50歳と20歳の暖炉

aobuta

50歳と20歳の暖炉

「少し、お話してもよろしいでしょうか?」

 杉澤は、いつものゆっくりとした速度で話しかけた。暖炉のそばの椅子に腰掛けている男性が、読んでいた雑誌から目線を上げた。


 温暖化とは言ったものだが、12月のこの時期ともなると、人はそろって、こたつの猫よろしく暖房器具から離れられなくなっていた。この部屋はさしづめ談話室と呼ぶにふさわしい空間となっており、この建物の主人の好みなのだろう、レンガづくりの暖炉の中で薪(たきぎ)がパチパチと音を立てていた。


「ええ、かまいません」

 男性は手に持っていた雑誌を閉じると、自分のわきに置こうとした。

「いえ、雑誌はそのままで結構ですよ。というのも、何を隠そうですね……」

 そう言って杉澤は、身体の後ろに持っていたものを男性に見せる。

 それはまさしく、男性の手にあるものと同じ雑誌「ふくろう」の、同じ年の1月号であった。男性の目がびっくりまん丸となる。

 杉澤はイタズラのばれた子供のように、少し恥ずかしそうに取りつくろう。

「もしや、あなたもお仲間かと思いましてね。いや今日この日、この場所にいるということは、間違いないと思い、勇気を出してお声がけさせていただきました」

 やや置いて、男性は嬉しそうに微笑んだ。

「もしや、あなたも……! 小説家王交の、秘密のメッセージを解き明かしに来たのですね」



 王交(おうこう)という作家は、ある有名な小説のコンクールで佳作に選ばれ、その時の作品『夢見る季節』が、杉澤と男性が手にしていた雑誌上でお披露目となった。最終選考で残念ながら大賞は逃したが、当時の選考委員の間では評価が高く、今後の活躍が期待されていた作家だ。

 ただしそれも2年前の話、ここ最近は活動の報告が途絶えていた。


 ところが先月、王氏のSNSへ1年ぶりに、ある意味深な投稿が行われたのだ。

「一番の吉日に、ブタとハチミツ酒が飲める酒場に行こうと思う。一時の幸福と苦痛、そしてそれに勝る価値が待っているだろう。」


 いち同人作家のSNS投稿は世間をにぎわすには至らなかったが、一部の本読みの間では、王氏が満を辞して新作を披露するのではないかと話題になった。

「しかし、自分も杉澤さんも、あの投稿が特定の日と場所を示していると予想して、わざわざ旅行に出るとは、お互い物好きですね」

 シュウトと名乗った男性は、普段は書店で働きながら生計を立てつつも、将来はやはり小説家としてデビューを飾りたいのだと杉澤に話した。身長が高く大人しそうな雰囲気の青年だが、販売の仕事をしているからか、髪は短くこざっぱりとしていた。

「シュウトさんも謎を解いてここへ来られたと思いますので、今さら言うまでもないかもしれませんが。僕は小説に出てくる名前の由来を調べるのが好きでしてね。『ハリーポッター』シリーズで度々登場する「ホグズミード村」とは、ブタ(Hogs)とハチミツ酒(meade)に由来するのだとか。ホグズミード村の酒場といえば「三本の箒」ではないか、そう思ってマップで調べたところ、大阪USJの他に、数年前にこの街にも、同じ名前のレストラン兼旅館がオープンしたことを知りました」

「一番の吉日がどうして、言ってしまえば普通の日に見える、12月の今日なのでしょう? 大安の日とか、12月はクリスマスや大晦日もあります」

「小説家にとって一番嬉しい瞬間は、自分の作品が評価してもらえた時ではないかと思いましてね。2年前、掲載雑誌の1月号が発売された今日の日付に、思い切って賭けてみました。僕も気が付けば人生50年を過ごしてきましたが、このワクワクする気持ちを与えてくれた王氏に感謝していますよ」

