第二話 車椅子の高級娼婦

 ベッドと大きな水槽。

 薄暗いこの部屋で、私は今日も、男を待っていた。

 部屋のスピーカーからは、低音の効いたシックなジャズが静かに流れている。私はベッドに寝転んだまま、一匹も魚のいない水槽をぼうっと眺めていた。

 客を待つ間はやることがない。

 他の娘は休憩室でおしゃべりに勤しんでいるらしいが、私はそういうものとは無縁だった。

「おい。客だ」

 部屋のスピーカーから、不意にボーイの声がした。

「お得意様だ。五分で支度しろ」

「はあい」

 ベッド脇の壁は、一面が鏡になっていた。私は上半身を起こすと、手ぐしで髪を整え、軽く化粧をチェックする。

 我ながら美しい顔だ。波打つ淡い色の髪、大きく物憂げな瞳、すっと通った鼻筋。南国の沈みかけた島の砂浜のように白い肌には、小ぶりな唇が、切り開いた赤貝のように艶めいていた。鏡に向かってほんの少し笑って、笑顔がうまくできることを確かめると、声を出した。

「どうぞ」

 合図をすると、扉が開いた。扉の前に立つ男と、鏡ごしに目が合う。

「こんばんは」

「こんばんは。また来ちゃったよ」

 男は軽い声の調子で挨拶したが、目だけが笑っていなかった。ぎらぎらと光を放つ、欲望をたぎらせた、男の目。際限なく快楽を求める男の視線を、私は微笑みを浮かべて受け止める。

「嬉しい。待ってたよ。次はいつ来てくれるのかしら、って」

 男が後ろ手に扉を閉め、近づいて来た。

 視線が背中を撫でる。

 後ろから抱きついて来た男の手の甲を、そっと指先でなぞると、男が首筋に顔を埋めた。

「ずっとこうしたかった」

「……最近ね、眠るときこうされないと、少しさみしい」

「俺もさ」

 襟元に男の手がかかる。ゆっくりと衣服がはだけられ、露出した肩に、男の唇が触れた。


 客の相手は嫌いではない。

 ほんのあれっぽっちのものを出すために、高い金を払い、あんなにも必死になって。

 焦らして、焦らして、ほんの少しいじってやれば、欲望を隠し切れない媚びた目で、甘えるように私を見る。

 私の上で一生懸命に腰を振る男の顔は、可愛らしく、滑稽で、醜かった。

「次はいつ来てくださるの」

 水槽に下半身を浸け、ふちにかけた腕に顎を乗せて、私は尋ねた。

「……そうだな」

 ベッドに腰掛けてタバコを吸う彼は煙を吐き出すと、少し間を空けて言った。

「たまには外で会わないか」

「外?」

 私は驚いて返事をした。

「私がここを出られないの、知ってるでしょう。どうやって?」

「金だよ」

 男が言った。

「君をここから連れ出せる金額が、やっと貯まったんだ。オーナーと話もつけたよ」

 突然のことに、言葉が出なかった。

「うちに来てくれ。君がもっと広いところで泳ぐ姿を見たい」

 オーナーは私を売ったのだろう。金を提示されたのなら仕方がない。

 この店の商品として飼われていた私に、拒否権はなかった。

 なんのことはない。相変わらず私に人権などないのだから、肩書きが娼婦から、ペットに変わるだけのこと。

 愛玩動物に人権はない。人ではないからだ。

 ゆえに売春にも、法律がない。

「ここにあるのよりも、ずっと大きな水槽があるんだ」

 人魚とのセックスは、ただの獣姦なのだから。


 男の家には、本当に大きな水槽があった。

 海底を模した岩や水草、観賞用の小さな魚たちのいるその水槽は、試験管育ちで本物の海を知らない私にとって、多少は楽しめる造りだった。

 男が仕事に出ている間、私は水槽の中をひたすら漂う。

 泳ぎ回るのはいい退屈しのぎだった。元いた娼館であてがわれていた水槽は浴槽サイズのもので、泳ぐなんてことは到底できなかったから。セックス以外で運動したことのなかった私にとって、この広い水槽で泳ぐのは、悪くない快感だった。私の中の魚の部分が、喜んでいるのを感じた。

 男の家は二階建てだったが、一階から天井までが吹き抜けになっていた。私を愛でるために用意された大きな水槽は、一階の中央に置かれ、階段を上がった中二階のところにちょうど水面があった。

