第三話 氷憑けの人工神話

「--増え続ける人口、枯渇する資源、そして深刻な食糧危機。今から約千年前、人類が陥ったこれらの問題を解決したのは、地球の旧イタリアで生まれたひとりの科学者、トト・メリーニでした。彼の開発した画期的な惑星間航行技術により、人類はすっかり狭くなってしまった地球を離れ、他の惑星での暮らしを始めることができるようになったのです」

 人類ならどんな小さい子どもでも知っている、画面いっぱいに映し出された男の顔は、どこか思いつめたような、暗い目をしていた。

 僕も科学者くずれだからか、なんとなくわかった。

 彼はきっと、人類が存続する道を見つけたことになど、本当はまったく興味がないのだろう。

 ただ知りたいことを、追い求めていただけなのだ。

「--元々、彼の専門はバイオテクノロジーでした。いつものようにフィールドワークに出かけた二五歳の夏、歴史的な発見をします。旧アイスランド、ヨークルスアゥルロゥン湖の底で、新種の鳥の化石を発見したのです。新たに発見されたこの鳥は、それまでに見つかっていたあらゆる鳥の先祖、始祖鳥と遺伝的に近い存在でしたが、決定的に異なる進化を遂げていたため、鳥類の真の姿を体現した鳥、『真祖鳥』と名付けられました。残念ながらすでに絶滅してしまったと思われるこの真祖長の翼は、機能的に他のどの生き物とも異なっていました。偶然と進化の奇跡、生命の神秘としか言いようのないそのミステリアスな翼の構造は、当時の物理学の歴史を二百年は進めたと言われています。その原理を応用した宇宙船が開発されたことで、人類の他惑星への移住はこの上なく簡単になりました……」

 地球に帰ってきた人類向けの、よくある歴史番組だ。もう何度も観た。

 眺めていた画面に興味を失うと、僕は窓の外を見た。

 浜辺を天使が飛んでいる。

「ちょっとベラ。ちゃんとそっち持ってる?」

「持ってるってば」

 網の片方を持ち、木の上にくくりつけているベラは、背中にある白い翼をゆったりと羽ばたかせ、宙を漂っていた。

 網のもう片方を持つ女性は、車椅子を動かしてもう一本の木まで進むと、枝に網の先端を結びつけた。

「アンナできた?」

「できたわ。お願い」

「はいはい」

 アンナと呼ばれた車椅子の彼女が両手を差し出すと、ベラはその手をつかんで浮かび上がった。アンナの下半身を覆う美しい虹色の鱗が、日差しを浴びてきらめいた。

 人魚の彼女は、自力で立つことができない。

 ガラクタを組み合わせてつくった急ごしらえの車椅子は、僕からしたらまだまだ改良の余地のある代物だったけれど、彼女はとても喜んでくれた。改良版の電動モデルは、3D製鉄プリンタで出力する図面を今組んでいるところなのだが、彼女は「手動のままでいい」と言う。自分の力で進めるのがいいらしい。

 そういうものだろうか。足が四本もある僕には、歩けない人の気持ちはうまく想像できなかった。

「きゃっほう! 思った通りいい感じよベラ」

「それはなにより」

 出来上がったお手製のハンモックに寝転んだアンナは、嬉しそうにはしゃいでいた。始めて会ったときは落ち着いた大人の女性だという印象だったが、彼女には小さなことでも大はしゃぎする無邪気な面があった。最近生きるのが楽しくて仕方ないんだそうだ。いいことだな。

 対照的に暗い表情のベラは、先日もまた自殺に失敗したばかりだった。失恋だかなんだかで、なるべく高いところまで飛んで、酸欠で意識を失って墜落するという自殺を何度も試みるのだが、死ねた試しがないらしい。気がつくといつもこの辺りの浅瀬か浜辺に打ち上げられていて、なんだかんだで生きているのをアンナが見つけてくるのだ。僕も一度見つけたことがある。不思議だ。

「……あー、わたし、どっか散歩してくる」

「また自殺? どうせ死ねないんだしやめときなさいって」

「えー……だってここにいたらまたジョエル来るし……気まずい……」

「彼の顔見るたびにヒスってどっか飛んでく癖、早く治した方がいいんじゃない?」

 僕の住む研究所跡の裏は小さな入江になっていて、今はアンナが住んでいる。ベラは森の中で高い木の上なんかを寝床にしているみたいだけど、人間のジョエルよりもケンタウロスの僕や人魚のアンナと居る方が気楽らしく、よくこうして三人で会っていた。

 ちなみにジョエルというのは、この島に住む青年の一人だ。ベラの話だと、どうやら以前好きだった人に顔がそっくりらしい。顔を見るとどうしていいかわからなくなるそうで、パニックになってどこかに飛んで行き、酸欠で墜落してはこの島に流れ着く、というのを繰り返している。なんという豪運。

 会話する二人の元へ、砂浜を歩く。砂浜は蹄の僕には歩きにくい。何かいい方法があるといいんだけど。

「あら、タツヨシじゃない。見てよこれ、ハンモック!」

 今しがたベラと自作したハンモックに寝転びながら、アンナが嬉しそうに声をあげた。

「水の中みたいでなかなか寝心地がいいわ。あなたもどう?」

「いいね。でも僕は遠慮しておくよ。網が破れちゃいそうだから」

「残念。でも確かに、重さを支えられないかもしれないわね。あなたがっしりしてるから」

「馬だからね」

「あ、タツヨシだ。おはよう」

「おはよう、ベラ。気分は落ち着いた?」

「まあまあかな。ちょっとショックが大きくて、まだ引きずってるけど」

 ベラはやや元気のない声音でそう言った。

「勘違いするのも無理ないよ。異星人が来て人肉を食べるんだ、っていう説を信じてる人類も、実際まだ地球には残ってるわけだし」

「運が悪かったのよ。たまたま旧地球人の出版した手記だけを見るだなんて」

 アンナも慰めるようにそう言ったが、ベラは弱々しく頭を振った。

 初め彼女は「地球が人間そっくりの異星人に支配され、人類は食用の家畜になり、自分たちは遺伝子を弄ばれ生み出されたペット」という説を主張していたが、それは間違いだ。ネットから情報を得られる僕も、ここに来る前は客商売をやっていたアンナも知っている。


