4(伊達眼鏡)
あたしと吉野はコンビニで買い物をすませると、いっしょに歩いて家まで帰った。ついでだから何かおごるよ、と言うと、吉野は何度も遠慮したすえに、ジャムとマーガリンのコッペパンを選んだ。パンの中でも、比較的大きくて安いやつだ。
よほど空腹だったらしく、吉野は道々そのコッペパンをたいらげてしまった。変に慣れた、無駄のない食べかただった。なかなかの年季を感じさせられる。
やがて、あたしたちは家に到着した。自転車はともかく、歩きだとそれなりに時間がかかる距離である。でもそのあいだ、あたしたちは一言も口をきかなかった。まるで、誰かに聞かれでもしたら困ってしまうみたいに。
説明が面倒くさいので、あたしは吉野に口をきかないよう注意した。そうしてあまり音を立てないように、自分の部屋まで戻る。途中で父親の様子をうかがうと、テレビの前でうとうとしていた。ビールが一缶、机に置いてあるのを確認する。酒に弱い父親のことだから、もう今夜はろくに起きていられる状態じゃないだろう。
あたしは吉野にも、抜き足差し足で移動するよう指示した。吉野は律儀にも、忠実にあたしの動作を再現する。彼女がそうすると、妙な滑稽味があった。あたしは危うく吹きだしそうになってしまう。
部屋に入ると、念入りにドアを閉じておいた。そこまでする必要なんて、どこにもなかったけれど。
そうしてようやく、あたしはあらためて吉野と向きあった。とりあえずクッションをすすめて、お互い畳の上に座る。
ずっと気づかなかったのだけど、吉野は飾り気のないワンピースという、かなり寒そうな格好をしていた。南極探検に行くわけじゃないにしろ、かなりの無防備ではある。あたしはタンスから適当なジャンパーを取りだすと、それを着せてやった。
「ありがとう――」
そう言って羽織ったジャンパーの前をあわす吉野の姿は、同性のあたしが見ても変にどぎまぎしてしまうところがあった。
「藤江さんは親切なんだね」
品のよい笑顔を浮かべて、吉野は言った。名前を覚えられていたという事実は、あたしにとって少なくない驚きではある。
ジャンパーの代わり、というわけではないのだろうけど、吉野は一つあたしに質問した。
「藤江さんて、眼鏡してなかったっけ?」
そう訊かれて、あたしは机の上に放り投げてあったそれを手に取る。野暮ったい形の、黒いフレームをした眼鏡だった。本来レンズのあるところに指をのばすと、手品みたいに貫通してしまう。
「これ、伊達眼鏡だから」
「……何でまた?」
あたしは眼鏡を装着しながら言った。
「目は悪くないんだけど、目つきが悪いから」
そう、それは一種の苦肉の策だった。あたしとしても、鏡やら何やらをのぞき込むたびにうんざりするのはごめんだった。それで、身体的欠陥を緩和するために必要もない眼鏡をかけている、というわけである。
吉野は首を傾げて、そんなあたしのほうを見た。何だか、小鳥みたいな仕草だった。慰められるにしろ、正直に答えられるにしろごめんだったので、あたしはさっさと次の会話に移ってしまうことにする。
「ところで、あたしも訊いておきたいんだけど、何であんなところにいたわけ?」
時間も、場所も、寒そうな格好も、すべてが場違いだった。美少女のやることじゃない。美少女じゃなくても、やることじゃない。
「あの、うん、ちょっと――」
と、吉野は煮えきらない返事をした。まったくのところ、これじゃあ大根だって生煮えになってしまう。
「ちょっと、どうしたって?」
あたしは先をうながした。
「お父さんが、その――」
「父親?」
「――うん」
吉野の話はいっこうに要領を得なかった。
「…………」
それでも、目隠しでパズルを解くみたいなまどろっこしい会話を続けていくと、ようやく話の筋が見えてきた。要するに、夫婦喧嘩みたいなものらしい。吉野はそれを避けるために家を出て、あんなところにいたのだという。
あたしはその話を、特に疑ったりはしなかった。
「まあ、わかるよ。あたしもしょっちゅう、どこかに行っちゃいたいと思ってるから」
