5(スナック「櫂」)
あたしたちはそれから、何となく親しくなった。
といっても、休み時間になったらすぐいっしょになっておしゃべりするとか、昼食を同じ席に座って食べあうとか、そんなふうじゃない。あたしたちは相変わらずで、特に目立った行動はとらなかった。
何というかそれは、同じ森に棲む二羽の鳥みたいな感じだった。広くて深い森の中で、同じ羽と同じ模様を持った鳥は、あたしたちしかいない。例え鳴き声を交わしたりしなくても、あたしたちだけはそのことを知っている。
とはいえあたし自身としては、吉野に対して友情とか親愛とか、そういうものを覚えていたわけじゃない。むしろそこには逆に、はっきりした苛立ちみたいなものが含まれていた。
素直に認めるわけじゃないけど、あたしは吉野に嫉妬していた――のだと思う。何しろ、彼女は美少女だ。それも、かなりの。それだけで、やっかみを覚えたり、不公平を感じたりするには十分というものだった。
と同時に、あたしは彼女の弱さに対してもはっきりした反感を持っていた。吉野は大抵、いつもびくびくしていた。それこそ昔の中国で、天地が崩れてしまうんじゃないかと怯えていた誰かみたいに。でもあたしとしては、それだけ美少女で、人生にアドバンテージがあって、「何が不満なんだ?」と思わずにいられないのだ。
そうしてあたしは、そんな自分に眉をひそめざるをえなかった。自分のせせこましさや、卑屈さや、身勝手さや、それがわかっていながらどうしようもないことについて。
あたしが吉野に抱く感情は、だからそれなりに複雑なものだった。不思議な仲間意識や、共感、同情。それと同時に、もどかしさや、不満、劣等感――
とはいえ、基本的には彼女の薄幸ぶりを無視することは難しかった。傷ついて弱った小動物を前にして、すぐそばを素通りするのが難しいのと同じで。吉野には、どこかそういう種類の弱さがあった。
そしてそれは、彼女の家庭事情の一端を知るにつれて、強まっていく。
――ある日のことだ。
あとで人伝に聞いたのだけど、あたしはその騒動についてリアルタイムでは知らなかった。だから吉野がその時にどんな顔をしていたのか、直接には見ていない。
あたしはその時、体育の時間が終わって、そのあと片づけを手伝わされているところだった。体育委員でもないのにそんなことをさせられるのは、体育教師が陸上部の顧問で、あたしのことに目をつけているからだ。あたしは何故だか、足だけは速いのだった。
体育会系らしい筋肉質な体つきで、誰に対しても底抜けの笑顔を浮かべて、「元気よく」と発破をかけるのが癖みたいな男性教師だった。元気よく、元気よく、ゲンキヨク――って、お前は元気病かよ、とあたしはしょっちゅう心の中でだけ毒づいていた。
無駄な時間をくわされたあたしが、着替えを終えて教室に戻ってみると、どうも雰囲気がおかしい。しん、と静まりかえっている。まるで、世界の滅亡をかなりの確率で予言された五秒後くらいに。
ふと吉野の姿を探してみると、彼女は自分の席にじっと座っていた。後ろ姿しか見えなかったけれど、その姿は赤道直下で太陽の光を浴びた吸血鬼みたいに、ちょっと触れただけで壊れてしまいかねなそうに見える。
あたしは友達の一人に、何があったのか尋ねてみた。比較的に陽気で人の好いその子は、簡単に事情を説明してくれる。
それによると、休み時間のあいだに吉野の父親が学校にやって来たらしい。話によると、派手な金髪で、ちょっと粗暴な身なりをしていたという。
父親は職員室にまっすぐ向かうと、あたしたちの担任教師にいきなり罵声を浴びせかけた。廊下にまで響くくらい乱暴で、空気が割れそうな威圧的な声だったという。
どうやら、吉野の父親は家庭訪問のことで不満があったらしい。転校生である吉野も、当然のこととして家庭訪問を受けていた。どういう状況なのかはさっぱりだけど、そのことで何やら文句をつけに来たらしい。
たかが家庭訪問で、と言うしかないのだけど、ともかく吉野の父親にとっては腹にすえかねる事態だったらしい。およそ一方的で、偏執的で、自分にとって都合のいい意見だけを、相手の言葉を無視してまくしたて続けた。
それは、暴力沙汰とか乱暴行為を常態にしている人間の特徴だった。聞く耳を持たなければ、相手を黙らせられれば、それでこっちの勝ちだ、と決めてしまうタイプの人間というのがいるのだ。
