羅生門の後に。
青木幹久
羅生門の後に。
ある日の朝方のことである。一人の男が、戻橋の上を歩いていた。
短い橋の上には、この男の他に誰もいない。ただ、所々石の欠けた、豪胆な欄干の上に、鴉が一羽とまっているのみである。
この時間帯である、周囲には市女笠や揉烏帽子どころか、行き場のない浮浪者もいない。 そんな中を、男は檜皮色の着物を羽織り、一人朝の一条通を、ただ黙々と歩いている。
男はしきりに周囲を気にしていて、後ろを振り返っては、その都度頬のにきびを擦っていた。別にどこか目的地があるというわけでもなく、ただなんとはなしに、やることもないので街を徘徊しているのだ。
ふと脇道を見ると、丁度いい高さの長椅子が一脚、茶屋の前に置かれていた。男は誘われるように茶屋に向かって歩を進める。男の足取りは重い。所々破れている着物を揺らすその身なりから、男がどんな者かは大体の予想がついた。
「…………」
男は椅子に座り込んだきり、動かなくなった。死んだように見えるが、しかし、その微かに上下する薄い胸板が、乏しい生命力をささやかに主張している。
男はゆっくりと、鹿威しが音を響かせる直前の様な緩慢な動きで、後ろを振り返る。
椅子の横では、『茶』とだけ書かれた旗が、朝風に揺られてはらはらとはためいている。男はいつの間にか、大宮通まで歩いてきてしまっていた。
それなりに頑丈そうな木の扉は今は閉ざされていて、男は何故だかほんの少し、落胆した。といっても、開いていたところで、茶を買う金も無いのだが。
男はそれから暫時、椅子に座って何をするでも無く朝の京内を眺めていたが、ふと、何を思ったか突然立ち上がり、急いでどこかへ立ち去ろうとした。
それとほとんど同時に、椅子の後ろの扉がぎっ、ぎぎと鈍い音を立てて開いた。その扉から姿を覗かせたのは、黒い髪に白髪を滲ませた老人だった。
男は慌ててその場から立ち去ろうとしたが、その前に、老人がしわがれた声で呼び止めた。
「おのれ、どこへ行く」
老人は勢いよく扉から飛び出すと、手に持っていた茶葉のようなものを、躊躇無く男に投げつけた。
茶葉は男の着物やら顔やらに貼りつき、男は突然の事に動転して転んでしまった。
老人はすかさず男に歩み寄り、胸ぐらを掴んで引き寄せる。
男は老人の予想外の迫力に圧され、逃げることも反撃することも出来ずにいた。
「いや、違う、違うんだ」
それでも渇いた喉を絞って、なんとか弁解しようと試みる。しかし、老人は男の言葉など聞こうともせずにより一層声を張り上げる。
「何が違う! お前だろう、近頃店の金が十円ほど無くなっていたのだ! お前が取ったのであろう!」
老人は更に力を込め、男の首の骨を折らんとするかのように体を傾ける。
「ち、違う! 俺はつい数日前までは日々汗水流して働いていたのだ、盗みをする暇などあるまい。まあ、その主人からは暇を出されたが、それもつい昨日のことだ、いずれにせよ俺があなた方の店の金を盗むことなどしようはずが無いだろう!」
男は死に物狂いで叫んだ。それはあらぬ疑いをかけられたことによる怒りか、あるいは自分に対する言い聞かせなのか。
男の叫び声は朝の都に響き渡り、ちらほらと門戸から何事かと訝しんだ人間が出てきてこちらを覗いている。
老人は体裁を気にしたのか、それ以上怒鳴り散らすことはなく、代わりに小さく「入れ」と言い、呆気にとられている男を置いて店の中に入っていった。
男はそのまま立ち去ろうとも考えたが、そうすると自身の疑いをより一層強めると思い、渋々茶屋の店内に足を踏み入れた。
「だから、俺は盗っていないと言っているだろう」
男は茶屋の奥の──恐らくこの老人の寝床であろう部屋に座らされ、老人と向かい合う形になった。
「ならば答えろ、お前、うちの店の前で何をしていた」
「何、と言われても、ただ俺は、あそこで休憩していただけだ。もう丑三時辺りから何時間も歩いて、やっとの事で椅子を見つけたのだ。座るなと言う方が無茶であろう」
老人は尚も疑わしそうに男の目を睨めつけていたが、やがて一つ、あぁと溜息を吐いて、「お前の言い分は分かった。仮にだ、もし仮その話が本当だったとしよう。ならばお主は、そんな時間に何をしていたのだ」