うんうんとうなずきながらしみじみ言うと、吉野はけれど、かんばしい反応は見せなかった。ちょっと重みのある口の閉ざしかたをしている。何となく、「そう、そうなの――」という感じで同意してくると思っていたのだけれど。
その代わりに吉野が示したのは、月の向こう側にでもありそうな、意外なほど暗くて冷たくて重たい返事だった。
「――それで、どうなるの?」
あたしは身動きをとめて、かすかにうつむきかげんの吉野を見た。彼女はとても真剣で、とても投げやりな顔をしていた。
「どこに行ったって同じ、何も変わったりなんてしない。横から見て三角形だろうと、縦から見て四角形だろうと、見えているものは結局同じ――でしょ? そんなのは、何かが変わったなんて言ったりはしない。そんなことで、何も変わったりなんてしない」
「…………」
「それに、ここから出ていくことなんてできない。できっこない!」
最後に、吉野は思いのほか強くてまっすぐな目であたしのことを見た。あたしが彼女の顔を正面からまともに見すえるのは、それが初めてだった。
彼女はやっぱりどこをどう見ても美少女だったけど、ただの美少女というわけじゃなかった。
今ならよくわかるのだけど、その瞳の奥にはたぶん、〝絶望〟と呼ばれるものが巣くっていた。本人の力ではどうしようもない、形而上的にも形而下的にも対処不可能な現実を抱えこんで。
つまるところ、吉野ゆきなは助けを求めていたのだ。
――けど、ただの中学生で、愚かで、自分のことばかり考えていたあたしは、そのことには気づけずにいるのだった。
結局、吉野はあたしの家に泊まった。ほかに、どうしようもない。同じ部屋に布団をもう一枚敷いて、さっさと電気を消してしまう。
あたしたちはすぐ隣で寝ていたのだけど、特に女子トーク的なものは発生しなかった。あたしはそもそもそんな性格をしていないし、吉野はよほど疲れていたのか、すぐに眠ってしまったからだ。
暗闇の中で様子をうかがってみると、吉野の呼吸は水中を漂うクラゲみたいにひっそりしていた。何というか、寝息まで美少女的ではある。
夜が明けると、あたしは吉野に起こされた。いつのまに眠ったのかは自分でも覚えていない。枕もとの時計を見ると、昨日調べた日の出時間の三十分ほど前だった。障子の向こうには薄ぼんやりした光があって、部屋の中を灰色に照らしている。とりあえず、実際に太陽が顔を出すまで、あと三十分くらいはあるということだった。
あたしと吉野は父親に勘づかれないよう、こっそりと一階まで下りて家を出た。吉野は昨日と同じ格好だった。同じ服を着て眠ったからだ。パジャマくらい貸そうかと言ったのだけど、吉野は頑として譲らなかった。慣れているからいい、と言うのだ。慣れている?
吉野の家がどこにあるのかは知らないけど、あたしは自転車で送ろうかと提案してみた。昨日のコンビニまでだって、歩けばけっこうな距離がある。健康にはよさそうとはいえ、休日の早朝から長距離遠征みたいに散歩をするというのもどうかと思ったのだ。
「――ううん、大丈夫」
けれど吉野は、首を振った。この美少女は、意外に頑固なところがある。
仕方ないので、あたしはジャンパーだけ無理に貸しておくことにした。さすがにこの時間の冷たい空気の中を、昨日と同じ格好で帰す気にはなれない。あたしたちはこの世界で、我慢大会をやってるわけじゃないのだ。
吉野はそれでも逡巡していたけど、「学校で返してくれればいいから」というあたしの言葉に、ようやくうなずいた。なかなか面倒な美少女ではある。
それからあたしたちは早朝の、まだ誰もいないアーケードで別れた。すべてが眠りこんだみたいに静かで、夜のしっぽを踏んづけてしまえそうな時間のことである。それは、変に秘密めいた感じのする行為だった。
あたしは歩いていく吉野のことを、けっこう長いあいだ眺めていた。叙事詩の一場面になりそうなくらい、長く。
どうしてそんなことをしているのか、自分でもわからないまま。
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