二節 真白の海
1-1
波の音が聞こえる。
見渡す限りの白い砂浜に、霧が立ち込めている。細かい砂の集合体に、寄せては返す透明な水。磯の匂いは全くなく、海鳥達の声もない。実際のところ、この場所には微生物すらも存在しない。無機質な海辺だ。一般的な生命体が見れば、気味が悪いとさえ感じるかもしれない。だが、ここはそういう場所だった。静かなサイクルは、永遠とも思える間、続いてきた。そして、これからも。
レイジは、不思議な海辺で目を覚ました。目の前に空が広がっていたので、仰向けになっていると分かる。淡い灰色をした空には、太陽も月も見えない。全体的に明るいのに、どこに光源があるか不明だ。レイジは最初、自分の視界がぼやけているせいかと考えたが、眼鏡はしっかり顔にかかっている。眼鏡を触っていると、なくても視力に問題はなかったのを思い出す。眼鏡とは幼少期からの付き合いなので、もはや顔の一部と言っても過言ではない。俗に言う『普通の人間』ではなくなった後も、なんとなく消去できないでいる。
太もも辺りまで迫った水が、ゆっくりと足元まで引いて行く。それが何度か繰り返された頃、足だけではなく全身が濡れていると知る。濡れそぼったスーツを着ているのは、何となく気分が悪い。冷たい水は嫌いだ。そういえば、コートもなくしている。海の中へ落としたのだろうか。寒い。体を起こす体力が残っていない。
ゆっくりだが首を動かすくらいはできたので、左右を見てみる。右。白い浜辺。左も白い浜辺。これ以上の情報は得られない。ともかく、体が動くようになるまで休む必要がある。レイジはそう判断して、また目を閉じた。直後に気を失う。
思考が途切れてから、何時間経過したか分からない。意識は覚醒したものの、すぐに瞼を開ける気が起きなかった。だが、よかった事もある。しばらく横になっていたおかげで、少しは体力が回復したようだ。ここに寝ていても寒いだけだし、もっとマシな場所へ移動するべきだ。少なくとも、両足が濡れなくて済むようにしなければならない。
そんな事を考えている最中だった。柔らかいものが上から落ちてきて、さらさらと顔を撫でたのは。レイジは重い瞼を持ち上げる。白い長髪の女が一人、こちらを覗き込んでいた。
「よかった。長い間、本当に長い間、探したんだよ。クエイス」
さざ波のような声だ。何とはなしに、レイジは思った。赤い瞳、人形のような顔立ち。左目に黒い眼帯。二十代中盤と思われる外見をしている。肌も睫毛も白く、ただ穏やかな表情を浮かべていた。
服は上下が繋がっていて、全身が白い。なんとなく体の線が見て取れた。要所を守るための固そうな素材や、見た事のない小さな装置がついていたりする。それはレイジに、未来の宇宙服を連想させた。SFアニメの戦闘服にも見える。女は同じ調子で、言葉を紡いでいく。
「制御輪もこんなに破損して、かわいそうに。ボロボロじゃないか」
制御輪とは、光る輪を指しているのだろうか。彼女は今、明らかにレイジの頭上を見ている。どんな状態なのか気になるが、己の真上にあるものは今の自分では確認できない。
そういえば。レイジは目だけを動かす。彼女の頭の上にも、桃色に輝く輪が浮いていた。ただし、輪は二重だ。レイジの輪と同じく、謎の文字が刻んであり、ゆっくりと横回転している。文字はもちろん読めない。
「私は思ったんだ。毎日ここを散歩していれば、きっといつか、クエイスが流れ着くってね……」
誰の名前だろうか。レイジはぼんやりとした頭で思った。誰かと勘違いしているようだ、と判断するのに数秒かかった。彼女の視線が、顔から下へ移る。
「クエイス、マフラーはどうした?」
マフラーとは、首に巻く防寒具の事だ。毛糸製の、細長い。レイジは思い出した。ギンガムチェックのマフラーを、大切に身につけていた事を。いつか、ここではないどこかで。
