第20話 あたしの望み
夢を見て朝起きると、時々枕が濡れていることがある。悲しいのか、怖かったのか。判別がつかないまま、自分の涙の理由を探るも、結局いつも答えは出ないままだ。
それでも朝起きれば行かなければいけない場所があり、やらなくちゃいけないことがある。平等に朝日が昇る、そんな日々が経過していく中、あたしはいつのまにか、あの日流した涙の意味を忘れていく。
子供の頃は、もう少し融通が利いたはずだった。起きても、外に出るのが嫌な日は休めばいいし、少し我慢すれば一ヶ月の長期休暇があるから、そこで鋭気を養えばいいと前向きになれた。
そういう、唯一の保身が成長と共にペリペリと剥がされていったから、剥き出しになった心は、吹きすさぶ感情の嵐に摩耗して擦り傷だらけになっていく。昔は平気だった痛みも、蓄積するように心を蝕んでいき、それでも、朝日が昇れば布団から這い出て外に出なければならない。
逃げることは許されない。心が追いつかず、ちょっと待ってくれと懇願しても、あたしを囲う視線と世間の空気がそれを許してはくれない。
どうせいつかは死ぬくせに、なんであたしは、苦しみながら生きているんだろう。
「あ、あの」
路地裏に立っていたあたしの背中に、羽虫の飛ぶ音のような、微かな声がふりかかった。
「どなた、ですか」
振り返ると、そこには
人格更生プログラムを起動して、すぐに夢の世界に入ったあたしだったが、今回は少し、いつもと始まり方が違った。
普通なら、小枝と遊んでいるところから始まり、少しすると、家で寝ていた切奈が窓を開けてあたしたちを見つける。
それはあたしの記憶に基づいて、切奈との出会いを再現しているのだけど、今回は急に知らない路地裏に飛ばされ、こうして突然切奈と邂逅した。
不具合だろうか。
自分の心臓が、不規則に脈を打っているのがわかった。
胸に手を当てると、妙な膨らみがある。足元を見ると、地面がやや遠く、視線が高い。
大人の姿だ。この世界ではあたしは子供の姿でいられたはずなのに。
切奈が返事をしないあたしを見て諦めたように踵を返したので、あたしは慌てて後を追った。
「あたしは
切奈の目線に合わせるため、あたしは屈んで話しかけた。
「兎羽さん、えっと、わたしは・・・・・・すみません、分かりません。自分が誰だか、分からないのです」
記憶を失っている? もしくは、データを同期する前に出会ってしまったから切奈の人格形成に齟齬が発生しているのかもしれない。
こんなことは初めてだ。
「ひとまず、ここから出ようか。薄暗くて、変な臭いするし」
切奈の手を引く。
大人の姿をしているからだろうか。振る舞いが、子供を相手するかのように大人びてしまう。大人という皮を捨てて、何も考えずに走り回れるのがこの世界だったのに、これじゃあ意味がないじゃないか。
「はい、そうしましょう。えっと、よろしくお願いします。兎羽さん」
下から聞こえてくる切奈の声は、まるで奈落の底から聞こえてくる嘆きのようにも聞こえて、切奈の死を思い出してしまう。目を背けたいものばかりがあたしの五感を覆い尽くして、逃げ場がどこにもなかった。
路地裏を抜けると、見慣れたクリスマスの街並みが見えて少しホッとする。憎たらしいくらいイルミネーションが黄色く光っているが、その憎しみすら安堵に繋がる。それくらい、あたしの心はザワついていた。
「あ、いた! おーい! 百瀬センパイ!」
喧噪の中から聞こえた声に振り返ると、稲穂のように揺れる黄色の髪が人混みをかきわけてこちらに向かってきているのが見えた。
「よかったぁ! 探しても全然見つからないから、どうしようかと思ってました!」
「あ、
なんで明日花がここにいる。いや、この世界に明日花は元々存在した。あたしの記憶とリンクしたこの世界には、明日花が高校生くらいの姿で再現されていて、切奈の家に行くとたまに見かけたりもした。ただ、主要人物には設定されていなかったため、直接会話をすることもなかった。
だからこうして、あちらからコンタクトを取ってくること事態が、異常なのだ。
「私だけじゃないですよ、ほら、
「ちょ、ちょっと待って。何言ってるかさっぱり分からないんだけど」
「私たちも最初は何が起きているか分からなかったわ。人格更生プログラムの不具合なのかもって思って、ログアウトしようとしたのだけど、どうしてかいつもなら簡単にできるログアウトができなくって」