 今から約千年前、増え続ける人口問題、取り尽くされた資源、そして食糧危機を解決するため、テラフォーミングした他惑星に人類はほとんどが移住した。その上で地球は、穀物や家畜を育てる食料庫となった。

 しかし金のない者、戸籍のない者、社会的に命を無視された弱者たちは、地球に残らざるを得なかった。

 再び植物と野生動物の楽園となった地球で、細々と生き延びることとなった彼らは、新しい敵とも戦わなくてはならなくなった。

 多惑星からやって来る臓器売買の密輸業者だ。

 どれだけ時代が進んでも、他人を金に変えたがる人間は現れる。

 地球に残された人類は、科学、文明のレベルが著しく低下した。世代を経るごとに真実が埋れ、他惑星から来る密輸業者の人類を「異星人」と勘違いした者すら現れた。手書きの書記をしたためたものが出回り、「人肉を食べるために捕らえられている」という誤解が、地球に残ったわずかな人類に広まってしまったのだという。

 これがベラの勘違いにつながった。


 ということをベラに説明すると、ショックのあまりまたどこかに飛んで行ってしまった。それからやっぱりこの島に流れて来て、今はこうして僕たちの近くにいるというわけだ。

「……わたし、どうしたらいいんだろ」

 翼をゆっくりと動かして空中を漂うベラが、物憂げに言った。

「そうねえ。ベラの好きな人も、別に人肉食べてたわけじゃないなら、拒絶する理由ないんでしょう?」

「まあ」

 ベラは複雑そうな顔をしていた。

「正直、パニックになってただけだった、かも。ジョエルの顔がそっくりなの見て、ああ、頭おかしくなったんだなわたし、って考えるのやめてた節あるし。会いたい気もするけど、逃げちゃったこと怒ってるだろうし……夢中で逃げて来たから、場所もわかんないし……」

「ただの誤解だったんでしょ? きっと謝れば許してくれるわよ。会いたいんでしょう。やっぱり会いに行くのが一番いいと思うけれど。せっかく羽があるんだし」

 そう言うとアンナはあくびをした。

「ま、落ち着くまでここに居たらいいわ。どっか飛んで行っても、また私が見つけてあげるわよ」

 アンナには、なんとなくベラの居場所がわかるのだそうだ。

 理屈はよくわからないが、なぜかアンナはベラのいる方角が分かる。ただし、ベラがパニックを起こして、どこかに飛んで行ったときだけだ。本人は「女の勘」と言っている。感覚的なものらしい。女性とは興味深いものだな。

「あー……うーん……しばらくここにいる」

 ベラがアンナの隣に寝転がって頬杖をついた。空中のまま。器用な飛び方だ。どうやってるんだろう。

 やはりあの大きな翼に秘密があるのだろうか。物理演算を何度頭の中でシミュレートしても、今みたいな飛び方はどうやったらできるのか、見当もつかない。おそらくあの翼の美しい曲線を描くフォルムこそが、僕の想定しているより多くの浮力を、大ざっぱな計算ではわからない微妙なバランスで得ているに違いない。正確に測定させてくれないかなあ。一枚一枚の羽の形も、もっとよく見てみたい。

「何見てるの?」

 しばらく考え込んでいた僕に、アンナが声をかけた。

「ああ、いや、綺麗だなと思って」

「何が?」

「ベラの羽だよ。綺麗なフォルムだ」

「……ふうん」

 アンナの返事に、僕は補足で説明をした。

「機能的な意味でさ。そもそも普通、あのサイズの動物が飛ぶためには、もっと胸筋が必要だ。でもベラは実際に軽々と飛んでる。多分あの羽の形や材質に秘密があるんだよ。どういう仕組みなんだろう」

「胸筋。そう。胸を見てたのね」

「そうだね。羽と、胸だ……アンナ? どうしたの?」

「別に」

 アンナの声音が微妙に冷たくなった気がした。向けられる視線も、心なしか冷たい気がする。

 何故だろう。

「……あー、タツヨシ。わたしを見るのは構わないけど、見るなら羽だけにして」

 ベラが寝転がったまま言った。

「え? でもやっぱり、翼と胸筋と、あとは肩甲骨と脊柱起立筋も連動して動いてるわけだし……」

「そうじゃなくて。あんまり女の子の胸をジロジロ見ちゃだめ」

「ご、ごめんベラ! そういうつもりじゃなくて?」

「わたしよりアンナに謝った方がいいよ」

「え、なんで? アンナの胸は見てないよ」

 ベラが何も言わずに肩をすくめたのを見て、僕はアンナに視線を向けた。彼女はベラの方を見ている。

 しばし黙った後、自分の胸に手を当ててポツリと言った。

「……サイズかしら」

「え?」

「ちょっと魚を獲ってくるわ。また後でね」

「あ、うん。また」

 アンナは器用にハンモックから降りると、車椅子に乗って波打際まで行ってしまった。車椅子から降りた彼女は、そのまま海へと飛び込み、波間に姿を消した。

「……タツヨシ。胸の大きい女の子が好きなの?」

「ええ? 気にしたことないよ、そんなの」

「じゃあアンナのこと、綺麗だと思う?」

「それは思う。やっぱり人魚って、泳ぐことに特化した下半身の筋肉のつき方が本当に見事で……」

「あー、えー、そうじゃなくて」

 ベラは天を仰いだ。

「……アンナ。わたしには、どこがいいのかわからない」

「どうしたの?」

「なんでもない。そういえばタツヨシ、この後何かするって言ってなかった?」

「ああ、あれね。いや、ベラが暇なら、一緒に暗号を解いてみないか、って誘おうと思ってたんだ」

「暗号?」

 怪訝そうな顔をするベラに、僕は説明した。

「そう。僕が住んでる研究所跡には、いまだにどうしてもアクセスできない秘密のデータがあるんだ。ベラって数学も得意だし、プログラミング言語と画像認識周りのアルゴリズムを勉強すれば、いい線行くと思うんだよね!」