「自分も、この出会いに深く感動し、感謝の気持ちでいっぱいです。杉澤さんは普段は何を? 差し支えない範囲でもちろん大丈夫ですが」

「僕は、大学で文学部の教員をしています。僕はもっぱら、読む専門ですが」

「おやおや、先生でしたか。杉澤先生と呼ばないとなあ」

「いえいえ、杉澤でけっこうですよ。今日は休暇を取っておりますし、ただのいち読者ファンですから」

「……あのう、私もお話しに混ぜてもらいたいんですけど」

 盛り上がってきたところに、聞き慣れぬ声がした。

 杉澤が振り返ると、そこにはもう一人、「ふくろう」1月号を手に抱えた、麗らかな女性が二人のそばに立っていた。


 大人びている容姿からは予想できなかったが、ミキと名乗る女性は大学生だと自己紹介した。もちろん年齢を杉澤のほうから質問した訳ではないが、大学2年生20歳であること、将来は薬を開発する仕事、いわゆる創薬(そうやく)の道に進みたいのだと明かした。今日のミキは灰色のニットを着用しているが、確かに白衣姿も似合うような気がすると杉澤は思い浮かべ、すぐに我が妻のにらみ顔が浮かんだので慌てて取り消した。

「すごい、杉澤さんは教授でいらっしゃいましたのね。それはぜひとも、研究職という仕事についてお話しを色々伺いたいです」

「いえいえ、私のキャリアはそんなに誇れるものではないですよ。研究者としてはむしろ、だいぶ遠回りをしました。ミキさんは見るからに賢明なお方でしょうから、私のはむしろ反面教師になってしまうかもしれません」

「そんなにごケンソンなさらず。あ、私、フロントで3人分のコーヒー取ってきますね。杉澤さん、砂糖とミルクは必要でしたかしら?」

「これは恐れ入ります。それでは、僕はブラックでお願いできれば幸いです」

 コーヒーおかわり自由のサービスがあるのは、旅館としてポイントが高いと、杉澤は感心した。ミキが持ってきたコーヒーの香りを3人でしばらく楽しんだ後、本題であるメッセージの検討に入った。


 杉澤が切り出す。

「さて、我々は今日ここに何かを求めてやってきた訳ですが、その正体が分かりません。ある程度の仮説を立ててから捜し物をすべきと思っていますが、お二人はどのようにお考えですか?」

 シュウトが例のSNS投稿画面を開きながら、やはり、と口を開いた。

「王交の新作の原稿が隠されているのではないでしょうか。一時の幸福と苦痛、それに勝る価値とは、まさに小説を読んでいる体験そのものです」

 私も、とミキが同意した。

「私の願望によるところも大きいですが、新作原稿であって欲しいなと思っています。紙の束か、USBメモリーか、その辺りが隠されていそうな場所をまずは探すべきでしょうか」

 なるほど、と杉澤があいづちを打つ。

「それでは、まずはこの旅館の中を調査しましょうか」

 旅館の主人に了解を得て、3人は談話室の置物の裏や、引き出しの中、暖炉に仕掛けが無いかなど確認していった。まだチェックインしたばかりで外も明るかったため、旅館の庭に目印が無いかなども見て回った。また「三本の箒」は旅館の横でレストランも経営しているため、食堂内も特別に見せてもらったが、鍋の中から意味ありげな書類などは出てこなかった。

「うーん、それらしきものは見つからないなあ。宿泊する部屋も調べた方が良いでしょうか」

 シュウトが首をひねる。

「私達への挑戦状の形で送られているからには、関係者以外のプライベートに踏み込むような場所では無いと思います。あるとすればきっと、その気になれば誰でもアクセスできる方法なのではと予想します」

 ミキは念のため旅館の主人にも王交の名前を伝えてみたが、主人はその名前に、特に思い当たることは無いとのことだった。

 杉澤は、ふむ、と手であごを撫でる。

「王氏の贈り物を探すにあたり、我々は着眼点が足りていないのかもしれませんね。まだ太陽も出ていることですし、旅館の外も少し回ってみましょうか」



  ☆☆☆



 シュウトはもう少し旅館の中を探してみるというので、杉澤とミキで市街地に出てみることにした。

 この街はここ数年の間に遠のいてしまった、県外の旅行者、海外旅行者を再び呼び込むため、新しい観光地として整備された。駅周辺には綺麗に掃除の行き届いたカフェや、地元食材を使った一品が楽しめる屋台などが立ち並び、客足も悪くないという様子だ。