 男が仕事から帰ると、私は水面まで浮かび上がり、男は階段を上って中二階に上がる。水槽の上に飛び出した小さな桟橋のような床に、男は素足になって腰掛け、足を水面にひたす。私は桟橋に上半身を寄りかからせながら、彼に寄り添うのだ。

「君とこうして一緒に居られて、とても幸せだよ」

「ええ。私も」

 愛おしそうに私を見る男に、私は笑顔で調子を合わせた。

 嘘を吐くのは素潜りよりも簡単だ。

 気さくで、彼を否定せず、どんなに小さな苦労も労い、惜しみなく功績を讃える、美しい女。貴方の能力を評価しているの、尊敬しているわと女に言われれば、男は簡単に自信をつける。いくつになっても、男は女に褒められるのが大好きだ。

 そうして自信をつけると、馬鹿馬鹿しいほど単純なことに、性欲が湧き上がる。私は彼の劣情を敏感に感じ取り、いつだって淫らに身体を開いた。彼のことは別に好きでも嫌いでもなかったが、私は彼の理想の女を演じてやった。

 生きる意味など、生まれたときから見出せなかった。

 他にすることもない、ただそれだけの理由で、私は彼の理想の恋人を演じていた。


 男にとって生きるとは、プライドを保つことなのだろう。人間の女に否定されたくないから、もしくは否定されたから、私のような半人を犯せる娼館にやってくる。そんな男はいくらでもいた。

 私を犯すことを通して、客は女を犯しているという体験を噛みしめる。金を払い、動けない私を好き放題犯したくせに、それによって自信を取り戻すのだ。俺はこの女より上なのだ、と。

 哀れな生きもの。

「君を愛しているよ」

 ベッドでの行為を終えて、私の乳房に触れながら言う男の頭を、私は胸元に引き寄せた。

「私も。いつだって貴方の帰りを待っているわ」

 男の頭を撫でてやると、彼は甘えるように顔を擦り付けた。

「すまない。せっかく待っていてくれるのに、明日からしばらく、家を空けないといけない用事ができたんだ」

「まあ。そうなの」

 珍しく彼がそんなことを言った。

「三日後に戻るよ。食事は用意しておくから」


 彼が家を空けて一日経ったころ、私は奇妙な違和感を水槽内に憶えた。

 私と一緒に入れられた観賞用の小魚たちが、減っている気がしたのだ。

 とはいえ魚たちは、私の飼われている短い期間にも、卵を産み、繁殖していた。最初は暇つぶしに数えてみたこともあったが、今となっては正確な数はわからない。


 二日目、明らかに魚の数が減った。

 あまりに暇だったので丸一日かけてよくよく観察してみると、ある岩陰に入った魚たちが、出てこないことに気づいた。

 ただの好奇心だった。私は尾びれで水を叩き、一気に水底まで潜ると、その岩陰を覗き込んだ。

 視界が赤色に染まった。

 なにかが顔に貼りついている。赤く、太く、異様に力強いなにか。

 思わず両腕でその太いものを掴むと、両腕にもまとわりついてきた。絡みつくそれは、強烈な吸引で私の腕を離さず、上半身にまで伸びてくる。

 顔を締め付ける触手の隙間から見えた、伝聞でしか知らないその生きものは、今日まで一度もこの水槽で姿を見なかった生きものだった。

 本物のタコを初めて見るのが、まさか襲われながらとは。

 ありえない大きさだった。一日中ここで過ごしている私なら、このサイズの生きものがいればさすがに気づく。

 ということは、大きくなったのか。

 最初から居た子ダコが、魚を食べて大きくなったのだろう。タコには体表の色を変えられるものもいるそうだから、小さいうちなら気づかなくても無理はない。

 などと考えているうちに、もがく私をタコはその触手で押さえ込んでいった。全身に伸ばされた触手は、今まで私を乱暴に犯してきたどの男の腕よりも力強く、私を抱きしめた。

 骨のきしむ音が聞こえた気がした。

 私は声にならない叫びを水中で泡と共に吹き出しながら、必死にもがいた。

 私の中の魚の部分が、自然に動いた。人間よりもずっと強い筋力を持つ人魚の下半身は、触手を振りほどき、私は視界が赤くふさがったまま、水槽の中をがむしゃらに泳いだ。

 頭に強い衝撃が走った。何かにぶつかったのだろう。急に水流が生まれ、抗えず私は流される。

 タコの貼りつく頭が、急に引っ張られた。いや、逆だ。タコが何かに引っかかったのだろう。私は流されていた勢いも利用して、尾びれでさらに加速をつけると、吸い付く力が負けたのか、不意にタコの触手が体から離れた。