右腕を持ち上げるのは怠かったが、言われた通り、首の辺りを確認してみる。指先に当たるのは、濡れたシャツの襟とネクタイだけだ。どちらも酷くボロボロだった。
「いや、いい。マフラーなんて、君に比べたら遥かに単純な構造物だ。また後で、作ったらいい」
起きられるか。そう質問された。レイジは力の入らない首を、最低限の動きで横に振った。誰かの手を借りなければ無理そうだ。彼女はひとつ頷いて、レイジの肩に触れる。抱き起こしてくれるらしい。
「あ り、」
自分の声とは思えない、酷くひび割れた音がした。続いて、果物ナイフで喉を破かれるような激痛が走る。レイジは反射的に咳き込んだ。口を押さえて、体を丸める。
「ああ、駄目だ。いくら咳をしても、痛みは取れない。君の喉には、深い魂の傷があるから。一部の情報を海に落としてしまったのかい?」
そんな事を言われても。呼吸をするのもままならなくなりながら、レイジは思った。
「ああ、そうか。君はレイジなんだね」
肯定したくても、返事ができなかった。腹の筋肉が引きつりそうだ。風邪よりも辛い。風邪を引いた状態を、もう思い出せないが。掌にじっとりとした水分を感じて、レイジは手を広げる。少し血がついていた。喉に傷があるのを忘れて、無意識に擦ってしまったせいだ。
「咳を我慢して、呼吸だけに意識を向けるんだ。落ち着いて、落ち着いて」
レイジの前には、やたらと近い砂粒しか見えない。自力で問題が解決しないなら、彼女の言う通りにしようと努めるしかない。背中を撫でてくれる感触があるので、なんとなく勇気づけられる。しばらく格闘した後、咳は収まった。レイジは安堵した。疲労が増してしまったが、仕方ない。ふらつきながらも、なんとか上体を起こす。
「とりあえず、船に戻ろう」
眼帯女は軽く砂浜を蹴ると、そのまま上昇して行く。いまだに状況が飲み込めないレイジは、両膝をついたまま動けなかった。なす術もなく見ているしかなかったのだ。ろくに声も出せないし、このままでは置いて行かれてしまう。桃色の光が豆粒のようになった頃、旋回して戻って来る。よかった。
「しまった。上手く飛べないんだったね。一緒に歩こうか」
白い眼帯女に支えられながら、亀のようにひたすら歩く。自分を抱えて飛んでもらえないかと一瞬考えたが、さすがにそれは彼女に悪い。レイジは背が高い分、体も重たいに違いなかった。だから、肩を貸してもらうだけでも十分だ。
「すぐ近くだからね。頑張って」
傍らの眼帯女は、時々レイジを励ましてくれる。なぜここまで親切にしてくれるのかは不明だが、ありがたい事には変わりない。正直な話、一人だったら心が折れていた。彼女がいなければ、行くべき方向も分からない。
すぐに建物が見えて来たので、レイジは胸を撫で下ろした。あれが目的地であって欲しい。表面は凹凸だらけで、縦にも横にも広い。地球上に存在する建造物ではない。ここにも薄い霧がかかっているため、天辺は見えない。窓の明かりだろうか、ところどころ小さな光がある。レイジの気持ちを察してか、彼女が指を差す。
「あそこだよ」
レイジの口から、小さな吐息が漏れた。ようやく休める事への安堵だった。心も体も限界だ。気力で押して近づいてみる。見えてきたのは、気合いの入った神社もかくやというほどの長い階段だった。
レイジは昏倒した。
制御輪の修復が終わり、レイジは病室で目を覚ます。知らない内に、病衣を着ていた。喉に手を触れる。包帯が巻かれているようだ。顔に手を触れる。眼鏡をかけたままだ。無機質な白い天井を眺めている間に、ゆっくりと思い出す。
自分がすでに、死んでいる事を。
肉体の死後、上位存在として生きている事を。
そして今、レイジの所属する霊魂回収課が。三十六番目の地球人類の魂を、救出している最中
という事を。
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