「この辺りの地域は、近年の温暖化で生育の条件が変わって、土地と相性の良い野菜の種類が変わったり、ワイン用のブドウが美味しく育つようになったそうですよ」

 杉澤が話しかけるミキの手には、地元果物を使用したクレープが握られていた。旅先でのスイーツチャンスは逃さないタイプのようである。

「そういえば「三本の箒」のレストランも、地元のものを惜しみなく使った料理とお酒が自慢だと、Webサイトで紹介されていました。夕食が楽しみですね」

「ええ、非常に。展望台からの美しい景色や、自然がつくった洞穴など、観光名所もいくつかあるようで、今後の発展が楽しみですね」

「もしかして、どこかの木の一本に目印が付いていて、その下を掘り返したら原稿が出てきたりするのかしら」

 試しに杉澤とミキは、駅から一番近くにある野外展望台まで足を伸ばしてみた。そこでは大変素晴らしい眺めにめぐり会うことができたが、この数千、数万という木が並ぶ大自然の中から一本を探すというのは、途方もないことに思えた。


「新しい薬をつくるのって、何万通りとある分子と分子の組み合わせのパターンから、効果のあるたった1通りを見つける作業なんです。いや、調べてみたら結局、その組み合わせでは1つも効果のある結果が得られないこともある」

 ミキは展望台のベンチに腰掛けると、目の前の果てしない景色を見たまま語り始めた。杉澤も隣に失礼し、話の続きに耳を傾けた。

「杉澤さんならご存じかと思いますが、大学の研究者になるためには、学部4年、大学院を少なくとも5年、その後にポスドクという研究者のタマゴのような期間を数年して、早い人でも30歳手前くらいでようやく助教さんになれるんです」

「いかにも、長い道のりです」

「私は20歳になって、家族や親戚から、「大人になったね」「大学を出たらどんな仕事に就くか考えてるの?」と言われます。でも私はまだこの先10年、半人前をしているかもしれません。人の役に立ちたくて、私は創薬の勉強をしようと思いました。でも当分は役立つどころか、家族に助けられっぱなしです。私は……皆が言う”大人”には、到底遠いところにいるような気がするんです」

 ゼミの指導教員でも、同期の友人でもない、程よい他人であるからこそ、ミキは心に抱えていた不安を口にすることができたのだろうか。杉澤はそんなことを思った。

 少し考えたのち、杉澤は自分の思うことを口にした。

「そう言われると僕も、大人になるタイミングを逃したまま今日に至ってしまったかもしれません」

 前を見つめていたミキが、杉澤の方を振り返った。

「第一印象は、とても深みのある大人の男性ですよ。私の両親よりよっぽど大人! って思います」

「僕が大学教員として職を得たのは、35歳のことです。お恥ずかしながら、僕はなんともパッとしない研究者です。妻とは学生結婚でしたが、私が伸び悩んでいる間も、ずっと支えてくれました。沢山苦労もかけました。僕は一刻も早く妻の役に立ちたくて、中途半端なプライドなんかは全て捨てて、死にものぐるいで論文を書き続けました。数年前に教授に昇任し、一番最初に妻とお祝いの乾杯をしました。これからも一生をかけて、妻を幸せにしたいと考えています。妻に比べたら、自分のことでバタバタし続けてきた僕などは、ほんの子どもです」

 杉澤の告白を聞いて、ミキは優しそうに目を細めた。

「私もそういう乾杯がいつか出来たら、素晴らしいと思いました」

「効果のある薬を発見するまでには、果てしない数の失敗があるのでしょう。しかし失敗の過程で考えた手法が、将来どこかで役に立つことがあるかもしれません。今は意味を持たなくとも、10年後、あるいは自分が死んだ後の社会を救うかもしれません。お金を貰って研究を行う者は、その時が訪れるのを出来るだけ早く、いま目の前で困っている人を助けるのだという気持ちで、ベストを尽くすことが責任だと思っています」

