二節 破界のクエイス

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 盛大に船を漕いだ拍子に、事務机に顔を打ちつけそうになる。クエイスはなんとか、ギリギリで衝突を免れた。鼻先がつくかつかないか、といった位置で、灰色をした平たい面を見つめている。うっかり眼鏡を歪ませるところだった。代わりに腕がぶつかり、酷い音を立ててしまった。静寂の中では、衝撃音がよく響く。クラス名簿の紙が、腕の下で少しひしゃげている。


 ここは聖海高校一年三組の教室だ。皺の寄った紙に書いてあるので、すぐに分かった。制御輪の記録によれば、数年前転勤があり、母校に戻ってきていたようだ。ちょうど歴史のテスト中だったものだから、クエイスはいたたまれなくなる。何歳になっても昼過ぎは眠気に襲われるものだが、テスト監督中の居眠りはまずい。たとえ数秒間であっても。一拍置いて、生徒達が小声でざわつき始めた。

「うわ、びっくりした……」

「せんせーどうした」

「寝てた?」

「マジか」

 クエイスはのろのろと状態を起こして、眼鏡の位置を微調整した。見知らぬ腕時計と、小皺の増えた手の甲が視界に入る。左薬指の結婚指輪は、なくなっていた。一体今は何年だろうか。いや、それよりも時間だ。腕時計を確認する。テストはまだ始まったばかりだ。


 顔を上げると、二十人ほどの様々な視線が集まっている。きょとんとした瞳、迷惑そうな瞳、不安げな瞳、苛ついた瞳、どうでもよさそうな瞳、眠そうな瞳。魂のある生徒は頭上に輝く小さな星が、データでできた生徒は No Soul の文字が。 No Soul の構造体は、端的に言うと世界の調整データだ。魂に比べると、はるかに容量の少ない構造体。ゲームで言うところのNPCだ。頭の文字を隠蔽して生者に見せかける余裕すら、今の巨大崩壊体にはないらしい。魂のない構造体の数が多い。

「すみません、続けて」

 クエイスは簡潔に、一言だけを伝える。鐘霧 玲仁のふりを続ける。無駄話をしては、彼らの時間がもったいない。ここは巨大崩壊体の体内だが、誰もが本物の人生を生きていると信じているのだ。世界がこの街だけしか存在しないとか、自分達が閉じ込められているとか、ほとんどの記憶が植えつけられているだけとか、周囲の人間は皆すでに死んでいるとか、中身のない構造体が大半だとか、そんな事は微塵も思っていないはずだ。生徒達は何も言わず、各々テストに戻って行った。



 書き物をする無数の音だけが、静かに響く空間が戻ってくる。テストの邪魔にならないよう、クエイスは慎重に椅子を回転させる。そして恐る恐る、黒板の日付を見た。


 二千四十八年 十二月十六日 (金)。


 六年も経ってしまっていた。旅行の夜から、一瞬で。鐘霧 玲仁としての年齢は、現在四十四歳。

 顎に触れると少しがさついていた。迷彩をかけっぱなしの制御輪を検索する。玲仁の情報も記録も、若い頃と比べるとかなり薄い。レイジはこのくらいまで生きていたが、若くして死んだ玲仁にとっては未知の領域だ。玲仁の設定に引きずられないのは結構だが、現状を把握できないのは痛手だ。しかもクエイスは、当たり前だが教師経験など全くない。記録を参照してそれっぽく振る舞う事はできなくもないが、大きなミスをすれば不審に思われるに違いない。憂鬱だ。つい飛び出しかけた溜め息を、何とか飲み込む。眠気でぼんやりとした頭で思う。こんな仕打ちを何度もされては、こちらの精神が持たない。


 耳にはまだ、湊の声が残っている。落ちながら聞いた、圧し殺すような囁き声。助けてという言葉を思い返す。何が目的なのか分からなくなる。クエイス達の抹殺ではと考えていたが、遊園地の朝に始末しないのはおかしい。車で事故を起こすとか、災害に巻き込むとか、どうとでもなるはずだ。今思えば、なんとなく妙だ。授業が終わったらとりあえず、スマホの電話帳を確認してみようと考える。家族なら、今も家族のグループに入れてあるだろう。エテル達の安否が心配だし、情報収集もしなければならない。

 情報収集か。仕事をしながらでもできる事がある。クエイスは立ち上がり、教室の巡回を始めた。静かに歩きながら、さりげなく窓の外に視線を向ける。どこにでもある平和な街の風景。象徴的な電波塔、アークライトタワー。の側の空間が、ぼんやりと歪んでいる。


 要請:意識領域拡張

 《承認。知覚可能次元を一段階解放》


 すんなり行えたのを知り、クエイスは安堵する。暈人かさねびととしての自分を忘れていなかった。制御輪も、要請に対して正確に動く。動作チェック完了。もう一度、例の場所へと視線を向ける。ぼんやりとしたものが、明確になっていく。

 果たしてそこには、人型の黒いもやが佇んでいた。すぐに人型と気づいたのは、真上に制御輪が浮いているからだ。輪にしては歪みの強い闇が、輝きながらゆっくりと、独特のリズムで胎動している。クエイスは己の目を疑ったし、少し足が浮いてしまった。眼鏡を取る。視界は全くぼやけなかった。そもそも暈人は肉体的老化や機能損傷とは無縁だ。クエイスには必要ない。しかし、眼鏡をかけ直す。


 アークライトタワーは、何となく塔京タワーに似ている気がする。しかし、もっと近づいてみないと分からない。外ばかりを凝視する訳にいかないので、それなりに巡回は続けた。窓際では不自然に時間をかけず、可及的速やかに。異常なし。


 クエイスは元の席に腰を下ろして、ついでに心を落ち着けようと努めながら観察を再開する。タワーから予測するに、崩壊体の大きさは十数メートルはありそうだ。制御輪からも、ほぼ同じ予測数値が返って来る。初めて見た時からほぼ変わっていないと。体内から姿が確認できたのは、クエイスにとって大きな収穫と言える。解析によると、巨大崩壊体は衰弱により動きが止まっている可能性が高い。これから目指すべき場所が確定した。問題は力押しするには相手が強すぎる事、説得できる精神状態かは接触してみないと分からない事、少なくともこの二点。


 ところで。クエイスは思考の対象を移す。目の前の子ども達は、あれが見えているのだろうか。彼らに色々と聞いて回りたい衝動を堪える。突然立ち上がって、指を指して叫びたい衝動に耐える。本当の事など言えない。藪から棒にそんな言動をしては、奇行と判断されて最悪警察を呼ばれてしまう。

 場所が悪すぎた。どうせ飛ばされるなら山奥とか、自室とかがよかったと、クエイスは不運を呪った。そこなら多少の挙動不審や奇声は許されるし、すぐに自由な行動に移れる。念のため、慎重に行動すべきだ。クエイスはそう判断した。早く仕事を片づけて、本来の任務に戻らなければ。





 ようやく仕事が終わったと思えば、すっかり日は暮れていた。テスト期間でも教師は忙しいのだな、と今さらながらクエイスは思う。人間のふりも大変だ。慣れない業務で手間取ってしまったのも影響している。こればかりは専門業務なので、玲仁の記録を参照してもサクサクとは行かない。だが、いつも帰る家は、玲仁の記録を検索すれば分かる。分かるのだが。

 クエイスは帰り支度をするのが億劫で、しばらく項垂れていた。その原因を説明するには、十分ほど前に遡る必要がある。


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