第182話
***ヨシュ②***
はっ、と目を開けたヨシュは、久しぶりに悪夢を見ずに眠れた気がした。
ただそれは単に、悪夢が夢の中から現実に出てきただけかもしれないが。
「金貨……五千枚……」
商会の天井を見上げながらつぶやくと、すぐ近くで人の動く気配がした。
頼信だ。
「あ、大丈夫ですか?」
「ヨ、ヨリノブ様!」
ヨシュが慌てて跳ね起きると、帳場台の横に木箱を並べ、寝かされていたのだと気がつく。
それに額には濡れ布巾まで置かれていて、情けなさに恥ずかしくなる。
「あの、その――」
なにを言ったらいいかわからない。
せっかく商会を任せてくれたのに、期待に応えられず申し訳ないとか、この責は自分が受けるから孤児院の妹や弟たちは許して欲しいとか、喉の奥で大きな塊がいっぺんに詰まってしまった。
見る見るうちに涙が出てきて、なにかを言うどころではなくなってしまう。
するとどういうわけか、頼信が慌て出した。
「え? あ、ヨ、ヨシュさん⁉」
頼信はなぜか、この期に及んでも「さん」付けだった。
孤児の小僧など、言葉の分かる野良犬と大して変わらない。
ヨシュは一度そのことを遠回しに指摘したが、商会で先に働いていたのはヨシュさんだからと、頼信は特に気にも留めていないようだった。
まともに話を聞いてくれて、仕事を任せてくれて、色々なことを教えてくれた頼信を、ヨシュは新しい兄だと秘かに思っていた。
慌てる頼信から、先ほどの濡れ布巾で顔を拭われてしまう。
その間にも頼信は、町の男たちなら絶対に見せないような、おろおろした顔をしていた。
この島の中で、誰よりも賢く、誰よりも島のことを支配しているのに、自分のような小僧相手にそんな顔をしている頼信のことが、ヨシュにはまったく分からない。
わからないが、ヨシュはその頼信のことを心から慕っていて、だからこそ、泣いてしまうのだ。
「金貨……う、ぐっ……ご、五千……枚……」
言葉を吐きだそうとするが、しゃくりあげてしまって続かない。
けれど、金貨を用意出来ないのは自分の罪だ。
ヨシュは懸命に、言った。
「金庫……空っぽ、で……」
大罪の告白。
しかし。
「ああ、そのことですか」
そのことですか?
ヨシュは聞き間違いかと、頼信の顔を見る。
その頼信の顔は、高熱を出した時に見る夢のように、理屈の繋がらない表情を浮かべていた。
「ヨシュさんが寝てる間に帳簿を見ましたけど、きちんと利益が出てますよ」
「……え?」
「ただ……金貨の現物がないんですよね。そこだけ頭が痛いんですけど」
それは損をしているということだ。
なにかを買って、売って、その結果として、金庫に金貨がないのだから。
「商会の仕事を押し付けてしまい、すみませんでした。でも、ヨシュさんに任せてやはりよかったです。こんな膨大な取引、自分だったら絶対捌ききれず、大混乱に陥っているはずですから」
「……?」
ヨシュは呆気に取られて頼信を見返すが、頼信はなにか冗談を言っている感じではない。
いや、ヨシュの知る町の兄貴分たちの基準で言えば、頼信はいつもどこかふざけている感じがする。
領主イーリアを助けて島の実権を取り戻し、絶大な信頼を得る重鎮でありながら、誰にでも腰が低く、常に発言に留保が多くて、笑ってごまかしている。
この頼信は、たまに商会にやってきて残飯をもらう野良犬にさえ、敬語を使うのだ。
その頼信が、机の上から何枚かの紙を手に取って、唸っている。
「利益が出てるのは当たり前なんですが、金貨がないのが盲点でした。そういえば、ここの世界はおおむね金本位制だったなって、忘れてましたよ」
そう言って頼信は笑うが、ヨシュはぽかんとするばかり。
キンホンイセイ。
頼信が謎の言葉で聞き慣れない単語を呟くのを、ヨシュは何度も耳にしている。
鉱山に置かれた死体に、異世界の魂が宿って蘇ったのがこの頼信だという。
ただ、ヨシュは頼信の横顔に、急に胸が締め付けられる思いがした。
