第34話 (Other Side)スタヌムと深淵の邂逅

「落ち着いてやれ! 急ぐのはいいが焦るんじゃないぞ!」

「「は!」」


 スタヌム伯爵家当主、クレーデレ・スタヌムは自軍の布陣を確認しながら、領兵指揮官アンプルスと開戦後の対応を詰めていた。

 不安も不満も懸念も危惧も明確な障害もある。その上いまは王都との連絡が途絶え、王の安否が確認できないのだ。

 戦の前には問題と不確定要素が山積するのが当然。それを取捨選択して差配するのが為政者の職務。国の危機を前に、手をこまねいているわけにはいかない。無視できるものは無視して、後に回せるものは後に回し、最優先事項だけを対処可能な範囲に収める。


「喫緊の問題は」


 スタヌム伯爵の質問に、アンプルスはひとつだけ、と簡潔に応える。


「この地は河と山に挟まれ、事実上の隘路あいろになっています」

「ああ」


 王都からは百四十キロ三十五里、王都から敵が進軍してくるならば騎兵で三日。それまでに陣を敷き、壕を掘り、防護壁を立て、馬防柵を組む。

 王家直轄地の外延に布陣せよとの王命に従うとしたら、この場所しかない。他の場所は広すぎ、視界が開けすぎていて守り切れない。

 むろんアンプルスも、そんなことは承知の上で進言している。


「もし後背位にあるプルンブム侯爵領のダンジョンから魔物が溢れれば、我々は挟撃を受けることになります」


 その通りだ。最初の想定ではダンジョンから溢れた魔物を討伐するため王都に背を向けた布陣だったが、いまは王都を制圧した帝国と思われる軍勢への対処が主となっている。陣はダンジョンに背を向け、そちらへの守りも薄い。

 だが不思議なことに、アリウス嬢とテネルがやり遂げてくれることをスタヌムは微塵も疑っていなかった。王国最強の武門アダマス家の長子だから、ではない。

 自分の、武家貴族としての直感が伝えているのだ。アレは、だと。


 あの魔力、あの魔圧。荒れ狂う激流を水底みなそこ深くに秘めた、大海原のような静謐。どこかで触れた気がするのだが、どうにも思い出せない。


「では、を用意すべきです」


 仮に彼女たちが失敗したとしても。自分たち領軍がここを守ることに変わりはない。命懸けで敵の戦力を削ぎ、可能な限り時間を稼いで、来るかもわからん救援を待つ。そして、多くは死ぬことになる。

 だからお前は、領主は安全な場所にいろと。領兵指揮官として誰よりも長く仕えてきた愚直な武人は、主君であり戦友でもある自分に。そう言っているのだ。


「民を守り国を守るためには、誰かがやらねばならん」

「は」

「であればそれは、上に立つ者の責務だ」


 口をついて出た言葉に、スタヌムのなかでいにしえの記憶が甦る。

 ようやく思い出した。自分は、あれを知っていた。

 あの、静かなる怒涛を。


◇ ◇


 それは、五つかそこらのことだった。俺は父親の留守中、後妻の息が掛かった者たちにダンジョンへと連れ出され、深層で殺されそうになったのだ。

 嫡男だった俺は家督争いで後妻から恨みを買っていたのだが、五つの男児にそれがわかるわけもない。

 深層で逃げ隠れするうち魔法陣が光って、気づけば見たこともない地下室にいた。そこが魔王城だと知ったのは、忍び込んだ図書室でしゃべるスライムにつかまってからだ。


 運ばれた先では、目の下に隈を作った小柄な女が書類の山に埋もれていた。何体ものスライムにあれこれ指示を出しながら、魔法を使って無数の書類をさばく、それが魔王コルナハンだなど誰が想像するだろう。