結局、その騒ぎは校長先生まで引っぱりだされてとりなすところまで発展した。吉野の父親がそれで納得したのかどうかはわからないけれど、ともかく相当やばい人間だと周知させたことだけは事実だった。
その時のあまりはっきりしない噂によれば、吉野の父親の息はアルコール臭かったという。
吉野自身が今回のことをどう思っているのかは、よくわからなかった。あたしも、それからほかの誰も、彼女に直接訊いてみたりはしなかったからだ。騒ぎの種類が種類だけに、迂闊には触れられない。
ただ、教室にぽつんと一人で座っている吉野は、ほとんど身動きというものをしなかった。授業中も、休み時間も、地面にはりついた影みたいにじっとしている。
放課後になってもそれは変わらなかった。帰り支度をして部活なり何なりにさっさと教室をあとにするクラスメートの中で、吉野の時間だけが停止状態だった。このままだと、永遠にそうしていそうにも見える。
「――――」
あたしはちょっとだけため息をついてから、彼女の席に向かった。そうして、言う。
「よかったら、これからあたしといっしょに来ない?」
おもむろに上げられた吉野の顔は、機械人形みたいな無表情だった。
看板には、スナック「櫂」と書かれている。
「――やーん、何この子、かわいい~」
と言いながら、ノリコさんは吉野に抱きついて頬ずりした。
普段の吉野だったら、そんな露骨なボディタッチをされて平気だったかどうかはわからない。あたしだって、さすがにこれは耐えられなかったと思う。でも今の吉野はまだ死んでいるような状態で、死体は何も感じたりはしない。
心神喪失状態の吉野は、ノリコさんの頬ずりを甘んじて受けいれていた。無我の境地もたまには役立つらしい。
あたしたちは今、街中にあるとあるバーに座っている。バーといっても、ぱりっとした黒いベストに白いシャツを着込んだバーテンが、銀色のシェイカーを振るってカクテルを勧める、というような渋い店のことじゃない。アルコールのほかに軽食とかつまみを提供して、客がカラオケを歌うような、そういう低俗的かつ実用的な店のことだ。
小さな飲食店だの、クリーニング店だのが並んだ一角にあるその店には、カウンターがあって、テーブル席が二つほどあって、あとはおしゃれなんて馬に蹴られて死んでしまえとばかりに、カラオケ装置の設置されたコーナーが隅のほうにある。
あたしと吉野はそんな店内の、カウンター席に腰かけていた。当然のように薄暗い照明の中で、天井付近には何の効果があるのかよくわからないカラーボールが点灯していた。三原色の光の斑点が、洗濯機的な作業感を漂わせながらぐるぐる回っている。
店にはあたしたちのほかに、テーブル席に二人のおっさんが座っていた。見事に、おっさんとしか言いようのない二人だった。平日のまだ昼間といっていいこの時間に、ずいぶん有意義な過ごしかたをしているものだ、とは言える。
「ほんと、絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた美少女よね~」
ノリコさんは頬ずりを堪能したらしく、体を離してあらためて吉野のことを眺めながら言った。ノリコさんの発言にはいつも多少の天然が混じっているので、深く考えようとすると実に多元的な解釈が可能になる。
この店のオーナー兼経営者であるノリコさんは、三十代半ばという妙齢の女性。伝統にしたがって「ママ」と呼ばれているけど、子供はいないし結婚もしていない。ただし離婚はしている。ふわふわした長い金髪に、猫みたいな細い目。今はクリーム色の緩めのチュニックにモスグリーンのスカートをはいていた。ノリコさんの制服というところだ。
ノリコさんは独特の間のびした口調で続ける。
「この子、お店に飾ってもいいかしら? きっと似あうわよ。ピカソやゴッホやホッパーなんて目じゃないと思うな~」
後半はともかく、前半の発言は問題だった。確かに、吉野ならインテリアに最適かもしれない。そうなったら、店の売り上げにもけっこう貢献できるかもしれない。
でも中学生が店で働くことは、そもそも禁止されている。世の中には労働基準法というものがあるのだ。そんなことをしたら、営業停止になりかねない。ホッパー――?
