シルクロード・ルナティック

Yukari Kousaka

 

 俺にロードスターを売った女は俺を狂ってるって言った。ルナティックだねって。

 そうかもしれない。こんなに一人の人間に固執するのはこの世界で俺一人だったかもしれない。生温かくて小綺麗な温室シティでは誰もが誰もかもを愛さなくてはならない。でもそんなことは不良品の俺にとって苦痛だった。俺は、俺だけに優しかったジュンジェしか愛せない。それを許さない世界が狂っていないなら、別に俺が狂っていたっていい。

 ありがとな、サーシ。そう言われたあの夜、俺は報われた、と思った。ドライヴにうってつけの夜だ。高速道路ハイウェイが生えたんだから間違いない。砂埃はもう舞っていなかった。それでも時折涼しいものが頬を撫ぜていくようにも感じられた。群青と橙のグラデーションの向こう側に、欠けた部分のない月が張りつけられたみたいに大きかった。シリウスが目の前で輝いていた。今まで貯めたお金全部を使って買った二十世紀モデルの復刻版ロードスターも、ジュンジェがいない隙に習った運転も、高速道路ハイウェイの調査もあの夜に全部報われたと思った。それから、温室シティのなかで耐えてきた十数年も。全部。

 この世界は端的に言ってクソだった。悪意に満ちてなかったら何なんだってくらい熱くて冷たい砂漠。痛いくらい強い風。温室シティに閉じ込められた俺たち。温室シティが作れるくらい技術は進歩してるってのに終わらない戦争。他人の心に小さな棘を刺して帰ることを厭わない隣人たち。でも、だからこそ、生きていなくてはと思った。生きて、俺がジュンジェを守らなければと思っていた。逃げ出さなくては、連れ出さなくてはと思っていた。この世界にジュンジェが蝕まれる前に。

 そんなときに出会ったのが女だった。女は運転席のある車を売っていた。「狂ってるでしょ」と女は左の八重歯を光らせて笑った。ロードスターの鍵を指でぶんぶんと振り回しながら。「いまどき運転席のある自動車なんて悪趣味だよね。事故を起こすかもしれないって言ってるようなもんなんだから。でも、それがいい」

 でしょ、と女はまた笑った。俺が強く頷くと今度は声を出して笑った。俺の背中を力強く叩きながら。良い。とても良い。生易しい温室シティのなかから外に向かって運転席でハンドルを握るなんて背徳的だ。この女もいい。絶対にこの温室シティを好きになんてなってやるものか、って、伝わってくる。

「運転は教えたげる。前世代のおじいちゃんから教わったから、バスでもピックアップ・トラックでも何でもござれだよ」

 女の運転は実際上手かった。人工知能よりもよっぽど滑らかに縦列駐車をやってのけた。俺は女に横に乗ってもらいながら、温室シティを駆け巡った。運転席に女か俺が乗っているのを見て、大人は目を剥いた。子どもは俺たちを羨ましがった。そうだ。そうあるべきだぜ、子どもたちよ。

「ねえ、なんでそんなに車にこだわるの」

 女はある日俺にそう訊いた。俺がパック入りのグレープフルーツ・ジュースを女に奢ってやって、休憩している時だった。俺は躊躇いながら、ジュンジェと世界のことを話した。グレープフルーツ・ジュースを音を立てて飲み切ってから、女は言った。狂ってる。ルナティックだね。

 ルナティック。その使い方が合っているのかは俺にも分からない。でも確かにそうかも、と俺は返した。怒りとかは無かった。ルナティック、繰り返した女の顔もまた真剣だった。冗談めかすでも、憐れむでもなかった。俺はその目を見つめ返した。長らく見ていない夕焼け空みたいな色の瞳だった。

「でも、それがいい。君の、そういうところ」

 ややあってから、ロードスターを薦めたあの時みたいに女は笑った。俺は驚いて女を見た。女はまだ笑っていた。それがいい?

「狂ってていいじゃん。狂っててね、ずっと」

 そして、その子を救ってあげて。

 この世界は端的に言ってクソだった。悪意に満ちてなかったら何なんだってくらい熱くて冷たい砂漠。痛いくらい強い風。温室シティに閉じ込められた俺たち。温室シティが作れるくらい技術は進歩してるってのに終わらない戦争。他人の心に小さな棘を刺して帰ることを厭わない隣人たち。

 でも、だからこそ、俺はジュンジェと生きてゆける。ずっと狂ったままで。

温室シティ温室シティはかつての国と国のように繋がっているんだよ。シルクロードはもう栄えていないけれど、その記憶まで失ってしまったわけじゃない」

 俺がジュンジェに言ったことだ。そして、ロードスターを売った女が俺に教えてくれたことだ。俺たちは分断されていない。俺と、ジュンジェと、それからあの女が、まだこの世界には存在している。その希望と、ジュンジェへの愛を抱き締めて俺は何度でもアクセルを踏む。このキラキラ輝く高速道路は、ジュンジェと走る高速道路は、俺の中で一番綺麗で、一番好きなものだから。

 シルクロード・ルナティック。ありがと、ユーラシア。

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