「まあ、嫌いじゃないけど……気晴らしに、ちょっとやろうかな」

 以前ベラと話した時に、彼女が数学と理論物理学に関してかなりの才能を持っていることがわかっていた。

 気を紛らわすには別のことに頭を使うのもいいかもしれない。そのくらいの発想だ。

「本当? 嬉しいな! 暗号のタイプはおそらく二千年代に一般的だった共通鍵暗号なんだけどね、そこに画像認証でパスを設定したっていうところまではわかってるんだけど、その画像の認識基準が例えばある画像の一定範囲内のRGBの値なのか、それとも三次元で認識して凹凸のポイントクラウドを見てるのか、まだ全然わかってないんだけど、あ、共通鍵暗号っていうのはね! 素因数分解の一意性を利用するんだけど、素因数が二つでできた十分に大きな合成数を用意して、その合成数を法として適当に平文の数値を累乗することで暗号化するって形式なんだけど、複合には法とした合成数を元に累乗を打ち消すような異なる整数を使えばよくて、あ、素因数分解の一意性っていうのはね!」

 つい夢中になってまくし立てる僕の話を、ベラは時々「あー」とか「うん」とか「へー」とか言いながら聞いていた。これで本当にわかっているのだからすごい。

 話しながら研究所まで歩き(彼女は飛んでいる)、僕がコンピュータを起動する。

「--基本的にはそんなとこかな! で、これが僕がアクセス失敗し続けてるパスの入力画面なんだけど、やっぱり画像認識を強引にハックしようとしてるわけだし、ちょっとひねりが必要だと思うんだ。とはいえベラは学びたてだから、まずは簡単な暗号の解読から実際にやってみよう。多分ベラなら、カエサルシフト暗号くらいの簡単なのは見たまんまだろうから、いきなりヴィジュネル暗号の解読に挑戦してみてもいいんじゃないかな。あ、ヴィジュネル暗号っていうのは一六世紀に考案された多表式の……」

 その時、スピーカーからアナウンスが鳴った。

『パスワードを確認しました』

「……え?」

「……ん?」

 壁一面を占める大きなメイン画面には、「パスワードを確認しました」の文字が表示されていた。

「……嘘だろ」

 何が起きたのか。

 目まぐるしく頭の中で仮説と否定が飛び交い、やがて一つの結論に辿り着く。

 ありえないけど、それしかありえなかった。

「……君が鍵だったみたいだ、ベラ」

 画面の文字が消え、フォルダが表示された。

 中にあるファイルは、たった二つだけ。

 『daiary』と書かれたテキストファイルと、『β 』と書かれた動画ファイル。

「……信じられない。悔しいけれど、ベラ、僕は今ひどく興奮しているよ。自分の力で解けなかったのは残念だけど、君のおかげで秘密を知ることができるんだ。この研究所の持ち主のね」

「……わたしの顔が、鍵だったってこと?」

「そうみたいだ。どういうことなのかすぐにはわからないけれど、この二つのファイルにヒントがあるかもしれない。ベラ。せっかくだから君が選んでくれ」

「何を?」

「どっちから見たい?」

 ベラは少し首を傾げて画面を眺めると、やや間を置いて言った。

「……テキスト」

「わかった」

 僕はPCを操作し、『daiary』と書かれたテキストファイルを開いた。




20XX.6.10

 研究所が完成した。

 今日から日記をつけようと思う。

 研究一筋で道楽を知らなかった僕には、幸い前にいた研究所で貯めた金がたくさん余っていた。こうやって自分の研究所をこの島につくることができるくらいには。

 小さいが、最低限の設備は揃えたつもりだ。

 大事なのは設備よりも、秘匿性。

 彼女の存在は、世に知られてはならない。


20XX.6.11

 この島の入江で彼女と出会ってからというもの、月日が経つのはあっという間だった。彼女を研究するのは、これまで取り組んできたどんなことより面白い。

 彼女は間違いなく、人類の進化の可能性を秘めている。


20XX.6.15

 大学院にいた頃、ハオランと一緒にゲノム解析で功績を挙げた時が、今の興奮に一番近いかもしれない。いや、それ以上か。

 彼女のことをもっと知りたい。


20XX.6.20

 ハオランに彼女とのことを冷やかされるようになった。「研究に恋してる科学者なんて、よくある話だろ?」と彼は言う。

 大学院時代に一緒にひと旗あげて以来、彼は他の誰よりも信頼できる友人だ。彼だけには、彼女の存在を打ち明けた。「ちょうど南の島のビーチでネットサーフィンしたい気分だったんだ」などと言い、この島に移り住んできてくれた。

彼には設備のメンテナンスを頼んでいるが、彼も彼女に興味があるらしい。主に演算能力と飛行アルゴリズムについての関心らしいが、僕もあまり詳しい分野ではない。


20XX.6.21

 彼女に名前をつけた。驚いたことに、名前がなかったらしい。

 彼女を初めて見た時、彼女が森の奥の入江のほとりに佇んでいた美しい姿を、僕は生涯忘れないだろう。

 ベラ。

 ラテン語で「美しい」と言う意味だ。


20XX.7.3

 やはりハオランに協力を頼んで正解だった。複雑で膨大なベラのゲノム解析には、彼のプログラミングの能力が必要不可欠だ。

 僕の専門は遺伝子工学の域を出ないし、彼はプログラミングと機械弄りが趣味のギークでしかないが、僕らが組めば生命の神秘を解き明かすことも夢じゃない。



20XX.7.7

 ハオランと組んで研究をするのは、この上ない知的興奮に満ち溢れた体験だが、最近はベラと二人きりになる時間が多い。

 気を利かせて席を外してくれているのかもしれない。

 女性経験の無さでは僕と良い勝負の彼に、そんな芸当ができたとは。


20XX.7.14

 夏の浜辺は美しい。砂浜をベラが飛ぶ姿は、どんな海鳥よりも優雅で、まぶしかった。


20XX.7.20

 ベラのゲノム解析が一通り終わった。大量に遺伝子を見てきた経験上、ベラの遺伝子には、人間に類似した部分と、鳥類に類似した部分があるように思えた。しかし人か、もしくは鳥の突然変異として片づけるには、遺伝子が混じり過ぎている。やはり新種とみなすべきだろう。