それは、ヨシュが何度か目にしてきたものだから。
頼信がこういう顔をしている時、そこにはヨシュの憧れる魔法がある。
「まあ、どうにかなりますよ」
頼信は、あっさりと言ってのける。
「ヨシュさん。商会の取りまとめ、本当にご苦労様でした」
これが普通の貴族なら、その笑顔は用済みになったごみを捨てる時に見せるもの。
けれど頼信はこう続けた。
「それですみません。疲れていると思うんですけど、手伝って欲しいことがあって」
ヨシュは涙を掌で拭い、鼻を袖で拭って、答えた。
「も、もちろんです!」
その勢いに頼信は驚いたように体を引いてから、苦笑いしていた。
「そ、そんなに気負わなくても大丈夫です。えっと、そこの荷物と、あと、それからマークスさんにちょっと聞いてきて欲しいことがあるんです」
そこの荷物とは、頼信が島に戻ってきた際、先に商会に届けられた頼信の荷物だ。
どうやらクウォンという町で仕入れてきた、商品の類のようだ。
その中で、やけに清々しい植物の匂いのする袋を手渡された。
それに、マークスと言った。
「マークス兄に、ですか?」
「はい。店主が信用できて、比較的落ち着いた客層の酒場はどこかと」
「酒場……」
「二十人、三十人くらい入れると嬉しいです。それとヨシュさんは、主だった商会で取引の決裁権を持つ人に、その酒場に集まるよう言ってくれますか」
ぽかんと頼信の顔を見返していると、不安そうに聞き返された。
「大丈……夫そうですか?」
「大丈夫です!」
即座に言い返し、走りだそうとして、足を止めた。
もう失敗は許されない。
この後、首を刎ねられるのだとしても、最後くらいは役に立ちたい。
「あの、商会の人たちには、なんと言えば?」
というか、どういう目的なのかわからないと、主だった商会と言われても、どれだけ呼べばいいかわからない。
ヨシュの問いに、頼信は言った。
「ヨシュさんがこの商会で一番よく把握していると思いますが、取引額の多い順に上からです」
頼信は、手にしていた分厚い帳簿でパンと手を叩く。
この商会には金貨がない。
多分どこの商会も似たようなもの。
でも取引だけが積み上がり続け、全員が膨大な商いの波に溺れようとしている。
その巨大な波を、頼信は手元の帳簿で蠅でも払うかのようにこう言った。
「目的は、この帳簿を軽くして金貨を絞り出します。金貨が欲しい人は来てくださいと」
ヨシュは叫び出したいのをこらえる。
頼信が時折使う、異世界の魔法が見られるかもしれない。
「そのお茶でも飲みながら」
ヨシュは手渡されたいい匂いのする袋に視線を落とす。
頼信はいつもの優しい笑顔。
でも、ヨシュは知っている。
そういう笑顔が出た時、町の人々の少ない人たちが、ものすごく渋い顔をすることを。
そして最後には、問題が解決してしまうことを。
「行って参ります!」
大きく返事をし、駆け出してすぐに転んだが、立ち上がって走り出す。
それは頼信の役に立ちたいという思いと同じくらい、なにをするのかが気になっていたから。
この島には何人か魔法使いがいる。
でも、ヨシュの中で一番の魔法使いと言えば、あの頼信なのだ。
***幕間・頼信***
仕事を任せていたヨシュは、どうやら商会が損を出していると思ったらしい。
なぜなら、金庫に金貨が残っていないから。
なんなら誰かが盗んでいるのではないかと疑っていたと、倉庫で商品の出入りを取り扱うトルンから聞かされた。
その意味ではヨシュには悪いことをしたと思いつつ、自分自身も盲点だったのだから仕方ない。
ここは金貨や銀貨が飛び交う世界なのだ。
カネと言えば金貨であり、儲けとは金貨が積みあがることにほかならないのだから。
「でも、実のところ、そうじゃない」
現代チートの出番だと、頼信は誰にも見られていないことを確認してから、したり顔をしたのだった。
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