはずもない。



「まぁ、さっきも言ったけど怪異を食らって何かしらの力を得ようとする輩は、今も少なからずいるのが現状だな。だけど俺達はどこまで言っても人間だ、だからそれ以上の力を得ようとすれば当然何かしらのペナルティーを負う」

「ペナルティー?」と、みことがそう尋ねた直後のことだった。



 庵全体を包みこんで、今にも跡形もなく燃やし尽くさん勢いで炎が燃え上がった。

 血のように赤黒く、うねる様はさながら大蛇のよう。

 穏やかな気候は瞬く間に灼熱地獄と化し、まず最初に「あ、熱い……!」とみことが根を挙げた。肌をちりちりと焼く高熱から少しでも逃れんと遠くへ逃げる彼女の背を、一颯は最初の位置から微動だにせず見守っている。

 彼はこの熱を感知しないほど鈍くも、ましてや無痛覚症でもない。

 現に頬にはうっすらと汗がじんわりと滲んでいる。



「相変わらず、仕事の時の村正さんはめっちゃ熱いな……」

「い、一颯さーん! あ、熱くないんですかー!」と、遠くから大声で尋ねるみことに、

「俺はもう慣れたんだよー!」と、一颯も大声で返した。



 およそ数分程度で、赤黒い炎は収まった。



「ほ、炎が消えた……?」

「みこと、お前はそこで待っていろ。後、何があってもこっちは見るな」

「ど、どうしてですか?」と、疑問を抱くみことを他所に、一颯は庵の方へと向かった。



 正確には、庵だったものである。赤黒い炎によって炭と化した庵は、もはや見る影もない。

 同様に中にいた村正とて、さっきの炎だ。生存確率は絶望的であろう、とそう思うのが普通で、現実は少々異なった。



「――、終わったぞ大鳥の坊主」



 ひょっこりと出てきた村正に、かつての面影は皆無である。

 肌は黒く焼き焦げ、なんとも言えない異臭が辺り一帯に漂う。

 どこが目で口かさえも判別できないほど損傷がひどい身体で、村正はまだ生きていた。

 これこそが、人道から外れ禁忌を犯した屍人シビトの末路である。

 永遠に死ねない身体、か……。人間に限らず、命という概念がある者に必ず訪れる死が、この男にはない。首を刎ねようが、心臓を穿とうが、そして老衰しようが、彼はまた新たな村正として再誕する。一颯は村正に課せられた罰を心底恐ろしく思っていた。



「とりあえず、こっちはあのお嬢ちゃんのだ……切れ味は――」

「わかってます。村正さんの打った刀を疑ったことは一度もありませんから」

「ふん、わかってるじゃあねぇか。それとホレ、こっちはお前さんのだ」

「ありがとうございます」と、三振りの刀を一颯が受け取った瞬間、指先からぼろぼろと村正の肉体は崩壊した。



 足元に残ったのは、かつて千子村正せんごむらまさだった消し炭もの。骨さえも残らずこの世から完全に消滅したわけだが、村正に死の概念は存在しない。

 時間が経てば、新しい肉体を得た村正がここに蘇ろう。

 次に訪れた時、みことにどう説明したものやら。一颯はうんうんと唸りながらも、その場を後にした。



「い、一颯さん? 村正さんは……」

「これを、お前に渡しておく」



 一颯は無造作にみことにそれを手渡した。

 造りは朱漆打刀拵しゅうるしうちがたなこしらえ。刃長はおよそ二尺二寸約66cmと、うっすらと紫身を帯びた刃が実に妖艶だ。


「こ、こんなにいい刀をもらっちゃってもいいんですか!?」と、興奮気味に尋ねるみこと。


 剣術は映えないと口にしても、剣士としての血筋故か。刀を前にした途端の高揚した言動は、幼い子供そのものでもあった。そんな輩に真剣を渡すのは果たして、いかがなものか。良識人がこの場にいればそんな声が上がってもおかしくはなかろう。

 対策は、既に施されている。



「村正さんの打った刀は、怪異相手にどんな武器よりもよく効く。だからその刀は、お前自身を守る盾だと思え……絶対に無くすなよ」

「は、はい! だ、だけどこれ……真剣なんですよ、ね」

「あぁ、真剣だぞ。だから先に言っておくぞ、みこと――『人間には絶対に刃を振るうな』、だ」

「も、もちろんですよ! 破ったら痛い思いをするのは私なんですからね!」

「よろしい。それじゃあ……あ~さっきで飴がなくなったから、これでとりあえず許してくれ」

「え? ちょ、一颯さん……!?」



 頬をほんのりと赤らめて狼狽するみことの頭を、一颯はそっと優しく撫でた。

 撫でる度にさらりとした栗色の髪が指の間を流れていく。

 しばし撫でていた一颯だったが「ちょ、ちょっとタンマタンマ!」と、みことの手によって払いのけられた。



「い、いきなり撫でないでください! び、びっくりしたぁ……」

「いや悪いな。でもお前と俺との間には“血化粧ちけわい”による誓約が結ばれている。何かしらお前にしてやらないと、俺の方がペナルティーを被ることになるからな。次はちゃんと飴用意しておくから」


「……飴ばっかりですか?」と、ムッと膨らませた頬で不服を訴えるみこと。


「何かリクエストでもあるのか?」

「じゃあ、次からはA5のお肉で! 焼肉食べたいです!」

「毎日焼肉を食べさせろってか? お前如きにどうして俺がそこまで金叩かないといけないんだよ、却下だ却下。なんなら駄菓子でもいいぐらいだ」

「あ、ひっどーい! 育ち盛りの現役JKがもっと喜ぶようなものプレゼントしないと一颯さん、女の子にモテませんよ!?」

「お前が単純に食いたいだけだろうに……」



 ぎゃあぎゃあと喚くみことに、一颯は小さく溜息を吐くとその場を後にした。

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