どうか

紫蘭

結婚式、ヒール、味噌汁

 六月のとある快晴の日。大好きな親友が結婚した。

 相手は大学のサークルで知り合ったという同級生の男。私は一度しか会ったことがないが、腹立たしいくらい穏やかで誠実そうな男だった。性格はいくらでも誤魔化せるので本当のところは分からないが、積極的に知りたいとも思えなかった。どんな素晴らしい理由であれ、私から親友を奪っていくことに違いない。世の中には積み重ねてきた歳月が勝てないこともままあるらしい。

 親友の相手の男は、食べ方が綺麗だったので親友はそこが気に入ったんだろう、と勝手に解釈している。親友はその派手な外見から遊び歩いている軽そうな女に思われがちだが、実際はちゃんとした箱入り娘でそういう細かいところを気にするきらいがある。そういった意味では私は親友のお眼鏡にかなっていたのだろう。取り繕うのは昔からの十八番だった。

 結婚式というものに来たのは小学生以来で、そのときは神前式だった。太陽光の元でより一層輝く白無垢をとても美しく思ったことを覚えている。いつかあれを着たいなどという少女じみたことは一度たりとも思わなかったが。

 神前式は厳かな空気ゆえ居心地が悪かった一方で、洋装の結婚式は眩しいほど豪華で目のやり場に困る。実際、私は殆どの時間を凄まじい量の料理を食べることと、ウエディングドレスに身を包んだ親友を眺めるのに費やした。食べ物は胃に収めてしまえば輝きを失うので、私はコンピュータプログラムのように淡々と運ばれてくる料理をせっせと食した。親友のウエディングドレスを選んだのは自分だという新郎へのマウントも到底口に出せる訳もなく、喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。こんな輝かしい物を視界に入れ続けたら、眩暈も頭痛も一層酷くなりそうだった。華やかな音楽が頭上を舞い、溌剌とした話声が追い打ちをかけてくる。目の前の人達はどうしてこんなに楽しげに話せるのだろうと一瞬訝しみ、ふと我に返る。当然だ。ここは誰もが待ち望んだ晴れ舞台なのだ。堪え切れず皮肉じみた笑いを零すと、次第に身体が鉛のように重くなっていくような錯覚に陥った。親友にとってこの時間は一瞬のような出来事だとしても、私にとっては永遠にも思える苦痛だった。皮膚の下がヒリヒリとして、神経のような何かがプチプチと切れていくような感覚がした。

 新郎新婦が各テーブルを回る段になる頃には、私の体調は限界を迎えていた。胃がむかむかしてきて食べた物を全て吐き出したくなった。単純に食べすぎでもあったが、身体は素直に精神の異常を反映していた。今すぐにでも逃げ出したかった。

 私に幸せそうな顔を向けるな!

 そう吐き捨てて、この場を出ていけたらどんなに良かっただろう。

 友達と、桜と一緒に居られたら幸せだよ、と言っていたくせに。とめどない言葉の暴力を受け続けた私のことなんか、きっと考えたことはないんだろう。私だって幸せなときも不機嫌なときも、どんなときだって一緒にいて話を聴いていたのに、どうして永遠を誓い合うのは私ではないのだろう。

 嫉妬の濁流に飲み込まれて今にも溺れそうだった。しかし私の心中を知るはずもない親友は、私にまっさらな笑顔を向ける。

「桜! 今日は来てくれてありがとう!」

 親友が私に向けて手を広げる。私は少し諦観を添えた表情をして、私たちはいつものようにハグをする。ふわっと甘い香水の匂いがした。普段使いのものではなく、特別な時用の、より奥行きのある暴力的な匂い。

「美奈の結婚式に来ないわけないでしょ。おめでとう」

 怒りから来る声の震えをまるで涙ぐんでるみたいに誤魔化す。私と美奈は少しの間台本通りといった詰まらない会話をした。一点の曇りもなく幸せそうな彼女に私のどす黒い嫉妬を悟られないように、必死に笑顔を作った。筋肉が小刻みに痙攣していた。

 額縁に入れられたような会話を五分ばかりして、美奈と新郎は本当に名残惜しそうに去って行った。私は心底安心した。体調は限界を越えて耳鳴りがしていた。何度もお暇させてもらおうと思ってタイミングを見計らっていたけど、その度に美奈の笑顔が目に入って何も出来なくなってしまった。大好きな美奈の結婚式を途中で退席したら美奈は悲しんでくれるだろうか。美奈を悲しませるような行為をして、気にかけてもらいたい欲求が沸々と腹の中で蠢いていた。脳味噌を激しく揺さぶられているような具合の悪さになんとか耐え抜き、結局最後まで結婚式に出席した。ずっと鳩尾を殴打されている気分だった。帰り際に渡された引き出物の入った紙袋には美奈と新郎の名前が印字されていて、どうしようもなく腹が立った。今すぐ紙袋を破って、駅の小汚いゴミ箱にでも放り込んでしまいたかった。

 美奈と共通の友人に二次会に誘われたが、それっぽい言葉を並べ立てて丁重にお断りした。こんな幸せが当たり前、みたいな満ち足りた空気をずっと吸っていたらいよいよ狂ってしまいそうだった。私は他人の幸福を喜び勇んで破壊しに行こうとはこれっぽちも思わないが、それでも素直に喜べる人間じゃないのだ。

 モノレールと山手線を乗り継いで、快速列車で郊外の自宅に帰る。ちょうど帰宅ラッシュと重なっていたので、電車には仕事帰りのサラリーマンが多く乗っていた。目の前のくたびれたスーツを着ている男を見ながら、自分の心が無になっていくのを感じた。社会の重い疲労感が放つ空気の中に身を浸しているうちに、私の心も少しずつ安寧を取り戻していった。私がいるべきはやはり、こういう世界のちょっと薄暗い場所なのだろう。今日の私は場違いに違いなかった。その質の悪い自覚が居心地の悪さにつながっていた。ドアの近くに立って河川敷で野球をしている少年を眺めていたはずが、気付けば最寄り駅にいた。ヒールの足が痛かった。