「たぶん本気だと思うから一応言っておくけど、ダメだからね」
あたしは釘をさしておいた。
「何よ、けちんぼ。ところでこの子、カズちゃんのお友達?」
「まあそんなとこ」
「いいわね~、カズちゃん。こんな美少女が友達にいて。私だったらあと四十六人くらい同じ美少女の友達がいたって、困らないわよ」
「赤穂浪士じゃないんだから、そこはもう一人足しておけば?」
あたしはこれも一応、つっこんでおいた。ノリコさんを相手にすると、なかなか一筋縄ではいかない。
その時、テーブル席のほうからお呼びがかかった。ノリコさんは、「はいはい、ただいま~」と軽く手を振っている。
「それじゃ、二人ともゆっくりしていってね~」
ノリコさんはそう言うと、おっさん二人組みのほうに向かった。雲を踏むような頼りない足どりだったけど、たぶんそのほうが受けるのだろう。もしかしたら、ただの癖かもしれないけど。
「……すごいとこだね」
と、ようやく吉野は言った。頬ずりが心肺蘇生の電気ショックみたいに効いたのかもしれない。ここに来るまでより、ずっと生気にあふれていた。少なくとも、二次元から三次元になるくらいには。
「ここ、あたしの馴じみの場所」
あたしはカウンターのぶ厚い天板に頬杖をつきながら言った。
「何で、こんなところに?」
吉野はきょろきょろとあたりを見まわしながら言った。何だか、魔女の城に囚われたいたいけなお姫様、という感じだ。
「母親の関係」
と、あたしは説明した。ノリコさんとあたしの母親は同じ学校に通った友達で、その縁であたしは小学校の頃からこのバーを利用していた。子供にしてみればちょっと変わった遊び場みたいなもので、やましさやいかがわしさみたいなものは少しも感じなかった。
それにノリコさんはああ見えて意外としっかりした人で、あたしが変な目にあわないよう、当時からずっと気を配ってくれている。
「ふうん」
と吉野はわかったような、わからないような、不得要領な顔でうなずいた。気持ちとしては、わからないでもない。
その時、カウンターの向こうであたしの前に人影が立った。見ると、ユウちゃんである。
ユウちゃんは、この店で働く唯一の従業員だった。といっても、接客ではなく、料理や皿洗い、掃除、お酒の補充といった雑務一般を主に担当している。
ややラフな感じのショートカットに、フェミニンというよりは凛々しいといったほうがふさわしい顔立ち。まじめで、どっちかというと理知的で、ノリコさんを毛糸とすると、木綿糸くらいの雰囲気をしている。エプロンスカートにスクエアタイ、ぱりっとしたシャツという格好。これも、ユウちゃんの制服というところだ。
「――――」
たぶん、注文をとりに来たのだろう。ユウちゃんの様子から、あたしはそれを察した。
「ジンジャエール一つ、と……」
あたしは吉野のほうをうかがう。
「……あの、わたしはその、ウーロン茶で」
中学生にしては渋いリクエストだった。
「――――」
ユウちゃんは無言でうなずくと、冷蔵庫のほうに向かった。それを見ながら、吉野はあたしに向かって小声で質問する。
「あの人、もしかしてしゃべれないのかな?」
実のところ、そのことについてはあたしもよくわかっていなかった。寡黙とか、無口とかいうレベルじゃなく、ユウちゃんは口を開かなかった。実質的に、あたしはユウちゃんがしゃべっている場面に遭遇したことがない。
それがどうしてなのかは、不明だった。そもそもあたしは、ノリコさんやユウちゃんの本名さえ知らないのだった。
「わからないけど、耳が聞こえてるのは確かだよ」
とりあえず、あたしはそう答えておく。実際、そのせいで困ったことになったという記憶はない。人は案外、いろんなものがなくてもやっていけるものだった。
やがてユウちゃんは、あたしたちの前に飲み物の入ったグラスを置いてくれる。ユウちゃんは口で言うよりはよほど雄弁に、にこりと一礼した。ごゆっくりどうぞ、ということだ。
あたしはさっそく、ジンジャエールを口にした。ウイスキー用だか何だかわからないけど、こじゃれたグラスに入っているせいか、妙においしく感じられてしまう。中身はただの、市販のジュースなのだけど。
ふと吉野のほうを見ると、彼女は何か思案するようにグラスを両手で抱えたまま、ウーロン茶の表面を見つめていた。まさか、昔に別れた男のことでも考えてるわけでもあるまい。
「何してんの?」