 視界がクリアになる。

 水槽の壁に穴が空いているのが見えた。さっき頭をぶつけたのは、どうやら水槽の壁だったらしい。

 肺で息ができることに気づく。空気がある。

 そこまで思考が至って初めて、私は自分が、水槽を外から眺めていることに気づいた。

 底付近の壁に空いた穴からは、大量の水が部屋に流れ出していた。床はすでに水浸しだ。いびつな形に空いた穴には、タコが突き刺さって身体を激しくくねらせていた。砕けたガラスの壁に引っかかったのだろう。

 肩で息をしながら、私はしばし呆然とした。

 命の危機を感じて、私はとっさに、もがいた。

 生きるために。

 突然湧き上がった生への渇望に戸惑いながらも、私の目は水の流れを追っていた。

 部屋の隅に、水が流れ落ちていく場所がある。

 万が一水槽が破損してもいいように設置された大きな排水口だった。

 浅い水たまりと化した床をウミヘビのように這い泳ぎ、私は排水口に蓋をする柵に尾びれの先を差し込んだ。

 自分でも信じられないほどの力が湧いた。

 わずかに空いた隙間にすばやく尾びれをねじ込むと、凄まじい勢いで体が引きずりこまれる。下半身が柵に挟まれ、鱗が無理矢理ひきはがされた。痛みに思わず叫ぶが、構わずそのまま上半身をねじ込んだ。