「責任、か……。その言葉を理解し、自分で口にできるのは、もしかすると大人になれたということなのかもしれませんね」

「あるいは」

 杉澤とミキはその後しばらく、展望台から見える大きな自然と大きな空を、自分の中に受け止めたのだった。



   ☆☆☆



「しかし申し訳ないのですが、贈り物がどこに隠されているのかという情報を得ることはできませんでした」

「それは残念ですね……あ、杉澤さん、背中お流ししましょうか?」

「いえいえ、おかまいなく」

 杉澤はシュウトと共に、旅館の大浴場に来ていた。一応ここも共用スペースなのでヒントが見つかる候補ではあるのだが、目立った進ちょくもないまま日も暮れてしまったため、3人は取りあえずひとっ風呂いただくことにしたのだ。

「水に濡れるような場所にはさすがに隠されてないとは思いつつ、いやだからこそ逆に……という発想もあるのかもしれませんが、パッと見る限りは無さそうですね」

 風呂場であちこちを探し回るのはさすがに不審であるため、シュウトは一連の流れの中でひととおりを確認してみたが、何かが入っている袋などは見つからなかった。

「本当に新作原稿はあるのでしょうか。少し不安になってきました」

 シュウトは自信の無さそうな声を出した。

「今のところはまだ、どちらの可能性もありますね。しかし何だか、こうして3人で、得体の知れない捜し物をしているこの時間自体が、小説のようにドラマチックで、価値あるものに思えてきましたよ」

「事実は小説よりも奇なり、ですか。そうすると本屋はもうからなくなっちゃうなあ」

「そういえばシュウトさんは、書店にお勤めとおっしゃってましたね」

「ええ、最初は大学に進学したんですけど、ちょっとその、体調を崩しまして……」


 シュウトは少し、遠くの方を見つめながら話し始めた。

「1年でアウトしたんです。なんとかやり直せる気持ちを取り戻してからは、今の職場に」

「そうでしたか。お元気になられて何よりです。執筆活動の方も応援しますよ」

「そう言ってもらえるなら嬉しいです。前からちょっと書いてはいたんですけど、この生活を続けていくからには、一発大きく当ててやろうというくらいの夢を持とうと思ったんです。もしかするとそれは……この土地の大自然のように広くけわしい社会で、自分の力で本当に生き切ることができるのかという、不安の裏返しなのかもしれません」

 湯船のへりに二人は腰掛け、湯気が視界をさえぎるがままに任せていた。

「生き切る、ですか。戦国武将の織田信長の有名な話で、「人間五十年、」という唄もありますが、今や人生100年時代などと呼ばれるようになりました。この道のりで何を成し遂げ、どう生き切れば良いのか、僕も信長にご教授いただきたいものです」

「中学生や高校生の頃は、毎日が変化の連続でした。目の前の変化についていくことに必死で、それしか考えていなかった。こうして社会に出てみると……世の中はこんなにも大きいはずなのに、この先数十年、自分は限られた世界の中にずっといるのではないかと、そんな気持ちになることもあるんです」

「僕のような年でも、その悩みは定期的におとずれますよ」

 杉澤は申し訳なさそうに頭をかいた。

「杉澤さんは大学の先生ですから、国内外をあちこち出張されているのでは?」

「大切なのは、そこで何を残せたかですよ。ある時点から、周りの環境の変化よりも、自分の考え方の変化、誰かのために発したことばの変化、大切な人に与えられる価値の変化に関心が向くようになりました。そこで満足のいく答えが得られた時、自分の世界が広がったような気がしています」

「同じ時間の中で、何を重要と思うか、ですか……」

 まあともあれ、と杉澤は湯船に身体をゆっくりと沈めた。

「身体がちぢこまっていては、見えるものも見えなくなります。今日みたいな特別な日には、温泉にゆっくり浸かって、風呂上がりには美味しいご飯を食べながら、しみわたる至福の……」