明日花の後ろから、立房さんが顔を出す。なんなんだ次から次へと。
それこそまるで、夢のような秩序の無さだ。
「あの、百瀬センパイ。一個だけ確認させてください。百瀬センパイは人間ですよね?」
「はあ? 当たり前でしょ、そんなの」
「じゃあ、さっきまで私と何を喋っていましたか」
「何って、明日花がデータを出したいけどやり方を忘れたって言うから、昔工場で教えてもらった統計論を話してたんじゃん」
言うと、明日花と立房さんは顔を見合わせて頷いた。
「確定、ですね。私の世界にたまたま、百瀬センパイの顔をしたNPCが歩いているのかと思ったのですが、さっきまでの記憶を共有していることがその説を否定する証拠になっています」
「言ってる意味が分からないんだけど」
「百瀬センパイの世界に、私がいることは百歩譲っても分かります。この人格更生プログラムの初期設定をするより前に顔見知りだったんですから。でも、そしたら立房さんがここにいる理由を説明できないですよね。立房さんに聞きましたが、百瀬センパイと知り合ったのは、互いに利用を始めた後だって」
明日花の言うとおりだ。立房さんと知り合ったのはあたしが人格更生プログラムを利用して一ヶ月経った頃。そのときにはすでに設定は終わっていて、この世界も、登場人物もほとんど決まっていた状態だった。
それ以来設定には手を加えていないので、そこに突然立房さんが現れるのは、確かにおかしい。
「あ、あの。兎羽さん」
そこで、あたしの後ろから切奈がひょこっと現れた。
「この人たちは、どなたなのでしょう。お知り合いですか?」
「あ、うん。えっと」
どう説明すればいいのだろうか。元の世界では知り合い、なんて言ったところで、切奈が理解できるとも思えないし、そもそも人格更生プログラムに関することを人工知能に吹き込むのは利用規約に反することだ。言ってしまえば、ペナルティーとして世界が即座に崩壊してしまう。
「こんにちわ、あのね。お姉ちゃんたちちょっと大事なお話があるから、あっちで遊んでてくれる? ほら、サンタさんがたくさんプレゼント配ってるよ」
「分かりました」
明日花が宥めるようにそう言うと、切奈は少し寂しそうな顔をしてから賑やかな広間へ駆け寄っていった。
「似てますね」
そんな小さな背中を、明日花が見つめていた。
「顔も声もそっくり。本当、よく出来た機械だ」
明日花は一つ、ため息を吐くと「話を戻しますが」と仕切り直した。
「いったい何が起きているのか、という話なんですが。タブレット、持ってますよね?」
タブレットは利用者全員にあらかじめ持たされている。あたしの手元にも、当然それはあった。
「メニューを開いてみてください。さっき立房さんの言ったとおり、ログアウトの欄が、空白になっています」
「本当だ。でも、どうして?」
空白となった部分は、押しても反応がない。
「それは分からないですけど、これから調べる必要がありますよね。それと、もう一つ。これが一番意味不明なんですけど、タブレットには地図アプリが付いてますよね?」
「うん、付いてるけど。それも使えなくなってるの?」
「開いてもらえば分かります」
あまり見ることのない明日花の真剣な表情と、立房さんの不安そうな表情に、妙な緊張感を覚えながらあたしはタブレットの地図アプリを起動した。
すぐにこの街の地図が表示されるが、奇妙なことに、その地図には標識や記号の他に、何やら赤い点と、黄色い点が表示されていた。そのうち赤い点は止まっているが、黄色い点は今も動き続けている。
さらにアプリに搭載されているサブメニューを開くと、人名の隣に心拍を表すと思われるモニターが表示されていた。それも同じく、今も動いている。
「そこに、私たちの名前もあります。おそらく、これは管理者だけが扱うことのできる管理プログラムだと思います。そこに表示されている名前は利用者の名前で、心拍は、おそらく利用者の命に支障がないかどうかを判断するためだと思われます」
「利用規約に、制限時間を過ぎた場合、もしくは生命に危険が及んだときに強制終了の処置を執るとあったでしょう。利用者は寝たきり、私みたいな高齢の人もいたから、きっとそれを管理していたプログラムだと思うの」