 血と虹色の鱗を撒き散らしながら、私の体は暗い下水道へと飲まれていった。


 どうして私は、あのとき排水口に飛び込んだのだろう。

 全身ズタボロになりながら、汚物にまみれた狭い配管をくぐり抜け、私は広い下水道にたどり着いた。

 灯りも無く、ひどく悪臭に満ちたそこには、間違っても飲み込みたくないような汚水が、ちょっとした川のように流れていた。

 静かに、ひどく高揚していた。

 こんな気持ちはとうになくなっていたと思っていた。与えられた生活を甘んじて受け入れ、男に媚を売ることが生きることだと、思おうとしていた。

 得体の知れない衝動に身を任せ、私は下水の流れに従い、さらに加速するように尾びれを力強く動かし、泳いだ。

 人魚の本能が知っていた。

 この川は、やがて海へと流れつく。


 ここまでどうやって来たのか、ちゃんとは思い出せなかった。 

 見上げれば太陽がある。

 娼館の浴槽よりも、男の部屋の水槽よりも、ずっと広い、透き通った水の中。

 塩辛い海の水は、不思議とどこか、なつかしい味がした。


 それから何日も経って、大海原を気の済むまで泳いだ私は、小さな島を見つけた。

 見れば私の逃げて来た陸とは違い、まだまだ自然の残る、ほとんどが森に覆われた島だった。

 人間に合わせた食生活をしていた私は、さすがに生魚ばかりの食事に飽きて来たころだったので、あわよくば果物にでもありつけないだろうかと思った。

 でも、もしあの島に、人間がいたら。

 生きることに執着などなかったはずの私は、誰にも媚びを売らなくても生きていける海で、自分の力だけで生きる自由を味わってしまった。

 再び人間に捕らえられたら、今度こそ生きていられるかわからない。

「ペットの生死は、飼い主が決めるんだよ」

 物心ついたころから育った娼館で繰り返し言い聞かされてきたことは、未だ私の心に、人間への恐怖となって刷り込まれていた。

 しかし一度思いついてしまっては、その欲望を消すことはできなかった。

 あの水槽を出てから、自分に驚いてばかりだ。

 まさか自分に、こんなに食欲があったとは。

 仕方あるまい。私の中の高級娼婦だった部分が言っている。

 いい女は、甘いものに目がないのだ。

 水面すれすれを泳いで、私は島に近づいていった。

 水面からほんの少し顔を出し、目だけを島に向けると、白い砂浜が見えた。

 そして、人影も。

 私はなるべく慎重に、気づかれないよう、ゆっくりともう一度水中に潜った。

 先ほど見た人影を、再び脳裏に思い浮かべる。

 人間はてっきり、足が一本多いものだと思っていたのだが。

 見たことのない形をした人間だった。

 足が四本ある人間もいるのだろうか。


 水中で先ほど見た光景について思案していると、頭上を黒い影が通り過ぎたのが見えた。

 とっさに尾びれを翻したときには、もうすでに遅かった。

 網だ。

 わたしは黒い網に捕らわれ、水中をズルズルと引きずられた。必死にもがいて抵抗するも、力強く進む網によって水面が迫り、浜辺へと引きずり出される。

 そこにはさっき見た、四本足の彼がいた。

「え!? だ、誰ですか!? 大丈夫ですか!?」

 網にかかった私を見て、彼はひどく狼狽していた。

 人間の上半身は、チェックシャツを着た、細身の男性だった。黒いふちのメガネをかけ、黒髪は油に濡れていた。

 間近で見ると、彼が四本足の理由がよくわかった。

 下半身が馬なのだ。

 同類とわかった瞬間、一気に警戒心がゆるんでいくのを感じた。

「……はじめまして。アンナよ」

 私はもがくのやめ、名乗ってみることにした。

「え!? あっ、は、はじめまして! あ、えと、すみません、魚を捕ろうと思って、あのあなたを捕まえるつもりでは、えっと、すぐ、すぐに! すぐに網を外しますから!」

 彼はかわいそうなくらいうろたえていた。その様子にすっかり肩の力が抜けてしまった。思わず吹き出してしまう。

「ふふっ。いいのよ。あなたの名前は?」

「僕ですか!? た、タツヨシです! タツヨシといいます!」

 絡まる網を彼は外そうとしてくれたが、焦っているからか、やや苦戦しているようだった。というか、なぜか目線を手元にやらずに、明後日の方を見ながらやっているのだ。

「落ち着いて、タツヨシくん。手元を見ながらやった方がいいんじゃない?」

「いや、その、だって、あなた、服着てないじゃないですか」

「あっ」

 そうだった。

 下水を泳いだときの臭いがひどかったから、海で捨てたのだった。

 裸を見られるのは仕事柄慣れているが、人に会わないと忘れるものだな。

「ごめんなさい。はい、これでいいでしょう」

 私は手で胸元を隠すと、彼はおそるおそるこちらに目線をやった。

「ね、ほら。見ても平気だよ」

 散々男を相手にしてきた私には、彼が女慣れしていないことがなんとなくわかった。

 網を外してもらった私は、浜辺に腰掛けると、彼といろんな話をした。

 彼はこの近くにひとりで暮らしているらしい。食料の魚を網で捕ろうとしていたら、偶然私を捕まえてしまったんだとか。人魚を偶然捕まえるなんて、おとぎ話並に運がいいではないか。ケンタウロスに網で捕まえられる体験と、どっちがレアなのだろう。

 彼は私と同じように、人間の遺伝子に他の動物の情報を組み込み、人工的に生み出された生き物だった。ベースは見ての通り、馬。

 私みたいに女性と魚のハイブリットは、愛玩用として、裏では性ビジネスの商品として男性人気を獲得していたらしいが、ケンタウロスは何用だろう。マッチョ好きの女性に向けた、愛玩用だろうか。自分が娼婦だったせいか、そういう意図の愛玩用くらいしか需要を想像できない。

 そう思うと、彼もよく見れば、細身ながら上半身ががっちりとしていて、馬らしく筋肉質な身体をしていた。顔とファッションがオタクっぽいのが、上半身の筋肉、そして馬の下半身と比べて、アンバランスで強烈だった。