 杉澤は自分でそこまで口にした瞬間、ハッと目を見開いた。と思うと途端に、思い切り勢いよく立ち上がった。シュウトは突然の杉澤の行動に追いつけず、びっくりしてその場でかたまっていた。

「なるほど、そうでしたか」

 杉澤は、たった今自分が思いついた仮説に確信を持った。確信を持ちつつも、それは愛にあふれていて、そして胸に痛みの染みわたる仮説だった。



   ☆☆☆



「王交の謎が解けたって、本当ですか?」

 再び3人は談話室に集まっていた。シュウトとミキの顔が上気して赤くなっているのは、待ち望んだ展開に緊張しているのか、あるいは風呂上がりであるからかもしれない。

「ええ、今確認をしているところですので、もう少々お待ちください」

 杉澤も温泉に浸かって肌が若返ったような気がしなくもなかったが、しかしつとめて冷静だった。3人の間にしばしの静けさが訪れる。

「杉澤さーん! おっしゃっていたもの、確かにありましたよ!」

 談話室に杉澤の姿を見つけると、旅館の主人は興奮して声が大きくなったようだった。

 その手には、縦長の木箱が抱えられていた。


「え……、「三本の箒」の主人が協力者だったということですか? 自分は知らないと言っていたのに」

 シュウトが目を見開く。

「いえ、シュウトさん。ご主人は本当に、コレの存在を知らなかったのですよ。私がある場所を調査して欲しいと依頼して、お手伝いしてくださったのです」

 主人は自分が持ってきた木箱を、談話室の中央にある、焦げ茶色の机の真ん中に置いた。3人で机を囲む。

「開けて、良いですか?」

 ミキがおそるおそる、杉澤に許可を求めた。

「ええミキさん、どうぞ」

 ミキは木箱を横長の向きにし、両端にそっと手をかけた。

 箱に鍵などはかかっておらず、ふたは静かに開いた。


「これは……ワイン?」

 ミキは思わず、美しい顔に構うことなく眉をひそめた。


 箱の中から姿を見せたのは、750ミリリットルサイズ、一般的なワインボトルだった。中身の色から察するに、赤ワインのようである。ラベルにはこの地方に由来する名前が日本語で書かれており、おそらく地元産ワインのようだ。

 そして何度も確認したが、このワインのほかは、箱の中には何も入っていないのだった。


「温泉に浸かっていた時、僕はのんきなものですから、風呂上がりに一杯飲みたいなどと思いましてね。それでふと思ったのですよ。一時の幸福と苦痛、そしてそれに勝る価値とは、もしかしてお酒、飲み会のことではないかと。飲んでいる時は大変楽しく、しかし飲みすぎれば翌日の二日酔いが苦痛です。しかし苦痛が収まってみると、あの時間を仲間と過ごすことが出来たことに価値を感じるものです」

 杉澤はミキから秘蔵のワインを受け取ると、ラベルを指でなぞり、ゆっくりと眺めながら続けた。

「タイムカプセルワイン、というイベントがあります。結婚式などでも時々採用しているカップルがいるのですが、何かの記念に購入したワインを一定期間、ワイン蔵に保管しておいてもらい、決めていた時期が来たらオープンするんです。街を見て回っていた時に、地元ワインにも力を入れ始めたと目にしましてね、時限式の仕掛けをつくるのに丁度良いと思ったんです。旅館のご主人にお願いして確認してもらったところ、ご主人のレストランでいつも取り寄せている地元のワインセラーが、タイムカプセルワインのサービスもやっていたのです。王交の名前を探してもらったところ、この箱で登録されているのが見つかりました」

 原稿が見つかると思っていたのだろう、シュウトは杉澤の手元にあるワインを見つめながら、困ったような顔を浮かべていた。

「でも、なんでワインなんか……」

「おや、シュウトさんもミキさんも、納得いきませんか。このように素敵な形でプレゼントして頂いたからには、これを皆で有り難く飲むことが、贈り主の意志に沿うのだと思いますよ。でも、その前にお話ししたいことがあるんです」