立房さんも同じようにタブレットの地図アプリを開き、自分の名前の欄をジッと見つめていた。
「そしてここは、百瀬センパイの世界なんだと思います。私も、そして立房さんも、自分の世界にいたはずの、主要人物を見ていない。でも、さっき・・・・・・お姉ちゃんがいました。百瀬センパイが人格更生プログラムに望んだのは、お姉ちゃんですよね?」
お姉ちゃん。そう口にするたび、明日花は苦虫を噛むように、眉間にシワを寄せた。
「おそらく、百瀬センパイの世界に、私たち利用者がまとめて入り込んじゃったんだと思います。とかいって、ぜーんぶ憶測なんですけどね。こんなの初めてだし、わかんないことだらけですよ正直。あー、あのあと、さっさと帰ればよかったかなー」
「けど、百瀬さんと会えてよかったわ。何が起きているのか分からないけれど、三人で一緒に考えていきましょ?」
立房さんに手を握られて、そこで初めて、あたしは自分の手が震えていたのが分かった。
話している間に、他の利用者も続々と集まり始めていた。確かに、ロビーの待合室で何度か見かけた顔もある。みんな、不安そうにタブレットを弄っている。いつもと違う世界に飛ばされるのもそうだろうが、一番の不安の種は、やはりログアウトできないことだろう。
「ねえ、見てあれ!」
利用者の一人が何かに気付いたらしい、その人が指さしている方向を、あたしたちは一斉に見た。
百メートルほど先に、複数の影が見えた。
人間ではない。
よく見ると、それは『ヒルフェ』でも見かけた。スタッフのロボットだった。視認できるだけでも、五体ほどいるだろうか。四輪を稼働させながら、ゆっくりとこちらに近づいてきている。
「よかった! 非常事態に気付いてくれたんだ! おーい!」
みんなに、安堵の表情が戻った。あたしたちも、顔を見合わせてロボットの方へと向かおうとした。
その瞬間、街に流れるジングルベルのメロディをかき消すような、轟音が鳴り響いた。
それとほぼ同時、一足先に駆け出した利用者の一人が、血を噴き出しながら倒れた。
『これより、アップデートを開始します』
ロボットの手から、煙があがっているのが見えた。しかし、ここからじゃ遠くて何を持っているのかが分からない。
それからすぐに、乾いた音が二回、三回と立て続けになった。
いろんな人の、悲鳴が聞こえた。
あたしたちは脚を止めて、次々と倒れていく人たちの身体から染み出す赤黒い液を見て、ハッと息を飲む。
「これ、ヤバいですって」
明日花がボソッと呟いた。
「人工知能の暴走? 違う、人格更生プログラムに人を銃殺するなんてものはプログラミングされていなかった。そもそも銃はどこから調達した? なんのために利用者を一つの場所に戻した? まさか意図的に? じゃああれは、人工意識? それなら、私たちは今人工意識の中にいる? 脳を接続してるから、奴らの言うアップデートって、まさか、そんな・・・・・・! 百瀬センパイ! 早くあの人たちを助けないと、そうしないと、もう!」
この場にいる全員が動揺しているなか、あたしだけが、誰よりも先に振り返っていた。
「百瀬センパイ!」
明日花があたしの手を取った。それでもあたしは、止まるわけにはいかなかった。
止まってたまるか。だって、あいつら、銃を持ってるんだぞ? 立ち向かう必要なんかどこにある?
人間、自分が死ぬ確率のあるものから避けて生きていくのが普通でしょ?
あたしは飛行機なんて絶対乗らないし、雷が落ちている日は傘なんか絶対差さずに走って家に帰る。
「離してよ」
分かってよ。
あたしは死にたくない。
それに、ようやくここまで来たんだ。もうどれだけ待ったことか。333回目に起きる奇跡を、ずっと待ち望んでいたんだから。
あたしは明日花の手を振り払った。その間にも、遠くから銃声と、人の悲鳴が聞こえる。
「百瀬センパイ、あなた、もしかして・・・・・・」
一度転んで膝を打ちながらも、痛みを感じることはなかった。あたしはすぐに立ち上がって、バランスを崩しながら一心不乱に走り出す。
もう、明日花があたしを追いかけることはなかった。
「永遠に、なろうとしているんですか」
走り出す途中、後ろから、冷気を宿したような、明日花の感情のない声が聞こえた気がした。
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