「この近くに研究所の跡があってね。今は廃墟なんだけど、無人になる前に僕が造られてたらしくて、気づいたら培養槽に一人っきり。だから他の半人を見たのは初めてです」

「ふうん。私もケンタウロスに会うのは初めてよ。下半身が馬の男の人って、なんだか神秘的ね。神話みたい」

「いやいや、人魚だっておとぎ話でしょ。神秘的だと思いますよ」

「まあ。ありがとう」

 驚いたな。人間以外と話すのがこんなに落ち着くとは。

 彼は照れくさそうに笑った。可愛らしい笑顔だった。うぶな反応だ。童貞だろうか。

 まあ下半身が馬では、たしかに相手にも困るだろう。

「アンナさんは、どうしてここに? もともと海に住んでたんですか?」

「私? 私は……」

 少し黙ってから、私は答えた。

「……最近この海に来たばかりなの。甘いものが食べたくなっちゃって。この島に果物はあるかしら」

「なんだ、そうだったんですか。じゃあ採ってきてあげますよ。ちょっと待ってて!」

 微妙に濁した私の返事を疑うこともなく、彼は驚くほど素直に反応した。立ち上がると、すぐに駆け出そうとする。

「待って!」

「何ですか?」

 彼を呼び止めた私は、少し迷った後、尋ねた。

「この島に、あなた以外に人間はいるの?」

「僕が人間かは微妙なとこだけど……いますよ。一人だけですけど。それがどうかしました?」

「その……できれば私、他の人間に見られたくないの。せっかくとって来てくれるのは嬉しいんだけど、できれば見つからないところで待たせてもらえないかしら」

「あっ、そうなんですね。うーんと、そうだな」

 彼は腕を組んで少し考えた。

「じゃあ、僕の家に来ますか? さっき言った研究所の跡に一人で住んでるから、人間はいませんよ」

「まあ。いきなり家に誘うだなんて、見かけによらず大胆なのね」

「えっ? それってどういう……」

「……なんでもないわ。せっかく誘っていただけてとっても嬉しんだけど、この足だから。ごめんね」

「あっ、そっか。そうですよね」

 彼は再び思案すると、何かを思いついたらしく、声を上げた。

「……あっ! いいこと思いついた! ちょっと待ってて!」

「え? 待ってよ、私どうしたらいいの?」

「すぐ戻るから! この浜の近くにいて! また呼ぶから!」

 そう言うと、彼は森の方へと走っていってしまった。さすが馬。足が速い。

 ひとり取り残された私は、仕方なく海の中へと戻った。

 彼は何を思いついたのだろう。振り回されているはずなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。金持ちの客のわがままを聞くのとは、全然違った。

 あんなに目をキラキラさせて、無邪気な子どものような笑顔を見せられては、さすがの私も逆らえない。


 彼はなかなか戻って来なかった。やがて日も暮れようという頃まで待ってようやく、彼は再び浜辺に現れた。

「すみません遅くなって! 持ってきました!」

 彼は何か大きなものを抱えていた。黒い車輪のついた、椅子のようなものだった。見たことがない。

「これはなあに?」

「車椅子です!」

「車椅子?」

「知らないんですか? とりあえずここにですね、よっと!」

「わあっ!」

 滅多に上げないような声が出てしまった。突然彼に抱きかかえられたのだ。

「ちょっと! いきなりなに……」

 私はその椅子に座らされると、彼は後ろに回った。

「こうして押すと、ほら! 動けるでしょ!」

 彼は椅子の背もたれについたハンドルを握って押しているらしく、私の腰掛けた車椅子は砂浜をゆったりと進んだ。

「……すごい」

「そう? ちょっと時間かかっちゃったけど、施設にもともとあったガラクタを組み合わせてつくったんだ!」

 彼は笑顔を見せると、得意気に語った。

「……すごい。本当にすごいわ」

「いやあ、照れるなあ! それでね、横の車輪についてる手すりがあるでしょ。これを握って動かせば一緒にタイヤも動くから! つまり腕の力だけで進めるんだ。やってみて!」

 彼のいう通りに、私は車輪についた手すりを握った。

 前に動かすと、車輪が動き、私を乗せた車椅子は前へと進んだ。

「……信じられないわ。嘘みたい」

「君にプレゼントするよ。これで一緒に僕の家まで行けるね」

 無邪気な子どものような口調になって、そう言う彼。

 彼は気づいていなかった。

 陸を移動できることに、私がどれだけ感動していたのかを。

「……本当にありがとう。素敵な体験だわ」

 今まで出会った男たちはみんな、私を逃さないように、小さな水槽か、ベッドに閉じ込めた。

 誰一人いなかったのだ。

 歩けるようにしてくれる人なんて。


 道の悪いところは彼に押してもらいながら、私は車椅子で彼の家へと向かった。腕力がなくて疲れたが、自力で陸を進めるのは本当に楽しかった。

 たまたま会った女に、散々待たせたと思ったら、とびきりのプレゼントをしてくれて。

 いるんだな。こんな男も。

 家に着くと、彼の言っていた通り、そこは何らかの研究施設の跡のようだった。よくわからない器具や装置がそこら中に転がっている。

「小さい頃から機械いじりが好きなんだ。ここにあるものは壊れた装置も多かったけど、ほとんど直したよ。その車椅子は余った部品を組み合わせてつくったんだけどね、急いでつくったから手動になっちゃったけど、次は電動で動くモデルに挑戦するつもり!」

