第220話
◇◇◇バックス商会支配人・フロスト◇◇◇
ロランという言葉は、元々は称号だったと聞く。
かつてこの土地を根城として海洋交易を切り開いた者たちの中で、わけても勇敢なる功績を残した一族への栄誉の証だったと。
それが年代を下るにつれ、勇気と知恵と富の証から、海の商都を導いていく者たちの代名詞となり、やがて都市の名となった。
バックス商会はその伝統を汲む家のひとつであり、昔も、そしておそらくはこれからも、ロランで最大の規模を誇り、ロランを率いていく商都の顔であり続けるだろう。
ただ、そのバックス商会を父親から引き継いだばかりのフロストは、黄金の椅子に座るどころか、難しい立場に立たされていたのだった。
なんなら引き継いだというのも正確ではない。
正しくは押し付けられたのであり、風向きを読むことにかけては伝説の船乗りにも勝ると言われる父親が、難局を前にさっさと引退を決め込んでしまったのだ。
本来バックス商会の代替わりとなれば、それは他の領土で言うところの領主の代替わりに匹敵する。
大々的に布告がなされ、花弁が道に撒かれ、かつて帝国と戦った際に命を落としたロランの古強者たちが眠る墓所に参り、港に停泊する最も巨大な船舶にて家督継承の儀式が行われる。
しかしフロストの代替わりは淡々としたもので、ロランを導く三家会議において、形ばかりの拍手を受けた程度。
その原因は、フロストにあるとも、ないとも言える。
いや、バックス家とともにロランの名を分け合うふたつの家の者たちは、明らかにフロストに責任があると思っている。
そしてそうなった元凶の片棒を担ぐ者が、フロストの目の前にいた。
「兄上、家督の相続、御祝着に」
この短い期間で背が伸びたわけでもなかろうに、末弟のコールには妙な迫力が備わっていた。
血がつながる兄弟でありながら、フロストはついこの間まで、この弟の顔すらろくに知らなかった。
コールはバックス家では末子であり、フロストと歳が離れていたこともあるが、珍しく魔法の才に恵まれたことが、次期当主たるフロストと疎遠になる大きな理由だった。
魔法の才はコールにとって祝福ではなく、呪いとなって人生に影を落としていたのだ。
ロランはかつて誇り高き商都であり、帝国勢力には与していなかった。
しかし拡張を続ける帝国が、ロランの属する半島に東から攻め込んだ。
ひとつ、またひとつと重要な都市を帝国が攻め落としていく中、ついに市壁を挟んでの戦いで降伏した、という経緯がある。
以来、属州のひとつとしてこの土地一帯の支配権を認められる一方、莫大な量の魔石を税として納めることとなった。
そういう経緯があるために、バックス家に魔法使いが生まれるというのは、帝国との関係に望まぬ影響を与える可能性が高かったのだ。
魔法使いの才があれば、通常は教会の正邪省か、帝国の魔法省で魔法を学んで高位貴族となるのが定番だが、その魔法使いというのは帝国権力を支える重要な柱である。
帝国の武器となり、目となり手足となり、帝国の支配を確固たるものとする。
そんな宮廷魔法使いは、かつて帝国に敗れたロランとしては、敵の手先にほかならない。
では凱旋したコールが、故郷への愛を忘れていなかったとしたらどうか。
今度はそうすると、帝国にとってコールは強大な力を持った潜在的な裏切り者となる。
今の帝国との関係に安住している多くの者たちにとっては、帝国から睨まれてもなにひとついいことなどないと思っているが、帝国から独立を勝ち取ろうという勇ましい妄想を楽しむ者たちもまた、少なくない。
だからどちらに転んでも、コールという存在はロランにとって望ましくないのだ。
それ故に、次期バックス家当主となるフロストは、忌み子のようなコールとはほとんど口を利いたこともないし、コールは歳の近い兄たちから散々にいじめられていたらしい。
友達といえば使用人としてあてがわれた獣人たちだけとも聞いたから、孤独な幼少期だったに違いない。
また父のほうも、魔法使いであるコールがロランのよからぬ勢力に利用されるのを防ぐため、幼少の頃から都市の外に出して交易に従事させていたようだ。
それがジレーヌ領であり、後から聞いた話では、そのジレーヌのお飾り領主にコールは恋をしていたらしい。
そんな諸々の運命の糸がいくつも重なり、縒り合さり、ひとつの布地を形作った。
そして今、コールはロランの人間ではなく、ジレーヌ領の人間としてフロストの前にいた。
しかもその判断ひとつで、かつて自身に辛酸を舐めさせた兄たちを、ロランの街ごと灰に変えられるほどの力を持った人物として。
「気遣い痛み入る」
