第25話 刹那より永遠に
驚いて飛び退いたが、再び捕まってしまい、また塞がれる。まるで開いた溝を強引に埋められるように。
あたしから顔を話した切奈は、頬を染めながら恥ずかしそうに笑った。
「ドキドキしてくれましたか?」
「い、いやっ、したけど。な、なに!?」
さっぱり状況についていけないあたしだった。何度頭から振り払おうとしても、切奈の唇の感触がこびりついて離れない。
「小枝さんには内緒ですよ。きっと嫉妬させちゃいますから」
「なんで、こんなこと」
「人間の感情って、とても繊細なように見えて実は結構適当なんです。さっきまで死に恐怖していたのに、次の瞬間には恋をしたみたいに心をドキドキさせる。そして嬉しくなって、また不安になっての繰り返しです」
唇が重なっている間、あたしは死への恐怖を忘れていた。いや、埋もれていたと言った方がいいのかもしれない。
「そんな刹那的なものに支配されないでください。兎羽さん、あなたはあなたの意思で、生きてください」
「あたしの、意思?」
「兎羽さん、あなたは、何になりたかったんですか」
「あたしは・・・・・・」
小学一年生のときに初めて決意表明した将来の夢は、お花屋さんだった。キレイな花に囲まれて過ごす一生というものに憧れていたが、そのあとバスケにハマったこともあって一年後にはバスケット選手になっていた。その次の歳はお笑い芸人だったが、徐々に将来の夢を語ることに気恥ずかしさを覚えて心の内にとどめておくだけになった。
けれど、なりたかったものに共通点はあって、それは誰かを笑わせることだった。自分がバカなことをして笑ってもらうでもよかったし、サプライズで驚かせて泣き笑いさせるのも好きだった。作り笑いというものに昔から敏感で、だからこそ心の底から笑って欲しいと願っていた。
それが自分の死への恐怖をかき消すことだと言い訳をしていたけど、あたしはそういえば、死への恐怖の発端となった祖母の死より前に、なりたかったものがあった。
あたしは・・・・・・。
「魔法使いに、なりたかった」
そうだ、ずっと忘れていた。あたしはどんな奇跡も起こせる魔法というものに憧れていた。
落ち込んでいる人も笑顔にできる、そんな魔法が描いてある絵本を見ながら、あたしは目を輝かせながら、そんな魔法使いになりたいと思っていた。
それで、隣のクラスでよくイジめられている子がいて。その子はいつも泣きそうな顔をして、でも、大人数に囲まれて「やめて」と言うことすら言わせてもらえない状態だった。
そんな理不尽なイジメが許せなくって、あたしはすぐに隣の教室に殴り込んだ。
「そうですよね、兎羽さん。あなたはたしかに、誰かを笑顔にする、魔法使いだった」
頬に触れると、切奈が優しく笑っていた。
あたしのこの傷跡は、そのとき出来たものだ。思っていたよりも同学年の男子の力は強くて、三、四人を相手している間に、男子の一人に引っかかれて血を流した。その血を見て男子たちは怯んであたしから離れていった。
結局騒ぎを聞きつけた先生に男子たちは連れて行かれた。
あたしは倒れた机をかきわけながら、教室の隅で膝を抱えて泣いているその子に手を差し伸べて「大丈夫?」と聞いた。
そうしたらその子は、顔をあげて、
『うんっ』
と、跳ねたような口調でそう言ったのだ。
「でも、現実世界には魔法なんて存在しないって気付いたから、だから、やめたんだ」
切奈が死んでから、あたしは魔法使いになりたかった自分を心の中に沈めて大人になった。大人になるのは簡単だった。現実にあることだけを直視するだけでいい。そうすれば自然と背筋は伸び、目は死んでいく。
「なら、なればいいじゃないですか。魔法使い」
「子供の夢だよ。現実には魔法なんてない」
「そんなことないです、魔法はきっとあります。現に、兎羽さんはわたしに見せてくれたじゃないですか。生きる意味を与えてくれる、そんな魔法を。それはきっとわたしだけじゃありません。兎羽さんに救われた方はたくさんいるはずです。そんな方々は今も、兎羽さんのことを必要としています」
消え行く世界の中で、小鳥がさえずるような、小さな声が聞こえた気がした。