「……素敵よ。本当に」

「そうでしょ! 手元のレバーを前に倒したら進む、後ろに倒したら戻る、なんてのがシンプルでわかりやすいと思うんだけど、どうかな?」

「とってもいいと思うわ」

 夢中になって自分の発明を語る彼は、すっかり砕けた口調になっていた。好きなものについて語ると止まらないらしかった。

 彼の笑顔がまぶしかった。

 いいな。

 好きなものがあって、こんなに夢中になって。

 彼の話す内容は機械のことが多く、正直私はそんなに興味を惹かれなかった。

 でも、夢中で聞いた。

 楽しそうに話す彼の顔を見るのが、好きだったから。

「……それでね、データベースにアクセスするのに部分的には成功したんだけど、どうしてもロックが解除できないところがあって。暗号を解くだけだったらなんとかハックできるかと思って頑張ったんだけど、どうもパスワードが文章じゃないみたいなんだよね。ヒントが少ないけど、多分大昔に流行った画像解析技術の流用で、画像認証で開くタイプじゃないかと思う。顔認証でこの施設の持ち主がロック解除してた可能性もあるっちゃあるし、その辺を今解析してるところ!」

「そうなの。じゃあこの施設の持ち主さんは、何か隠したいものでもあったのかしら」

「多分ね。研究成果が流出しないように、って程度だとは思うんだけど、でもここだけやけに厳重に隠されると、かえって燃えちゃうね。暗号が解けた瞬間っていうのは、たまらなくエキサイティングなんだ。アンナさんも一度やってみるといいよ」

「私は別に、その人が隠したいことがあるなら、わざわざ覗こうとは思わないけれど……でも、そうね。大昔の人が残した秘密の記録を読み解こうとしてるのは、ちょっとロマンチックね」

「そう! そうなんだ! ロマンがある!」

 興奮する彼の前で、私は少し黙った。やがて祈るように小さな声で言った。

「……鍵が解けたら、私にも見せてくれる?」

 彼はすぐさま「もちろんだよ!」と笑ってくれた。

「あ、でも、どうやって呼べばいいのかな。普段はあの辺りの海にいるの?」

「そうね。最近は。人間に見つかりたくないし、決まった場所に住んでいるわけじゃあないんだけど」

「そっか……あっ、じゃあこの近くの入り江なんてどう?」

「入り江?」

「うん。この家のすぐ近くなんだけど、森の中に、海と接してる小さい砂浜があるんだ。そこは人間の村とは正反対だし、島の外からも見えづらいちょっと入った場所だから、隠れるのにはちょうどいいかも」

 願っても無い提案だった。

 私は彼と、別れがたいと思ってしまっていたから。

「……いいの?」

「うん。あ、いや、この島僕のってわけじゃないし、僕がいいとか言えないんだけど、でも、僕は全然」

「……ありがとう。本当にうれしい」

 彼は照れくさそうに目線をそらした。


 その日は夜遅くまで、たくさん彼と話した。

 彼はあんなにメカニックに強いのに、魚を獲るのは下手らしい。

 網を遠くまで投げる機械でもつくればいいのに、そもそも魚のことがよくわからないのだそうだ。彼は泳げないらしい。

「そうだ。ねえ、網を貸してもらえないかしら」

「え? いいけど、何に使うの?」

「お礼をさせて欲しいの。私、泳ぎには自信があるのよ。魚をたくさん捕って持ってくるわ。食べてくださる?」

「ええ!? そんな、ありがたいけど、そんなお礼を言われるようなことなんて」

「してるわ、十分。素敵な時間のお礼よ。あなたと車椅子に」

 彼はひたすら遠慮していたが、やがて網を私に預けてくれた。

 知らなかった。

 誰かにしてあげたいことがあるのって、こんなにうれしいことだったんだな。

「……あの、タツヨシくん」

「何?」

 部屋の明かりで、ガラスの窓に私の顔が写っていた。

「た、タツヨシって呼んでも……いい?」

「え? いいけど」

「……やった」

 我ながら美しい顔だ。

 生まれて初めて、人に笑顔を向けた気がした。

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