 あの魔王は魔界に君臨するどころか、魔界のために己の身を犠牲にしていた。


「その紫の顔色! お前、魔女だな! 俺を喰うつもりだろう!」

「喰わんわ。人を喰ったようなしょうなのは否定せんがの。飲まず食わす寝ずに二週間も働けば顔も紫になるわい」


 面倒臭そうにいって、コルナハンは首を傾げる。


「それで、ぬしは、なんでこんなところにおるんじゃ」


 説明すると、呆れられた。人間は阿呆じゃのと。

 臭いと風呂で洗われ、飯を出されて、寝床に案内された。そのまま喰われるんじゃないかと怯えていたが、疲れには勝てず眠ってしまった。


「おお、ずいぶんマシな顔になったのう」


 翌日、魔王の前に連れてこられた俺はまだ疑っていた。コルナハンも久しぶりに寝たとかで顔色こそまともになっていたが、王らしき威厳は感じられなかった。


「俺を、どうするつもりだ」

「……どうしたもんかの」


 その日から、やらされたのは魔王が処理する書類の整理だった。もちろん、俺は魔界の文字など読めもしない。


「絵合わせ遊びだと思うてやってみい」


 最初は、見よう見まねで。やがてコツをつかむと褒められるようになり、面白くなってきた。


「ほう、なかなか筋が良いぞ。帰れんようなら下級官吏にしてやってもよい」


 あとは、魔族の暮らしに欠かせない大宝珠とやらに魔力を注ぐ仕事だった。魔界に迷い込んだ人間に労役を課すのかと思ったが、どういうわけか魔王自らそれを行っていた。

 俺は、その手伝いというわけだ。


 最初は魔力切れで、あっという間にぶっ倒れた。倒れたあとは部屋に運ばれ、食って寝てまた翌日に同じことをやらされた。

 そして、またぶっ倒れた。


「そう悲観するものでもないぞ? ほれ、ぬしの仕事ぶりも、昨日よりはいくぶんマシじゃ」


 魔法の才能がないのかとしょんぼりしていた俺を見て、魔王は楽しそうに笑った。


 次の日も、その次の日も。俺は魔王と並んで、魔力を注ぎ続けた。

 少しずつ、倒れるまでの時間が延び、気持ちに余裕が出てくる。魔王の持つ底知れない実力の片鱗を、感じられるようにもなってきた。

 そして、疑問が出始めた。

 大宝珠というのは、魔界で使われる魔力を安定して広範囲に供給するためのものだ。魔界各地に送られた魔力は水を汲み上げ、明かりを灯し、暖を取り、食料を生み出し、病を癒す。それ自体は、良いことかもしれない。だが、どれだけ必死に注いでも、大宝珠からは魔力が好き放題に抜かれてゆく。底の抜けたかめに水を注ぐようなものだ。いくら続けても無意味だと思うようになり、あるときコルナハンに尋ねてみた。


「なんでこんなこと、ずっとやってるんだ? アンタ、魔王なんだろ? 誰よりも偉くて、強いんだろ?」

「だからじゃ。誰よりも偉くて強い者は、その力を活かすべきだと思わんか?」


 俺は、答えに困る。下級貴族の嫡男として、ある程度の教育は受けていた。他人のために身を犠牲にする、それが美談なのは知っている。同時に、それがなんの得もないこともだ。


「……そう、かもしれないけど。アンタが、やらなきゃいけないことじゃないだろ」

「そうじゃな。しかし、誰かがやらねばならん。であればそれは、上に立つ者の責務じゃ」


 納得はいかなかったし、無意味だという気持ちも変わらない。でも飯を食わせてもらって、寝床も与えてもらって。なにもせず遊んでいる気にもならない。城の主人である魔王が同じ仕事をしているのだ。文句を言いつつも、俺は大宝珠に魔力を注ぎ続けた。


「そろそろ良いかの」


 ひと月ほど経った頃、魔王は俺を城の最下層に連れて行った。殺されるとまでは思わなかったが、妙な予感がしていた。そこには、ダンジョン深層で見た魔法陣が光っていたから。


「誇るがよいぞ。ぬしの貯めた魔力で、人間界との接続ができるようになったんじゃ」

「え」


 俺を捨てるのか、と言いかけて止める。なんでか泣きそうになって、怒った顔で横を向いた。

 その脇腹を、なにか固いものがつつく。


「持って行け」


 それは、百二十センチ四尺ほどの短剣だった。


「魔界最高の刀匠が打った業物わざものじゃ。抜くときは気をつけるのじゃぞ」

「指を切るとでも」

「魔圧が足りんと抜けん。魔力が弱いと呑まれかねん」


 思った以上に物騒なものだと聞かされ、持っていた手が下がる。


「なに、大丈夫じゃ。ぬしの魔圧は、もう竜の子ほどにはなっておる」


 ひと月の間、ずっと大宝珠に魔力を込め続けたことで、俺は強くなっていた。

 いや、違う。魔王はオレを、強く鍛えてくれていたんだ。魔界ここを出ても、生き残れるように。


魔界ここでのことは忘れて、達者で暮らせ」

「なぜ」


 なぜ無事に帰すのか。なぜ俺を鍛えたのか。なぜ忘れろなんていうのか。たくさんの「なぜ」が言葉にならないまま心のなかでわだかまる。


「ぬしは、いずれ大きく強くなろう。翼を広げて高くまで飛べる龍じゃ」


 魔王コルナハンは、俺を見て笑った。


「振り返るな。ぬしが見るのは、未来さきだけでよい」

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