と、あたしは訊いてみた。すると吉野は、困惑気味の顔で告げる。
「だって、わたしお金持ってないから」
「…………」
あたしは無言のまま、もう一口ジュースを飲んだ。なるほど、そういう考えかたもあるわけだ。カウンターに頬杖をついて、あたしは言う。
「これはノリコさんの奢りだから、問題ないよ。友達の家で出されるのと、いっしょ。どうしても気になるんなら、出世払いのつもりでいればいいんじゃないかな。少なくとも、あたしはそう思ってる――時々は、だけど」
あたしがそう言うと、吉野はなおもウーロン茶の表面を見つめていた。そうしていれば、過去や未来について有益なアドバイスでもしてもらえるみたいに。けどしばらくすると、覚悟を決めたらしくグラスに口をつけて傾けた。両手でグラスを抱えもったその姿は、白無垢の花嫁が盃をほしているように見えなくもない。
まったく――
あたしはその横で、比較的やさぐれた格好でジュースを口にしていた。もちろん、吉野の真似なんて逆立ちしたって無理な話だ。
それから不意に、店内に音楽がかかった。どうやら、おっさん二人のうちのどっちかが、歌をうたうつもりらしい。実に荘重で、単純で、一本調子な曲が流れはじめる。演歌なんて、どれもいっしょにしか聞こえない。
カラオケ装置の前に立ったおっさんは、小指を立ててマイクを握りながら熱唱した。ノリコさんが、曲にあわせて手拍子をとりながら体を揺する。実に無意味で、無意義で、無駄で、無害で、底の底まで平和な光景だった。
あたしはそれを見ながら、吉野に訊いてみた。
「……あのさ、あんたの父親って、やばい人なわけ?」
吉野はけっこう長いこと黙っていた。でもそれは、地球の裏側に沈みこんでしまいそうな沈黙じゃなかった。学校の時みたいにフリーズしてるわけじゃない。
そのあいだも、呑気なおっさんの歌は続いていた。わりとうまい歌だ。「悲しや蜉蝣いのちを抱いて――」というあたりで、吉野は口を開いた。
「お父さんは、普段は別にどうっていうことないんだ」
歩きはじめたばかりの子供みたいなたどたどしさで、吉野は言った。
「……でも、お酒を飲むと、何ていうか乱暴になるの。すごく、乱暴に。お皿とかテーブルとか、いくつも壊すし、それに、その……」
「殴る?」
あたしが嫌な単語を肩代わりすると、吉野は精一杯の気丈さでうなずいた。
「飲まないときは、普通なの。ちゃんとしてるし、ちゃんと働きにもいける。でも飲んじゃうと、もうダメ。誰の言うことも聞かないし、すごくひどいことだってする。お母さんは、そんなお父さんのことを〝弱い人だから〟って言うの。弱い人だから、支えてあげなくちゃいけない、優しくしてあげなくちゃいけない、って」
「…………」
「わたしには、よくわからない。もう何度も、同じ理由で転校もしてる。お父さんがケンカとか騒ぎを起こして、そこにはいられなくなって。ここでもまた、そうなるかもしれない。そしたら、やっぱりまたどこかに行かなくちゃならない。ここと同じどこかに」
おっさんの歌は感動的なフィナーレを迎えていた。ノリコさんが盛大に拍手する。おっさんが照れたようにマイクをおくと、気温が何度か変化する感じで残響が消えいてった。あたしはジンジャエールをもう一口飲む。
「本当は、わたしはそんなの嫌。転校するのも、お父さんがお酒を飲むのも、何かあるたびにお母さんが知らない人に頭をさげるのも。わたしはどこかになんて行きたくない。わたしはどこかにいたい。――ねえ、間違ってるのは、わたしなのかな? わたしが間違ってるから、こんなふうなのかな?」
もちろん、あたしには答えられなかった。あたしは預言者でも、救世主でも、神様でもない。だから、こう答えた。
「――さあね」
あたしにわかるのは、それはあたしにはわからない、ということだけだった。
その時、もう一人のおっさんがカラオケ装置の前に立って、マイクを手にとった。さっきのとほとんど同じの、題名だけが少し違う曲が流れはじめる。今度は、さっきより少しだけアップテンポな曲だった。
そんな光景を眺めていると、世界は案外平和なところなんだという気がした。適当な量だけ酒を飲んで、下手な歌をうたって、みんなで手拍子をしていれば、誰もが幸せなままでいることができる。
――少なくともその時は、そんなふうに勘違いすることは可能だった。
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