「心臓というものはわたしたち機械と同じで、とても悲しい存在です。生まれた時には存在して、なんのために動いているのかもわからないまま鼓動を続ける。もう止まりたいのに、意味も見つけられないのに、そういう存在だからという理由だけで動き続ける。そんな悲しき存在に意味を与えられるのは兎羽さん、あなただけです。今も必死に死へと走り続けている心臓に、意味を与えてあげてください」
「心臓の、意味・・・・・・」
「そんな風に絶え間なく頑張っている心臓の前で、永遠になりたいだなんて言っちゃだめです」
「なら、教えてよ切奈。あたし、どうやって生きていけばいいの? 死ぬのは怖いよ」
「いいえ、違います兎羽さん、あなたは死ぬのが怖いんじゃない」
切奈の身体が、光に包まれていく。
自転車で空を飛んだあの日に見た、太陽を思い出した。どれだけ瞼をキツく閉じても眩しくて眠れなかった、あの輝き。雪の上に着地したあたしたちは輪になって笑い合い、冬の寒さも、指の冷たさも、死への恐怖も、日々の悩みも忘れた。
あたしは・・・・・・。
「兎羽さんはきっと、生きるのが楽しくて仕方がないんです」
答えが出るのは、ほぼ同時だった。
「生きててつまらない人が死にたくないなんて思うはずがないんです。兎羽さんは生きるのが楽しいからこそ、その日々を失うことに恐怖を覚えた。それってとても素敵なことだと思います。兎羽さん、死への恐怖を克服する必要なんてないんです。日々を失う恐怖を大事にしてください。そうすればきっと、兎羽さんは人生を楽しく生きられるはずです」
「でも、楽しい中で恐怖を感じていたら、結局恐怖に塗れた人生になっちゃうよ。やっぱり恐怖は克服しないとだめなんじゃないの」
「兎羽さんは幸せになることを恐れすぎです」
切奈があたしの胸を叩いた、ように思えた。すでに感触はなかった。
「兎羽さんはもっと幸せになっていいんです。もし遊んでいる最中に、こんな楽しい思い出もいつか消えてしまう。そんな風に思ってしまったときはわたしの言葉を思い出してください! 惜しむことができる思い出こそ、大切なのだと!」
「切奈・・・・・・」
「どうかわたしの死を、足枷にしないでください。そうでないとわたし、悲しくて泣いちゃいますよ」
あたしは、全部切奈のせいにしてたのだろうか。魔法なんてないじゃないか、奇跡なんてないじゃないか! そうやって棺の中で眠る切奈に何度も心の中で怒鳴りつけていた。
切奈にもらった大切な日々と大切な思い出も忘れて。
「命は繋がって出来ています。兎羽さんが一ノ瀬切奈を救い、一ノ瀬切奈が救った誰かが兎羽さんを救い、兎羽さんがわたしを救い、わたしが兎羽さんを救えば、また今度は、兎羽さんの救った誰かが誰かを救う。命は、尽きて終わりじゃないんです」
消えていく世界。消えていく切奈。消えていくあたし。
もう少しで永遠になれたのに、もう少しで死なない存在になれたのに、どこか、ホッとしているあたしがいた。
もしあたしが永遠になったとしたら、死んだ切奈はどう思うだろうか。死んだ人間に意思なんてないはずなのに、あたしはどうしてか、死んだ切奈に悲しんでほしくないと思っていた。
「行って、救ってきてあげてください。あなたの魔法で」
もう、前が見えなかった。世界はあたりまえのように終わりに向かっている。無機質なそれは、全てを受け入れているように見えたが、拒むことをしらないのだと気付くと、途端に哀れに思えてきた。
「あなたには、守るべき人がいるはずでしょう。わたしのことは心配しないでください、どうせただの機械なんですから」
作り物の世界、あたしの記憶とリンクした世界。作られた人格、模造品の魂。
・・・・・・そうは思えない。
目の前の切奈は、生前の切奈に姿形は似ているが、言動は少々異なる部分がある。あたしがせっかく似るように設定してやったというのに、切奈ときたらあたしの邪魔ばかりする。
でも、もし。切奈が大人になったら、こんな風になっていたのだろうか。
「一緒に、お酒を飲んでみたかった」