 念のためデータベースや過去の論文を当たるのはハオランに任せているが、彼も「見つからない」と言っている以上、完全に一致するような生き物はおそらくいないのだろう。


20XX.7.21

 「ハオランでも見つけられないということは、地球上のどのデータベースにもこの生き物の塩基配列は記録されていないということだろう」と冗談めかして言ったら、彼は悔しそうにしていた。褒めたつもりだったのだが。


20XX.7.29

 ハオランが新しいプログラムを組んだ。研究サポート用に特化したAIだそうだ。彼の名字から『Dシリーズ』と名付けられたそのAIは、早速ベラの遺伝子が他の生物に類似していないか調べてくれた。

 予想通り、ベラの遺伝子は人間のものと鳥のものを、奇跡のような配分で混ぜ合わせたもののようだ。

 ただし、鳥の部分が何の種なのかが、今ひとつはっきりしない。

 既知の鳥類でもっとも似通った種との整合率は、73%だった。高いとは言えない。

 ベラのルーツを明らかにするには、まだまだかかりそうだ。


20XX.8.3

 ベラの遺伝子には、約6%だけ魚類に似通った部分があることがわかった。面白い結果だ。

 人と、鳥と、魚。

 走ること、飛ぶこと、泳ぐこと。

 これらの行動が概念と化し、混ざり合って昇華したものが、天使の飛行だとでもいうのだろうか。

 僕は何を言っているんだ。


20XX.8.6

 ベラの特異な飛行能力について、おぼろげではあるが解明が進んできたので記録しておく。

 始め、空中から突然現れては消えるベラの飛行を見たときは、いわゆる「瞬間移動(テレポート)」だと思った。

 つまり、あるA地点から消えたのと「同時に」別のB地点に現れる、というものだ。

 しかし観測を続けるにつれ、そうでもないことがわかった。

 あるA地点から別のB地点に瞬間移動するまでには、微妙に時間のラグがあるのだ。

 ごく短距離、約10メートルまでの移動では、その時間差はほぼゼロに等しいが、そこから先は「ランダム」に移動時間が発生する。距離に関わらず、だ。これは頭を悩ませる結果だった。

 通常の物理法則に従えば、遠くに飛ぶには、その分長い時間がかかるはず。

 しかしベラの場合は、キッチンまで行くのに10分ほどかかったかと思えば、島の端から端まで移動するのにわずか2秒しかかからないこともある。わけがわからなかった。

 これには僕もハオランもお手上げだったが、ベラ自身の言葉がヒントとなって解明にこぎつけた。

「斜めに飛ぶか、横に飛ぶかの違い」。

 彼女にとっては感覚的なものである「飛行」という行為は、どうやら僕たちが考えていたよりもずっとスケールの大きなものだったらしい。

 結論から言うと、彼女にとっての「飛行」は「3次元空間内での移動」などではなく、「11次元空間内での移動」であった。

 理論物理は専門外のため、理屈を詳しく記述するよりも、理解しやすい事実だけを述べるに留めよう。

 簡単に言うと、彼女は過去や未来にも飛べる。


20XX.8.7

 そもそも彼女には、時間という概念がなかった。

 彼女と初めて会ったときの会話で、「いつからここにいるの?」と尋ねたら、「いつって何?」と聞かれたのだ。その時は適当に説明してすぐに彼女も理解してくれたからか、今の今まで見逃していた。

 彼女には時間の概念がなかった。

 というより、時間を気にすることがなかった。

 当然である。

 過去から未来に歩き続けることしかできない僕たちと違って、彼女は過去にも未来にも、好きに飛ぶことができるのだから。

 彼女が気まぐれに時間軸を移動しながら飛べば、キッチンまで10分かけることも、島の端まで2秒で飛ぶことも、容易いことだった。


20XX.8.8

 彼女自身に試してもらうことで、僕たちは確信を得た。

「その場から10秒後の未来」に飛んでもらったのだ。

 合図と共に姿を消してから10秒後、彼女はもう一度、同じ場所に出現した。

 間違いなかった。彼女の飛行は4次元だ。

 それから彼女自身に聞き込みをすることで、彼女が移動できる軸は、前後、左右、高さと深さ、時間の他に、7種類あることがわかった。

 彼女には初めから11種類の軸が認識できており、その軸上で動くことが彼女にとっての「飛ぶ」という行為だったのだ。これはホーキングの11次元宇宙論と一致する。彼女の飛行は時間どころか、もっと高次元の行為だったのだ。

 時間にも距離にも支配されない彼女にとっては、キッチンにコーラを取りに行くぐらいの気軽さで、宇宙の端から端まで飛べるというわけ。


20XX.8.9

 ベラ。

 彼女の存在は物理学の歴史を200年は進めるだろう。

 彼女の飛行原理を解明し、応用することができれば、人類は時間にも距離にも縛られることなく、遠い宇宙の果てにある地球に似た環境の惑星まで、一瞬で移動できるようになるかもしれない。

 そしてもっとも驚くべきことは、その途方も無い未来の物理学の結晶としか思えない11次元飛行が、ただの生物によって行われていることだ。

 人間の理解を超えたところに生きる存在という意味では、彼女は本当に天使なのかもしれない。


20XX.8.10

 ベラが11次元を認識できているのは、どうやら脳とは別の器官によるものらしい。

 例えば人間は、2つの目に映る景色が微妙にズレていることから、目の前のものを「立体」、つまり3次元のものと認識している。片目をつぶって見ると立体感がなくなるのはそういうことだ。つまり人間は目で3次元を感知している。

 同じように、ベラの体内には脳とは別に、11次元を感知できる器官があるようなのだ。

 彼女の体内は人間とほとんど同じだが、精密スキャンの結果、仙骨の辺り、子宮の近くに、人間には存在しない器官があることがわかった。いくつかのテストを経て、ベラが飛行する際にはこの器官への血流が増加し、活性化することがわかっている。