 杉澤は、コトリ、とワインを机の中央に置いた。


……僕に秘密にしていることがあるのではないでしょうか」

 シュウトとミキは、ハッと顔を上げて杉澤を見た。



 杉澤は続ける。

「最初に違和感をおぼえたのは、昼過ぎに僕がお二方と出会い、今後の捜索の方向性を話し合っていた時です。その節はミキさん、コーヒーありがとうございました。しかし、どうして私には砂糖とミルクが必要か確認してくださったのに、シュウトさんには何も聞かず、ブラックを出されたのでしょう」

「……たまたま質問するのを忘れて、シュウトさんも差し支えなかったという可能性も、あるかもしれません」

 少し考えて、ミキは答えた。

「なるほど、そういうこともあるかもしれませんね」

 杉澤はにこやかに、この会話を楽しんでいるようだった。

「次に不思議だなあと思ったのは、王氏のメッセージの先に何があるだろうという質問に、シュウトさんもミキさんも、「原稿」という言葉をお使いになっていたことです。僕は、作家が読者に提供するものならば、完成された印刷本である可能性も考えていました。同人作家なら、自分で本をつくる、自費出版もきっと経験があるでしょう。仮に王氏の新作だったとして、お二人は、それが未完成の状態であることを知っているようだった」

「……推理小説の世界だと、秘密の書類が隠されているのがけっこうベタな展開じゃないですか。その印象に引っ張られていたのかも」

 今後はシュウトが、少し目線をそらして杉澤に答えた。

「ふむふむ。そうかもしれませんね。……では、どなたも、「王氏は一体どこから、挑戦者の様子を観察しているのか。王氏は今、どこにいるのか?」について一度も話題に出さなかったことは、ご説明できますか? 彼または彼女の目的を突き止めようとすると、気にならないはずは無いのですが」

「それは……」

「えっと……」

 ミキとシュウトは、お互いを見やって黙ってしまった。

 杉澤はずっと穏やかな口調で、優しい微笑みを絶やさないままに、二人を愛おしむような目で、代わりに口を開いた。

「僕が推測するに、お二人は元々、お互いを知っている。シュウトさんはサラリーマンですが、中学や高校を卒業して就職していてもいわゆる社会人な訳で、年齢はミキさんと同じくらいだって問題はないはずです。そして王氏の新作は未完成であると、つまり、王氏とは何かを知っている。しかし、贈り物の正体は本当に知らないようだった」

 杉澤はふと、窓の外に目をやった。夜の街に、雪が降ってきたのだ。

「王は英語にするとキング、交はクロスです。キングス・クロス駅と言えば、『ハリーポッター』シリーズで、ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人が出会い、未知の世界へ旅立つ出発地ですね。もし本当にそういう名前の意味ならば」

 杉澤は、自分と窓の間に座る、シュウトとミキをそっと見た。

「王交とは、あなたがた二人と、もう一人。3人の力で生まれた作家なのではないでしょうか」

 ヒュッと風が鋭く吹き、降りしきる雪が窓を鳴らした。



   ☆☆☆



「ハルとは、高校1年生の時に同じクラスだったんです。ミキは自分たちとは別のクラスでした」

 親切な旅館の主人が用意してくれたワイングラス、そこに注がれた赤い液体を一口なめると、シュウトはぽつぽつと語り始めた。ミキ、杉澤もそれぞれ自分のグラスを、思い思いのペースで口に運びながら。

「自分が文芸部に入りたいと言うとハルは、自分も文芸部くらい気楽にできる部活動が丁度良いと言ってくれました。ミキも同じ、文芸部の新入部員した」

「私も塾で忙しかったから、文芸部くらいゆるい部活に入りたかったんです。シュウト以外はあまり真面目な部員では無かったですね」

 そういってミキはくすりと笑った。

「ハルは健康上の理由で、学校に来れない日も多かった。中学生の時に胃がんが見つかって、その時の手術は成功したらしいんですけど、通院と一緒の生活でした」

 ミキも飲み込むようにうなずく。

「それでも3人とも部室に集まれる時は、下校時間まで最近読んだ本について話したり、自作の短編小説を書いてお互いにコメントしたりしていました。その後はハンバーガー屋さんでうだうだしたり。シュウトは目に見えるものを描写する力、ハルは独創的なストーリーをつくる力に長けていた」