 自宅までの坂をとぼとぼと歩く。ヒールで上手く歩けないことがもどかしかった。体調も多少は回復したとはいえ、頭はまだ鈍さが残っていた。今なら私を拉致することも容易だろう。勿論、そんな需要はどこにもないが。抵抗する体力も気概も底を尽きていた。今日はもう誰にも会わず寝るだけなのだから、とヒールを脱いでストッキングの素足でアスファルトを踏み締める。尖った地面がストッキングを裂いて足裏に一瞬の痛みが走る。痛みが走る度に脳を締め付けている何かが消えて行くような気がした。

 坂をいつもの倍以上の時間を掛けて登り切る。確かめたわけではないが、足裏は血だらけのはずだ。アパートの玄関扉を開けると部屋に灯りが付いていた。驚きよりも先に味噌汁の匂いがして当惑した。慌ててリビングへ駆け込むと、キッチンに見慣れた男が立っていた。鼻歌まじりに明らかに二人分の夕食を作っている。

「今日は帰って来んなって言った」

 男は私の声に顔だけ振り返って、「そうだっけ?」と悪びれもなく言った。この嘘つきが。昨夜、酒を飲みながら散々泣き喚いたのをこの男が忘れているわけがない。

「今日は、」

「親友ちゃんの結婚式でしょ。知ってる」

「ひとりにしてよ」

「俺に今から出ていけと?」

 貧乏人に酷い仕打ちだな、と笑いながら煙草を吸い始める男が堪らなく憎かった。

 味噌汁の煮える鍋に、煙草の灰が僅かに落ちていくのが見えた。咎めてもどうせ隠し味だとかなんとか言って誤魔化されるのが関の山だ。

 相田は部屋の入り口で突っ立ったままの私に近付くと、いきなり私を抱き締めた。相田の大きな手のひらが私の頭を撫でる。相田を突き放そうと身を捩る。しかし思った以上に傷心していた私は相田の優しさにあっさり陥落した。素直に甘えることにして、私は目を閉じて相田の鼓動を聴く。いつも通りのテンポで脈打つ身体が嬉しかった。鼻先を押し付けた相田の服からは濃密な煙草の匂いがして無性に安心する。魔法のような匂いだった。私は肺いっぱいに匂いを吸い込んで、そこに安らぎを見た。

「匂いは嗅ぐなよ」

「なんで」

「恥ずかしい」

「うるさい」

 相田の身体にすっぽり覆われて、私の孤独は一時的に払拭された。鎮痛剤みたいだなと思うときもある。たった数時間の無痛。一度薬が切れてしまえば、あっという間に激痛に逆戻り。相田のくれる優しさは、そういう時限爆弾みたいな温もりなのだ。一瞬でいいから、と優しさを欲してやまない私を受け入れる相田の器の大きさに私は甘えている。誰でもいいから温もりをくれ、と思っていた時期もあったが、この世の中はどうも不純物が多すぎる。本当の意味で純粋な温もりだけをくれる相田に私は絆されていた。信用している人間に抱き締められることの幸福が与えてくれる快楽を誤解していたのだ。

 私の寂しさは全て私の所為だった。美奈が結婚して、明確に他人のモノになってしまって寂しかった。私を一番に想ってくれる回数が減っていくことが寂しかった。だから私は代替品でその寂しさを埋める。代替品しか手に入らない私の寂しさは、強引にでも美奈を得ようとしなかった私の所為だ。分かっているのにその代替品のくれる生温い幸福の味を知ってしまった。そうやって誤魔化している自分を虚しく思うこともあるけれど、一瞬の幸福を優先してしまう自分がいる。そして、それを受け入れる男も。

「ご飯の前にお風呂、入っておいで」

「うん」

 相田に言われるまま、私は脱衣所に向かう。

「ちょっと待って」

 腕を掴まれる。足裏から出ていた血に気が付いたらしい。椅子に座らせられて足首を持ち上げられる。

「あのさ、これ何」

「何、って血だと思うけど」

「そうじゃねーよ。どうしたら足裏に切り傷が出来んのかって訊いてんの」

 説明したくなかった。私の沈黙に苛立った相田は傷口に消毒液を含ませた脱脂綿を無慈悲に押し当てた。自分の身体に得体の知れないものが染み込んでくるような気がして、私は身震いした。相田は器用に傷口を拭うと、大きめの絆創膏を土踏まずの辺りを覆うように貼った。相田の旋毛は左巻きで、私はそれが少し面白かった。

「救急箱なんてうちにあったんだ」

「俺が買った」

「やっぱり」

「次、自傷行為したら殺すからな」

 相田の目がすっと細くなって、私を睨み付ける。何やら怒っているらしい。相田の冗談は難しい。私は「わかった」とだけ言って、洗面所に逃げた。相田はたまによく分からないところで怒る。私は昔からよく気付かないうちに誰かを怒らせてしまう性質だった。それを踏まえても相田はよく怒る。またやってしまった、と思いながらも、相田がなんだかんだ言って優しいことを私は知っていた。きっとお風呂から上がったら、美味しいご飯が出来ているし、今日も一緒に寝てくれるはずだ。そう思ったら今日一日全てがどうでもよくなった。心身を害していた鉛は体外へゆっくりと流れ出し、鳩尾の痛みが少し薄くなったような気がした。鏡に映る自分の腹部は健康的な肌色そのものだった。

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