 仮にこの器官を「11次元感覚器」と呼ぶことにする。


20XX.8.12

 更なるスキャンの結果、ベラの11次元感覚器は子宮に癒着していることがわかった。癒着というか、子宮そのものがそうなのかもしれない。

 もし仮にベラのような生命体に他の個体がいるとして、男性ベースのものはいるのだろうか。子宮がない場合はどうなるのか、生物学者の端くれとしては気になるものだ。


20XX.9.1

 あまり嬉しくないことが起きた。ハオランがDシリーズの性能テストとして僕のゲノム解析を行ったところ、先天的な疾患が見つかったのだ。

 現在の医学では、この疾患の治療法はない。

 遺伝子を後から変える技術が僕にない以上、これは近い将来、死が約束されていることを意味する。

 このことはベラには言っていない。


20XX.9.5

 計算上、僕の寿命は残り10年らしい。今25歳だから、35歳で死ぬことになる。

 今はまだ症状は出ていないが、時間の問題だろう。

 ハオランがDシリーズに医療分野の知識の自己学習アルゴリズムを組み込んだらしい。彼なりのアプローチで僕を救おうとしてくれているのだ。彼の研究の最初の成果が、僕の残り寿命の算出だった。

 10年。

 何ができるだろうか。


20XX.10.7

 ベラに病気のことがバレた。


20XX.10.9

 ベラが話を聞いてくれない。研究にも非協力的になった。

 あと10年で、やりたいだけ研究させてくれたらいいのに、彼女は言うことを聞いてくれない。

 

20XX.10.13

 最近僕のいないところで、ハオランとベラが話しているのに気づいた。

 僕が死ぬとわかった途端に、他の男と仲良くするのか。

 僕はこんなにベラのことだけを考えているのに。

 ベラがデータを取らせてくれないから、研究も滞っている。


20XX.10.15

 酒を飲むようになった。ベラは相変わらずハオランとコソコソ話している。そんなにハオランが好きならふたりで出て行ってくれ。それか、いっそ僕が出て行こうか。

 馬鹿馬鹿しい。


20XX.10.21

 ハオランとベラから、「話がある」と呼び出された。「ハネムーンの有給申請か?」とからかったら、激怒された。

 ベラは未来に飛ぶつもりらしい。

 僕の治療法を探しに。

 ハオランとAIの計算では、今の医療技術の進歩スピードでは、僕の治療法があと10年で見つかる可能性は低いそうだ。

 そこでベラが、未来に飛ぶ。

 未来の治療法をここに持ち帰って、僕を治す。

 そういう計画らしい。

 僕はふたりに謝った。ふたりはずっと、僕のことを考えてくれていたのだ。


20XX.10.25

 ベラの話によると、年単位の時間飛行はあまり経験がないらしく、「飛ぶための目印が欲しい」と言ってきた。

 そうは言っても、未来のことは僕らにもわからない。

 未来に確実にあるような目印とは、何だろうか?

 目下僕たちの課題はこれだった。


20XX.10.27

 未来まで確実に残る目印について、ずっと考えている。

 例えば建物。

 風化や天災で壊れる可能性があるからダメだ。

 例えば自然物。

 大きな山。これも地震や火山噴火で動いたり無くなったりする可能性はゼロではない。却下。


20XX.10.29

 今さらだが、仮にベラが治療法の確立した未来に行けたとして、どうやってそれを持って帰るつもりなのだろうか?

 これまでの実験で、ベラに何か物体を持たせた場合、時間飛行はできないことがわかっている。

 例えば治療法を何らかの記録媒体にデータの形でコピーして、それを持って帰る、というやり方はできないわけだ。

 このことを彼女に言うと、彼女は「覚える」と言った。

 無茶苦茶だ。

 なにひとつ医療の知識がない彼女が、いきなり未来の進んだ治療法を理解し、覚えてくるだなんて。

 しかし彼女はこう続けた。

「あと10年も勉強できる。絶対わかるようになる」

 この日から、腹を括った僕とハオランの授業が始まった。


20XX.11.6

 ベラに人類の知識を教え始めて1週間が経った。彼女は言葉通り、驚異的な学習スピードですべてを吸収していった。

 中でも数学と物理に関しては、文字通り天才としか言いようがないほどの才能を見せた。これに関しては、もともと彼女が11次元上での自分の座標を認識できていたことが大きい。普通の人間なら、11種類の数字を頭の中に常に認識しながら生活するなんてことは不可能だ。これは彼女の演算能力がちょっとしたコンピュータ並だと言うこと。


20XX.11.13

 ベラは一日中勉強している。今は医療系の大学で使うようなテキストを片っ端から読んでいるところだ。

 僕の疾患が遺伝的なものということは、治療には遺伝子工学の知識が必須になるだろう。その辺は僕の専門分野なので、ベラが追いついてくれるのが楽しみだ。


20XX.11.20

 ベラがついに遺伝子工学の勉強を始めた。

 驚異的な学習スピードとはいえ、彼女はまだまだ勉強中だ。未知の疾患を治療するほどの知識はないし、そもそも未来へ飛ぶための目印も、まだ何も思いついていない。

 こんな状況だというのに、僕は、またベラとたくさん話ができるのが嬉しかった。


20XX.12.14

 南国のこの島にも冬が来た。冬と言っても、半袖で過ごせる他の季節と比べて、上着が一枚増える程度の過ごしやすいものだ。

 ベラの知識は、その辺の医大生では敵わないくらいの水準に達した。高度な医療・生物学の知識を問うテストを自動生成するプログラムをハオランが組んでくれたことで、ベラの知識はさらに実践的なものへと変わりつつある。


20XX.12.29

 急に寒くなったからか、ここしばらく喉の調子が悪い。頭がぼんやりする時があるし、体もだるい。風邪でもひいたのだろうか。

 あと9年と少しの寿命を生き抜くために、なるべく健康でいようと思った。運動でも始めようか。


20XX.1.5

 年末からひいた風邪が治らない。熱を測ってみても大した数値ではなく、今ひとつはっきりしない体調が続いている。

 ベラとハオランには心配されているが、このくらいで休んではいられない。二人がこんなに僕のために頑張ってくれているのだから。


20XX.2.1

 気がついたら2月になっていた。言葉通りの意味だ。

 ハオランの話だと、僕は1月半ば、研究所で倒れたらしい。

 過労からくる風邪だと思っていたが、Dシリーズとベラの診断によると、持病の初期症状が出始めたらしく、それで倒れたみたいだ。

 アップデートされたDシリーズとベラが再計算したところ、僕の寿命は残り3年まで減っていた。思ったより状況はひどいみたいだ。

 一番ひどいのは、ベラが勝手に未来に行ったこと。


20XX.2.7

 僕が倒れて寝ている間に、ベラは未来へと行ってしまった。

 もうあまり猶予のない僕の時間と、自分の現状の知識・知能のレベルを考慮して、行くことにしたのだそうだ。

 ハオランとは口論になった。

 どうしてベラを止めてくれなかったのか。

 ベラが100年も200年も先の未来にまで飛ぶのに必要な目印は、まだ何も思いついていない。ただでさえ人の理解の範疇を超えた、時間移動なんてことをさせるのだ。

 彼女が無事に未来にたどり着ける保証がどこにある?