切奈は酔いやすそうに見えるが、実はあたしより酒に強いなんてこともありそうだ。酔ったまま三人で布団に入って、じゃれあって息が上がって、興奮して中々寝付けない。
朝一番早く起きるのは切奈で、そのあとに小枝。最後にあたしという順番で。朝ご飯を食べながら昼はどこ行く? なんて話で盛り上がる。
「結婚式とか、呼んでみたかった」
あたしがいつ結婚するかなんて知らないけど、もし素敵な人を見つけて結婚が決まったら、切奈と小枝を呼んであげたい。あたしは二人に言いたいことが山ほどある。最初は笑える面白エピソードから初めて、最後に「大好きだよ」って伝えたら、二人は泣くだろうか。泣いている二人を見たら、あたしも泣いてしまうかもしれない。
そうして、切奈も小枝も結婚していって、二人が子供を望むかは知らないけれど、どちらにしても、結婚してからも三人で会って、昔の話で盛り上がる。
新居に招待されて、広いねーなんて話して。
それからおばあちゃんになっても仲良くって、三人近くに住もうなんて行って引っ越して。定年で仕事を辞めて、昼間外に出ると小枝と切奈にバッタリ会って。
なんだかんだ、あたしが一番最初に腰をやってそうな気がした。切奈は意外と丈夫で、小枝はおばあちゃんになってもあの跳ねた口調のままな気がする。
ゲートボールなんかに手を出すけどルールを覚えられなくて、全然違う遊び方をするんだろうな。それで三人で腹を抱えて笑って、それで・・・・・・。
「ずっと三人で、生きていたかった」
「それでいいんです兎羽さん。死にたくないではなく、生きたいと。そう、願ってください。いつかのわたしのように」
もう、切奈が見えない。
世界が見えない。
自分の意識が浮き上がっていくのが分かる。
それでも、心に打ち込まれる。
「待って、切奈!」
声を振り絞って、切奈の名前を呼んだ。
あの日許されなかった、最期の言葉。
あたしがずっと、切奈に聞きたかったこと。
「切奈は、生きてて、幸せだった?」
もしかしたら、無理させていたんじゃないか。
あたしが切奈を無理矢理あの部屋から連れ出さなければ。あのまま適切な医療を受けて安静にしてあげていれば、切奈はもっと長生きできて、高校だって卒業できたんじゃないか。
あたしのせいで、切奈はあんなに早く死んでしまったんじゃないか。
ずっと、ずっと考えていた。考えれば考えるほど、ゾッとした。寒気がした。
あたしと切奈は、もしかしたら出会わないほうが良かったんじゃないか。
あたしのやってきたことは間違いなんじゃないか。
そう、思っていた。
「わたしは、兎羽さんや小枝さんと出会うことができて・・・・・・幸せでした」
声が、遠く聞こえる。
「最高の人生でした」
なら、いいのだろうか。
あたしは、小さな頃に願った魔法なんてものを信じて、生きていいのだろうか。
「大丈夫です、兎羽さん。命はいつか尽きるものかもしれませんが、わたしがあなたを想うこの気持ちだけは、ずっと残り続けます。それは、消えない魔法となって」
「魔法なんてもの、本当にあるの?」
「あります」
「消えないの?」
「はい」
切奈は力強く答えた。
「
それが最期だった。もう切奈のことを認識できることもなくなった。おそらくあちらからも同じだろう。あたしたちは再び、隔たれた世界へと向かっていく。もう会うことはなく、話すこともできやしない。
あたしはこれから、目を覚ます。火の広がった、とても危険な場所だ。もしかしたら逃げるのに遅れて死んでしまうかもしれない。
それでもあたしは、そこに早く行かなければと思った。
昔、切奈に『どうして今生まれたのか』という話をしたのをふと思い出した。
あたしが生まれるのなんか縄文時代でもよかったはずだし、江戸時代だってよかった。もっと先の、それこそどんな病気でも完治させるほど医療の発達した未来に生まれたってよかった。
それなのに、どうして『今』なんだろうと、ずっと疑問に思っていた。
でも、今なら少しだけ、分かる気がする。
胸に手を当てると心臓がドクドクと鳴り、死に向かって鼓動が必死に走り続けている。
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