老人は自分用に煎れた茶を音を立てて飲んだ後、一つ息を吐いて聞いてきた。
男は一瞬、顔を強張らせたが、すぐに先程までの間の抜けた顔に戻り、こう言った。
「先程も言った通り、主人に暇を出された為、行き場を無くして、行く当てもなくここらをうろついていたのだ。そうすると雨が降ってきたので、丁度近くにあった羅生門で雨宿りをしていたのだ」
男は目を逸らして卓上に手を伸ばしたが、自分の茶が出されていないことに気付くと、渋顔をして、行き場の無くなった手を自分の頬に持って行った。
「ならば何故そこで夜を明かさなかったのだ」
そう聞くと男は、またも先程よりもより一層顔を強張らせ、早口でこう言った。
「貴方も知っているでしょう、あそこが今どのような状態になっているか」
男がそう言うと、老人は嘲るように言った。
「ふん、あそこには動かぬ人間しかおらんだろう。何をそんなに怖がる必要がある」
「違う、俺は断じて怖いからなどという理由であそこを後にしたわけでは無い」
男は心外だという風に声を上げ、その後にこう続けた。
「そんなことは分かっている。俺も、あそこにいるのが死体だけなら、都を彷徨い歩いたりはしない」
「なら、何故だ」
「本当に恐ろしいのは死体などでは無い。真に恐れるべきは、とことんまで追い詰められた人間のエゴイズムだと気付いたからだ」
老人はもうそれ以上、男に何も聞いてくることは無かった。しかし代わりに、もうこの店には近づくなとだけ言って、店の中に戻っていった。都には既に、何人かの商人が店の準備を始めていた。
男はその中をただ一人、黙々と歩いて行く。
何度見ても、この門の前には人の一人もいない。もちろん白髪の、猿のような老婆など、いるはずも無い。男は、その門に一人、ただ立っている。目の前には、上の蠟に繋がる急な梯子が立てかけられている。
男はしっかりと梯子を掴み、足を掛け、腰に着けた聖柄が鞘走らないように気を付けながら、蠟の上へ出た。
蠟の上では、誰かが火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしていた──などと言うことは無く、昨夜と同じように、ただごろごろと腐乱した死体が転がっているだけである。
男はその上を、死体を踏んでしまわないように気を付けながら、そろりそろりと、足音を消して歩く。中は外と違って薄暗く、また、昨夜の雨の所為か、それともこの惨状がそう感じさせるのか。
ざりっ、という、地面を擦る草履の音がした。誰かと思い咄嗟に首を後ろに回そうとしたが、それと同時に背中に鋭い痛みが走り、視界は後ろに立つ人間の肩の辺りで止まった。 何事か、直ぐに理解することは出来なかったが、それでも辛うじて、背中を刺されたのだと言うことだけは理解できた。
口からは、が、だとか、あぁだとか、悲鳴とも喘ぎとも言えないような声が漏れる。
男はそれでも、万力を振り絞り、自身の腰にある聖柄に手を伸ばそうとする。しかしその途中で背中の刃を抜かれ、背中から大量の血が噴き出す。
自分の後ろで、血が地面に滴る音が響き、男はその音を聞きながら、緩やかに屍の上に沈んでいった。後ろからは、「この男、一銭も持っていないじゃないか」という、聞き慣れない男の声が聞こえたが、それが男の耳に届くことは無かった。
男は無数に転がる屍に倒れ込み、その一部になった。数刻もすると鴉達が黒い羽を散らして、瑞々しい肉の匂いを嗅ぎつけ、男の肉をついばみ始める。
破れた檜皮色の下から、更にもう一枚、紺の生地が現れる。
鴉の鋭い口はいとも簡単にそれらを破き、男の肉を強引に千切り取る。
男は肉という肉、血という血を蝕まれ、最早誰とも判別付かなくなっていた。
男が完全に屍の川の一部となった頃、口端を血で汚した鴉達は、申の刻の空へ去って行った。
鴉の行方は、誰も知らない。
羅生門の後に。 青木幹久 @mikihisa1206
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