「ミキは、伏線やトリックなど、理論を組みあげる力が当時からずば抜けていたよな」

「それである日思いついたんです。個々の能力ではまだ大人の作家には勝てないけど、3人の得意分野を持ち寄って1つの作品にすれば、コンクールでも戦えるんじゃないかって」

 ふむふむ、と杉澤は大変興味深そうにうなずきつつ、自分のグラスを空にした。シュウトとミキから、自分達はまだ20歳、赤ワイン一瓶を二人では到底飲み切らないので、積極的に手伝って欲しいと依頼され、こころよく引き受けたのだった。

 杉澤が二人に応じた。

「江戸時代の人形劇である浄瑠璃(じょうるり)作品では、複数の人気作家による合作が行われることも、よくあったそうです。そういう選択も、より良い作品を世に届けるのだという情熱を感じて素敵だと思いますよ」

 シュウトとミキは、素直に嬉しそうな顔を見せた。

「そうおっしゃって頂けたのは初めてなので、とても感謝です。ハルがストーリーをつくり、ミキが理論をつめて、自分が描写を頑張る。それぞれの強みが異なっていたのが良かったのか、とても熱中して取り組むことができました。そうして王交として、賞に初めて出してみようと思える作品に仕上がったのが、『夢見る季節』だったのです」

「結果は惜しくも佳作でしたが、最終選考まで残り、審査員の先生からも雑誌上で励ましの評価をいただくことができて、嬉しかった。王交として次こそは大賞を取ろうと、3人で約束しました。でも……」

 ふっと、ミキはうつむいて言葉を失った。その様子を見たシュウトが、続きの話を引き取った。

「定期検査で、ハルの身体に転移が見つかったんです。ハルはまた入院生活が始まり、3人で新作の相談ができないまま、高校の卒業式を迎えました。ミキは難関の国立大学に進学し、僕は私立に進んで……そして1年後、ハルは旅立ちました」

 杉澤は静かに目を閉じた。赤ワインのタンニンの苦味が、口の中に染みわたるのを嫌と言うほど感じた。

 わざとらしく気を取り直したように、でも、とシュウトは続ける。

「自分の方はちょっとその影響で落ち込んじゃって、大学から出ていったりしてしまいましたけど、ミキにも励ましてもらって、ちゃんと前を向こうって話し合ったんです。そうしてさらに1年が経ち、20歳を迎えたこの年……王交の名前で、3人で作成したSNSアカウントに、あの投稿があったんです」

 ミキが、そうなの! と当時の驚きを再現したような大きな声で応じると、手元のグラスをぐいっと空にした。

「最初はシュウトが投稿したと思って、一体どういうつもりだ、とつめ寄ったんですけど、シュウトも自分ではないって。調べてみると、ハルが生前、その日に向けて予約投稿を行っていたんです。私達はメッセージが今日この場所に呼んでいることを理解して、「三本の箒」を目指しました」

 杉澤が応じる。

「そして道中、もしも自分達以外にあのメッセージの意味に気づいてやった来た物好きがいれば、正体を伏せて宝探しをしよう、と?」

 ミキが恥ずかしそうに頭をかく。

「作家が読者に正体をばらしちゃうのは、ヤボってものじゃないですか」

「自分、ハルがなぜワインを贈り物に選んだのか、ちょっと分かって来た気がします」

 シュウトの顔はだいぶ赤くなっていた。緊張がとけて、安心していることもあるのかもしれない。

「アイツなりに、自分自身の身体と賭けをしてみたんですね。きっと20歳になって、もう一度3人で集まり、旅行でもしようと。お酒を飲めるような身体ではなかったろうに。でももし今日、ハルもここに居ることができたなら、そんなの構わず飲むつもりだったんだろうなあ」