 

20XX.3.4

 ベラが帰ってこない。

 この1ヶ月はあっという間だった。

 ベラと過ごした日々が、何度も頭の中に現れては、消えて行った。


20XX.3.7

 一度倒れてからというもの、僕はずっと目印について考えていた。

 すでにここにいないベラが、一目見れば、「ここは未来の地球だ」とわかるような目印。

 思いついたのだ。ついに。

 ベラとの記憶を思い出す中で、ふと頭に浮かんだ。

 それは遺伝子によるタンパク質の再生成に関する講義をベラにした時の記憶だった。

 「今からずっと先の未来まで壊れない目印」という発想を、やめた。

 壊れても、また同じ目印ができればいいのではないだろうか?

 もしかしたらまだ、熱に浮かされているのかもしれない。

 でも、こうすれば、この先も、

 ずっと、


20XX.3.31

 実験は成功した。

 これでずっと、ベラを待っていられる。


「……ここで終わりみたいだね」

 研究室のモニターに表示された文章を最後までスクロールすると、僕は隣にいるベラに向けて言った。

 彼女は大きく目を見開いて、画面を食い入るように見つめていた。

「……ベラ? 大丈夫?」

「……あ、う、……へ、平気」

 しばらく黙った後、ベラはそのままの表情で声を発した。

 この日記に書かれていたことは、あまりに突拍子もない内容だ。

 しかしどこか、真実味を帯びている。

 それはベラの表情をみればわかる。

 ベラはゆっくりと目を伏せた。

「……ベラ。ここに書かれてたベラって」

「……うん。わたし」

 彼女は小さな声で呟いた。

「……全部思い出した」

「……そっか」

 トト・メリーニ。

 約千年前、人類が他の惑星に移住する技術の核となった、惑星間航行技術を開発した男。

 地球人なら子供でも知っているその男の顔が、見知ったベラと並んで笑顔で写った写真が、日記の最後には表示されていた。

「……ベラ」

「待って。タツヨシ、もうひとつファイルがある」

 ベラは画面の『β』と書かれた動画ファイルを指さした。

「まずはこれを観せて」

「わかった」

 僕はもうひとつのファイルを開いた。

 画面に動画が流れ始める。

「--あー、あー、音声大丈夫かな? ニーハオ! ベラ観てる? ハオランだよ」

 画面に映ったのは、黒髪に眼鏡の男性だった。

「……嘘だろ」

「そのセリフ2回目」

 そりゃあ驚くだろう。

 画面に映っていたのは、僕だった。

「あー、ゴホン。最初に説明すると、この動画は僕が勝手にトトの日記フォルダに忍び込ませたものだ。あいつは大好きなベラの顔をパスに設定してたみたいだけど、この時代からいなくなったベラをパスに使うってのは悪くないアイデアだったね。写真なんかを全部処分すれば、ベラ本人がまた現れない限り、この顔認証ロックは解けないってわけだ。あいつもなかなか考えるじゃないか。でもまあ、相手が悪かった! あいつの考えることなんてお見通しだし、ベラちゃんのファンはあいつだけじゃないってこと。そんなわけで、僕はうまいことハッキングして、研究室で撮ったこの動画をここに忍び込ませてる。ていうかベラ、ちゃんと観てくれてる? これ観てるのベラで合ってる?」

「うるさいタツヨシね」

「いや、これは僕じゃないってば」

 早口でまくしたてる僕にそっくりの顔をした男、ハオランを観て、ベラと僕はそんな会話をした。

 顔は同じだ。しかし下半身は、人間の足だった。ケンタウロスの僕とはもちろん異なる人物だ。心当たりもない。

 驚くことが続きすぎて、感覚が麻痺してきている気がする。

「さて本題だ。この動画を見ているってことは、ベラ、君は未来に飛ぶ前に僕と計画したことを、なんとか実行することができたってことなんだろう。まずはこの研究所を目印に十年以上先に飛ぶ。もしそこに3年で死ぬはずのトトが居たら、嬉しくないことに僕の予想が的中したってことだから、そこから先はトトを目印にさらに未来に飛べばいい。どういうことかは見ての通りだ」

 彼は後ろにカメラを向けると、そこには黄色い液体に満たされた透明なガラスケースの中に横たわる、トトの姿があった。

 全身にチューブが繋がれ、マスクの横からは周期的に泡が吹き出していることから、呼吸はできているようだ。

「クローンだよ」

 再びハオランがカメラに写って言った。

「トトならそのくらいのことはやると思ったけど、まさかベラが飛んでから1年で、自分のクローン作るとこまで行くとは思わなかった。あ、ちなみに今この動画を撮っているのは、ベラが飛んでから9年後だよ。あれから色々あったけど、ベラならもう何代目かのトトに聞いてるかな? 一応説明しとくね。まず、トトは死んだ」

 彼は平然とそう言ってのけた。

「僕の作ったDシリーズと、君の計算は間違ってなかった。あれからちょうど3年で、彼は死んだよ。とてもつらい出来事だった」

 彼は落ち着いた態度だったが、先ほどまでの明るい声がややこわばったものに変わった。

「君にこれを伝えるのも本当につらい。もう知ってるかもしれないけど、でも伝えなくちゃいけない。もっとつらいことになるのを止めるためにだ。それができるのはベラ、君だけなんだ」

 彼の声に力がこもる。

「……順に説明しよう。トトは死んだ。で、今は記憶を引き継いだトトのクローンが生きて、研究を続けてる。君の残したデータを使って、相変わらず君のことばかり研究してるよ、あいつは。まあ女の子の体ばっかり研究してるのは正直ちょっと気持ち悪いけどね。おっと失礼、本人に見せる動画だっけこれ」

