第98話

 身の毛もよだつ、という表現があるが、それはドドルとクルルの様子を見て、的確な表現だと思った。


 大規模魔法陣の試しうちの後にやった実験の様子は、それほどのものだった。


 ゲラリオは大規模魔法陣の失敗など忘れてしまったかのようだし、ドドルは体中の毛が、クルルは耳と尻尾の毛が逆立ったまま戻らなくなっていた。

 ドドルは島に戻る前に不機嫌そうに海に飛び込んで毛並みを誤魔化していたし、クルルはしきりに自身の尻尾を撫でていた。


 やはり、魔法はすごい。


 今までどこかふわふわとしていた、古代の大規模魔法陣という存在の、そのほんのわずかな部分だが、威力の片鱗を垣間見ることができた。


 真の力に比べれば、小指の先ほどの欠片でこれならば、本物はどのくらいの威力になるのだろう?


 なによりも、大規模魔法陣の中には、明らかに攻撃魔法とは異なる魔法陣が存在する。

 これだけの大出力を応用した魔法というのは、一体どんな効果を持つものなのだろうか。


 教会には、その最も目立つ場所に、見上げるばかりに巨大な大魔法陣が掲げられている。

 そこに刻まれている魔法とは、果たしてなんなのか。


 死者の蘇生か、時間遡行か。

 あるいは……?


 いずれにせよ、全員が口に出さずとも、同じ思いを共有した。

 大規模魔法陣の謎は、絶対に解かねばならないと。


 もうこの話を見なかったことにするには、その扉の向こうにいるはずのなにかの存在を、あまりにも強く意識しすぎていた。


 こうして恐るべき魔法の実験を終えてからジレーヌ領に戻り、どこか上の空のクルルをイーリアに預けてから、自分は魔法陣研究を見据えて集めた例の変わり者たちのところに向かった。


 すると獣人のゼゼルが、約束通り腕木通信に使う仕組みを取りまとめてくれていた。

 ものすごく几帳面で、どことなく女性的ですらある繊細な文字だ。


 これを身長二メートルを超えるような、虎の獣人が書いたとは誰も思うまい。

 さらに検討の様子が理路整然とまとめられており、実にわかりやすい。


 もしかしたら昨日議論にあまり加わっていなかったのは、ゆっくり一人で考えるタイプだからなのかもしれない。


 とにかく結論としては、パターンひとつひとつに、単語を割り当てる方式に落ち着いたらしい。

 文字をひとつずつ割り当てるのは、メッセージの拡張性や正確性の面ではいいが、緊急時にはあまりに冗長すぎるという結論のようだ。文字をひとつずつ送るのは、よほど例外的なことが起こった時に限ったほうがよいと。


 そこで単語形式に落ち着いたようなのだが、その代わりに腕木の構成方法が変更されていた。


 自分が思い描いていた人形形式ではなく、横に並べた棒を立てたり倒したりして、ビットを表現する形式になっていた。

 棒ひとつで上げと下げの二通りを表現できるから、棒を一個増やすたびに伝えられる単語は二倍になる。


 望遠鏡のない世界だから、視認性の問題からも、こちらのほうが遠くから見やすい。

 それにこの装置を設置する塔の上のスペースは限られているから、棒の数も七本くらいが限界なのだ。


 このあたりは理論の応用も重んじるファルオーネが、簡易の設計図を添えて検討していた。


 こうして結局、土台の上に七本の歯を立てる形式となった。

 つまり表現法は2の7乗通り。128通りの表現ができる。8ビットじゃないことに若干もやっとするが、致し方あるまい。


 これくらい単純な仕組みなら、装置が壊れてもその辺に生えている木で、最悪代用できる。


 少なくとも彼らの初仕事は、十分すぎる結果だと思った。


「ありがとうございます。素晴らしい結果です」


 ファルオーネは鳩みたいに胸を逸らし、ルアーノは肩をすくめるだけ。アランは照れくさそうに頭を掻いて、ゼゼルは無表情。


「んじゃあ、せいぜい戦に役立ててくれよな。面白かったぜ」


 ルアーノはそう言って屋敷から出て行こうとするし、ファルオーネも満足そうにうなずいてそれに続こうとする。


 アランはそんな彼らとこちらの間で視線を往復させ、そそくさとルアーノたちについていこうとする。

 ゼゼルも特になにも言わず続こうとしたところ、自分は言った。


「あの、本当のお仕事は、これからなんですけど」


 四人が足を止め、こちらを振り向く。


「皆さんそれぞれに生業があるとは思いますが、できればそちらは辞めて、専任として当たってもらいたい仕事があります」


 一晩中議論してすっかり打ち解けているのか、ゼゼルも含めて、四人はそれぞれ目配せしている。

 そして意外に親分肌らしいルアーノが、代表して言った。


「これ以上に面白い話があるってことか?」


 解くべき問題。

 四人には、それが最高の報酬なのだ。


 四人の素性をマークスに調べてもらった感じでも、そう思った。


 博打で負けなしのルアーノだが、負けなしというのは個々の勝負ではなく、賭場から出る時に負け無し、という意味らしい。


 その話を聞いて、おそらくだがルアーノは確率の概念を理解しているのだろうと思った。

 場合の数をすべて数え上げ、期待値を利用して賭けるというのは、普通の人間はそうそうやらない特殊な発想法だ。大数の法則に対する信頼だって必要になる。


 そしてルアーノが比較的少額の賭けを好むという話から、彼はひたすら自分の考えを確かめるためにギャンブルをしているのではないかと思った。


 ファルオーネは、ゲラリオの予想通り、異端審問から逃げてきた可能性が高いとのことだ。

 近所の住人の話では、世の中には隠された法則があり、物理現象を観察して数字に落とし込めば人々の運命が明らかになる、と吹聴しているらしい。数秘術に近いものにのめり込んでいるらしいが、原初の物理学者と呼べるかもしれない。


 アランは煉瓦職人の親方によれば、真面目だが仕事が遅く、煉瓦の並べ方に異常にこだわる性格らしい。

 日がな一日煉瓦の数を数えたり並べ直したりしていることもあって、悪魔に取り付かれているのではないかということだった。ヨシュによれば、アランはピタゴラスの定理の証明法を七つも用意してきたらしい。


 ゼゼルについては、ドドルが知っていた。細かいことが好きで、一日中縄を結んだり解いたりしている変わり者ということだった。家には奇妙な結び方をした縄をずらりと飾っているらしく、ゼゼル曰く、世界の形だということらしかった。


 自分はその話を聞いて、このゼゼルが一番すごいのではと思った。


 多分飾られている縄は、縄の結び方には何通りあるのかを試したものだろう。

 それは数学でいう、位相幾何学の出発点だ。


 いずれにせよ、彼らは教育制度の整った世界に生まれていたなら、その才能を見出されていたはずの者たちだと思った。


 そして彼らならば、大魔法陣の謎にも怯まないはず。


 なぜならば、神を殺すのはいつだって、科学の力を信じる者たちなのだから。


「多分、この世界で最も複雑で、面白い問題だと思います」


 彼らの前に広げたのは、まさに神の領域である、巨大な魔法陣だった。

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