差し出された贈り物は、伝統に従った黄金の鍵だった。
かつてのロランが帝国と市壁を挟んで戦った故事から、その市壁の鍵を託す、という意味が込められている。
バックス家の立場を危うくしているのがジレーヌ領であり、コールはそのジレーヌ領で大法官の地位にあることを考えると、皮肉な構図だった。
もちろん、コールに他意はなかろうし、フロストが今生きていることがそもそも、コールの恩情あってこそ。
ロランの船団を率いてジレーヌ領に攻め込んだあの時、年代記でしか読んだことのないような大魔法によって、海の藻屑と消えている可能性は十分にあった。
捕虜になった後だって、寛大な処遇はコールが極刑を望まなかったからだろう。
とはいえ、過去のことが完全に水に流されたわけではなかろうし、今や留まるところを知らない権勢を誇るジレーヌ領の大法官が、単なる祝いの言葉を伝えるためだけにロランにやってくるはずがない。
なんなら今は、ロランのほうがジレーヌの属領という勢いなのだ。
数多の行政官がジレーヌに赴いたまま戻ってこないし、目端の利く商人たちも同様で、最近は職人たちまで荷物をまとめて海を渡ってしまっている。
おかげでロランの半壊したままの宮殿は、資金と人手の都合がつかずに修理もままならない。
そんな状態を招いた元凶とも言えるバックス商会の主の座る椅子は、まさに針の筵といったところだ。
最近は、ロランの有力家系のあちこちから、バックス家の非難を耳にするようになった。
だからフロストは、相手を末の弟だと思わず、最重要領土からの使節として、対応した。
「して、領主イーリアから寄こされたこの手紙だが」
「兄上にとっても、悪くない提案ではないかと」
コールは淡々と告げる。
本心を隠しているとかそういう腹芸の感じすらなく、どこまでも事務的であった。
「奴隷交易を完全に停止させる、と?」
手紙の文面を見下ろすフロストは、最後に視線をコールに向ける。
末弟は、軽く肩をすくめた。
「我々の常識から逸脱していることは認めます。ですが、あの大宰相様が言いきりましたから、これは決定事項です」
つまり問題は、奴隷交易を止められるかどうかではない。
どう止めるか。
いや、問題は自分が考えるよりもっと手前にあるのかもしれない、とフロストは思った。
彼らが奴隷交易を止めると決断したのであれば、それは止まるしかない。
現状、ジレーヌ領を邪魔できる戦力など、帝国中央にしか存在しないのだから。
そしてロランから帝国中央は、あまりにも遠すぎる。
距離だけでなく、心理的にも。
帝国中央にこのことを密告するというのは、ロランの歴史的経緯からしても、あり得ない。
となるとフロストに残された選択肢は、ものすごく限られてくる。
そのうち最もましなものは、なにか。
ロランのバックス家は、どうやってジレーヌ領の役に立てばいい?
「イーリア様と大宰相殿は、ロランにはヴォーデンとの講和において代表を務めて欲しいと」
「講和? 降伏交渉ではなく?」
思わずフロストが聞き返すと、コールは優しく微笑んだ。
「彼らに征服するつもりはさらさらなく、新たな交易のためにいくつか条件を飲んで欲しいのだとか。そのための交渉と、あとは……体面のためだそうです」
誰の体面かをコールは明らかにしなかったが、体面などどうでもいいくらいの戦力を有しているジレーヌ以外の、すべてだろう。
「なぜ彼らが奴隷交易を止めるのか、なぜヴォーデンに飲ませたい要求があるのかは、イーリア様の手紙にもある通りです。ヴォーデン属州とジレーヌ領の間に位置するロランとして、うまみのない話ではないかと思います」
手紙にはよくわからない代物の交易の計画があるので、うまみとはそのことだろう。
しかし鳥の糞をどうして後生大事に船で運ぶのかわからないし、臭い煙を上げる石の炭など、わざわざ遠くから運んでこなくても良いだろうにと思う。
ふざけているのかと疑うその一方で、手紙の中にはアズリア属州とヴォーデン属州間の関税の引き下げや、港や船舶の法律の統一など、戦を交えなければまず変えられまいという重さの要求が混じっている。
ジレーヌ領は、明らかにフロストの理解できない理屈で動いている。
言い換えると、常識からすれば安全だと思ったその一歩が、破滅につながるかもしれない。
「確認、しても良いだろうか」
「もちろん」
末弟にそのつもりはないだろうが、フロストは自分がひどく格下になった気持ちで、言葉を選びながら質問を口にしたのだった。
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