「本当に失礼」

 ベラが無表情で言った。

「……あの頃から全然変わってない」

 ベラが小さくそう言ったのが聞こえた。


「あれからトトは、君のデータをもとに、君と似たような存在を作れないかと試行錯誤し始めた。

 もしかしたら君が帰って来ないと思ったのかもしれない。わからないけど。

 真意はともかく、実験は成功して、人間と動物のハーフみたいなのが何体か生まれた。

 一番最初に上手くいったのは鳥と人間のハーフだけど、これはベラのもとになった鳥が未知の種だったから、あまり整合率の高くない白鳥や白サギなんかを使って似せて作ったみたいで、出来がいいとは言えなかった。見た目は白い羽だけど、飛べなかったんだ。

 次に彼が作ったのは、魚と人間のハーフ。人魚だね。

 ベラの遺伝子にはわずかに魚に似た部分があったから、人間と魚を混ぜるのは、彼の想像してた以上に上手くいったみたい。

 で、最後が馬と人間のハーフ、ケンタウロスだ。これは人間とそれ以外の動物の遺伝子の混ぜ方に習熟した彼が試しに作った、哺乳類同士の組み合わせってわけ。

 天使、人魚、ケンタウロス。この3体を、彼はまとめて『神話モデル』と呼んでいたよ。何気にそういうの好きなんだよな、あいつ。

 そんなわけで、彼は自分のクローンを作り続ける費用を捻出するために、これら3種を物好きな金持ちに売り始めた。特に天使だ。何が気に入らなかったんだか知らないけど、見た目をベラに寄せて作ったくせに、彼はベラ以外の天使にとても冷酷なんだ。彼はいろんな鳥をベースに天使ばかりつくっては、どんどん売り払っていった。おそらくもっと先の未来だと、すっかりペット用に普及してるんじゃないかな。

 で、この3種のうち、人魚には特別な能力が備わっていることが数年前にわかった。

 メスの個体にだけ、部分的に11次元感覚器が発現したんだ。

 機能的にはオリジナルのベラに全く及ばないけど、重要な能力が発現した。11次元座標軸を飛行できるわけじゃないけど、感知だけはできたんだ。

 つまり、11次元上で飛ぶベラを、人魚は感知できる。

 彼はこの人魚を使ってベラを探した。その過程で、アイスランドのヨークルスアゥルロゥン湖? みたいな名前の湖に、11次元移動の反応があるって言って飛んで行ったら、凍った湖の底から新種の鳥を発見した。

 死んでからほとんど時間の経ってない状態で、氷漬けになって湖の底から出てきたその鳥を見て、トトはすぐにわかったみたいだよ。この鳥がベラの祖先だって。

 解剖してすぐにわかったのは、この鳥にも11次元感覚器があったこと。トトの予想では、この鳥は知能は高くない。どういうタイミングかわからないけど、突然生物史に発生したこの鳥は、適当にいろんな時代のいろんな所に散り散りになって飛んで行って、そのうち一匹がたまたま湖の底に出てしまった。この時代の氷の中にね。で、そのまま死んだところを、トトが見つけた。人魚を使って。

 トトはこの鳥を始祖鳥をもじって『真祖鳥』って呼んでたよ。

 その後彼は、うまいこと見つけたこの鳥の11次元感覚器を生で研究することで、君の移動原理を部分的に解明することに成功した。

 未来のどこかで聞いたかな? 彼はベラのことは黙ったまま、真祖鳥の発見とその飛行原理を応用した惑星間航行技術の発表で、あっという間に億万長者になった。

 彼はその技術を政府に売ったから、宇宙船の開発なんかに今後は応用されるみたいだけど、興味ないみたいだね。

 だからもうやることがなくなって、自分でベラをつくり、人魚を使ってベラを探し続けている。

 これが彼のここ9年間のおさらいね。死にかけの人間のやることはめちゃくちゃだよ、本当に。

 で、結局彼のプランは、自分のクローンを作り続けることで、君を待ち続けるというものなんだ。

 そして自分自身を、君の時間飛行の目印にしてもらおうとした。

 バイオテクノロジーが専門の彼らしいやり方だよ。よっぽど君が好きだったんだろう。ま、知ってたけど。

 ところが、倫理的な問題はさておき、技術的な問題が一つ発生したんだ。

 クローンの記憶の継承は、不完全だったんだ。

 これはアルゴリズムをみればわかることだから、僕も当然彼の願いを叶えたくて手伝ったけど、どう頑張ってもダメだった。

 DNAの分裂回数には限界があることは、ベラも知ってるよね。

 彼のDNAはクローンを作るたびに、ほんの少しずつ傷ついている。これが記憶の継承に重大な影響を及ぼしている。

 しかもまずいことに、クローンを作るスパンが短すぎるんだ。

 3年で死ぬんだよ、彼。必ず、毎回、きっかり3年だ。

 残り寿命3年の自分のクローンなんか作るからこうなるんだよ! まったく。

 僕はすでに3人、友を失っている。

 今後ろで眠っている彼も、また3年後には死ぬ。

 これがこの先何百年も続くだなんて狂ってるよ。

 一体僕はあと何人の友を失えばいい?

 生まれるたびに少しずつ記憶を失っていく友を、あと何回看取ればいい?

 このままじゃ僕まで狂ってしまいそうだ。こんなの間違ってる。僕と君が望んだ未来はこんなものじゃない。そうだろう?