 その後も3人は、自分が最近気に入った作品の話や、杉澤と妻とのなれそめなど、自由におしゃべりを楽しんだ。

 気が付けばワインボトルも、しっかりと飲み切っていた。

「おや、主人に地酒のお代わりでも頼みましょうか……おや?」

ボトルに中身が残っていないことを念のため確認しようとした、杉澤の動きが止まる。


 空になって中身が見えるようになったワインボトル。

 ラベルの裏側を見ると、

 英数字の文字列が書かれていたのだ。


「これって……パスワード!!!」

 ミキの顔もだいぶ赤くなっていたが、途端に真剣な顔つきになる。

「絶対に、どこかに入れろってことよね。どれだどれだ……あ!」

「小説投稿サイトの、ハルが下書き用に使っていたアカウント!」

 シュウトもほぼ同時に思いついたようで、スマホから投稿サイトを検索し呼び出す。ラベルの裏に見える文字を、目をこらしながら一文字ずつ打っていくと、ハルの個人アカウントのログインに成功した。3人は食い入るように画面をのぞきこんだ。


 そこには、2つの下書きファイルが格納されていた。1つは「王交_2」、もう1つは「二人への手紙」と書かれていた。

 ミキは、手紙をタップして開いた。


-----

今日この日、俺は20歳になった秀人と美紀と、3人でタイムカプセルワインを美味しく頂いている予定なんだけど、念のため、そうでなかった時のために、二人に手紙を書きます。


(未成年につき、親に頼んで買ってもらいました。ワインってどんな味なのかまだ分からないけど、もし飲み切るのが難しければ、赤ワインが似合う、人生の味わい深さを心得ていそうな大人に助けてもらおうか。)


秀人、美紀、20歳おめでとう。俺達、高校生としてはあまり真面目に部活を頑張っていた方ではなかったけど、3人で力を合わせて小説を書くと、自分達でもびっくりするほど遠くに行けそうなあの時間、最高だったよな。


秀人、自分は高校を卒業してからも執筆活動を続けて、たくさんの人に、大切なものを残していきたいって教えてくれたな。秀人の、人を愛する力、それを言葉にする力があれば、必ず、皆に愛され、生きることの素晴らしさを伝えていける存在になれるよ。


美紀、大学に進学したらたくさん勉強して成長して、人の役に立ちたいって宣言したその志、素晴らしいよ。美紀なら絶対に人の役に立てる、沢山の人を救えるよ。一人前の研究者になるための道のりも、心の奥からわき起こる情熱を愛してあげながら、前進して行こう。


二人とも身体にはくれぐれも気をつけて、一度きりの人生、大満足のストーリーを執筆してほしい。俺はそんな二人の、一番の読者として、時にハラハラしながら、沢山喜びを分かち合いながら、楽しませてもらうよ。


20歳の記念に。


晴より


P.S. こないだ新作のアイデアを思いついて、ストーリー案をもう一つのファイルに書きました。後はいつもの通り、頼んだよ。

-----



 シュウトとミキは目を真っ赤にはらして、何度も繰り返し、ハルからの手紙を読んでいるようだった。杉澤は、自分の存在までお見通しとは恐れ入りました、と窓の外を見やった。

 充分な時間が経った頃、「よし!」とミキが勢いの良い声を出した。「おう!」とシュウトも応じた。

「前回よりも、何倍も良い作品に仕上げてやるんだからね」

「そうだな、早速取りかかろう」

 シュウトとミキが原稿の読み込みを始めたのを、杉澤は嬉しそうに微笑みながら見ていた。

 そして杉澤は、ゆっくりと席を立つ。

「あれ、杉澤さん。どちらへ?」


 二、三歩すでに歩き出していた杉澤は、二人に振り返った。

「僕は王交のいち読者ファンです。2年前の最終選考会でも、僕は『夢見る季節』を推薦したのですが、他の先生方の意見もあって、次は必ず、もっと素晴らしい作品が出てくるだろうと、期待の気持ちで佳作に選ぶことになりました。王交の待ち望んだ新作は、完成作品を、晴れて大賞として掲載された雑誌上で読ませていただきますよ」


 窓の外、深々と雪の降り続く空の向こうで、杉澤は汽笛の音がポォっと聞こえた気がしたのだった。


(完)

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