 ベラ、お願いだから彼を止めてくれ。

 こんな思いをするのは、この世界の僕ひとりだけで十分だ。

 君が治療法を見つけて、元の時代に戻って、トトを治療する。そうすればきっと、この狂った未来は来ない。おそらく最初のトトが死んだ時点で、僕のいる世界の時間軸はこういう未来に向かうことが決まった。

 いいかい、3年だ。

 最初のトトが死ぬまでの3年の間に、なんとか戻って彼を治療してくれ。

 こうならない世界を作るために、僕にできる最後の抵抗として、このメッセージをベラに残す。

 僕の方でも、僕にできる形で、未来に目印を残したつもりだ。この動画と、あと冷凍ケンタウロスに仕込んだD−4.4をうまく使ってくれ。

 それじゃあベラ、お元気で!」


 「ツァイ・ジェン!」という中国語で「さよなら」を意味する挨拶を最後に、ハオランの動画は停止した。

 僕とベラは、しばらくの間、無言になった。

 お互い頭の中を整理しているところだろう。

 僕には初めて知ったことが多すぎて、正直混乱しているし、動揺している。

 これはベラにとって、とても大事な話ばかりだったはずだ。

 しかし僕が最後まで聞いて思ったのは、ベラには悪いけれど、僕自身のことだった。

「……ベラ。色々、驚くことばっかりだったけど」

「うん」

「ひとつだけ、どうしても、聞いてほしいことがあるんだ」

「なに? タツヨシ」

「やっとわかったんだ。僕の生まれた、いや、目が覚めた、冷凍庫みたいなところの上に書いてあった、文字の意味が」

 灰色のネームプレートのようなものに刻まれた、古いアジアの文字。

「……D-4.4だったんだ。『タツヨシ』じゃなくて。深読みしすぎたよ。日本語じゃなくて、中国語だったんだ。『龍-四.四』(タツヨシ)は、龍 浩然(ロン ハオラン)のつくった『Dragonシリーズ』の、ver4.4のことだったんだ」


 あまりに多くの衝撃的な事実に、僕は「一度頭を整理したい」と時間をもらうことにした。記憶を取り戻したベラも同感だったのか頷き、彼女は一旦研究所を後にした。

 その晩、僕は再びベラと会った。

 今度はアンナも一緒だ。彼女は獲ってきた魚を、こうしてよく僕に振る舞ってくれた。料理なんてしたことのない我流だそうだが、研究熱心な彼女の料理はとてもおいしかったし、僕はいつもこの時間を楽しみにしている。

「ふうん。そんなことになってたの」

 トト・メリーニの日記とロン・ハオランのメッセージの内容をアンナにも話すと、彼女はあっけらかんとして言った。

「ふうん、って。もっと驚かない? 普通」

「あんまり私には関係ない話だもの」

 焼いた魚をほおばりながら、アンナが言った。

 確かにそうかもしれないが。

「ま、ベラがどこかへ飛んでいく度になんとなく居場所がわかるのは、これで説明がついたから、そこだけは多少スッキリしたけれど。11次元感覚器とかいうのが私にあるってことでしょう?」

「そうね。アンナにはおそらくそれがある。試してみる?」

「え?」

 次の瞬間、ベラは僕たちの目の前から消えた。

「ベラ!?」

「こっち」

 突然のことに焦る僕たちだったが、すぐ後ろでベラの声がして慌てて振り返ると、そこにはベラがいた。

「何したの?」

「少し未来に飛んでみた。1秒後くらいに。アンナ、何か感じた?」

「ええ、少し。ふうん、この感じがそうだったわけね」

「ベラ! 本当に未来に飛べるんだね!」

 実際に目の当たりにするまではどこか信じられなかった話に、純然たる証拠を突きつけられてしまった僕は、やや興奮していた。

「まあ。一時的に記憶を失っても、無意識にこの島に戻るよう飛んでたし。飛び方は体が覚えてたから」

 そういうことか。ベラがパニックを起こしてどこかに飛んで行っても、体は無意識にこの島に戻るよう飛んでいた、ということなのだろう。

「でも、どうしてこの島なの?」

「ジョエルがいるから。わたしはトトのクローンを目印にして、いろんな次元を飛んでる。どの時代に飛ぶときも、そうすることでトトの近くに出現することができた」

「待ってくれ、ジョエルが?」

「そう。ジョエルもトトのクローン。ハオランから事前に聞いていた通りなら」

「……そうか。やっぱりそうだったんだね」

「気づいてた?」

「うん。可能性は高いと思ってた。僕の推測を先に話しても?」

「どうぞ」

 僕はベラと別れてから色々と考えていたことの一つを話した。

 ケンタウロスの冷凍実験の個体として選ばれた僕は、同様に冷凍睡眠実験の個体として選ばれた人間と、同時に目覚めている。

 それがジョエルだ。

 冷凍睡眠から同時に目覚めた僕とジョエルは、お互いに自分のベッドの上についていたネームプレートらしきものをもじって、自分の名前にした。

 僕は「龍-四.四」をもじって「タツヨシ」に。

 彼は「被験体J」をもじって、Jから始まる「ジョエル」に。

 ジョエルはトト・メリーニと顔がそっくりだ。しかし、トトのクローンの存在を知ってしまった僕には、もう可能性はひとつにしか思えなかった。

 彼は冷凍実験用に作られた、トトのクローンのうちの一体だったのだろう。

「目的はおそらく、延命技術の探求だ。クローンをいくらつくっても全部3年で死んじゃうなら、冷凍睡眠で3年以上生きることはできないか、という思いつきみたいなものだろう。違う?」

「正解。ジョエルはある時代でトトが試みた、冷凍睡眠実験の被験体。彼がいるから、この時代は他のどの時代とも違う、特別な状況にある」

「どういうこと?」

「この時代には、わたしが逃げてきたすっかり記憶を失ったトトと、ジョエルの、二人のトトがいる。わたしが記憶を失ったのがこの時代で本当によかった。トトから離れて自殺しようと飛んだとき、ジョエルが居たから無意識にこの島に来ることができた。トトの居る座標に飛ぶことを体が覚えてたから」

 ベラは僕の方を見ると、少し悩んでいるようなそぶりを見せた。

「わたし、二人のおかげでやるべきことを思い出せた。トトを救わなくちゃ」

「そうだね。協力するよ。何か僕たちにできることはあるかな?」

「それが……なんて言ったらいいか。本当に……最悪な選択をしないといけないの」

「え?」

「ベラ、いいのよ。もうわかったから」

「……アンナ。わたしは、せっかく友達になれたのに、友達にひどいことを言おうとしてる」

「ひどいなんてことない。なんとなくそうなるってわかってたみたいな、そんな気持ちよ。不思議と落ち着いてて、受け入れてる自分がいる」

「ん? アンナ、ベラ、何の話をしてるの?」

「タツヨシ、ベラが言いたいのはね」

「いい、アンナ。わたしが言う。わたしが言わなくちゃ」

 ベラはひとつ大きく深呼吸すると、僕たちにそれを告げた。

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