27 五番目のボイジャー

 蜂と狼の激闘。

 雀蜂の皮を被ったような少年と体躯の至る所を腐らせながらもその巨体を器用に操作する人狼の対峙は長時間の拮抗をみせた。

 歪だったアンブロシアの虫人としての肉体は今もなお判然としない不定形な要素を多分に含んでおり、翅が生えていた場所から人間の腕が飛び出してきたり、貌があった位置から脚が生えだしたりと滅茶苦茶な身体構造をしていた。それでいて、人狼の強力な爪による攻撃を受け付けないレベルの強靭さを常に保っている。人狼の機動力、戦術的な身捌きの器用さは一級線のものだが、いくら強く地面に打ち付けようと、勢いよく爪牙が身を引き裂こうと試みても、まつろわぬ蜂の姿を正確に捉え破壊することは叶わなかった。


「悪霊の饗宴。……心得はあるとも。

 かつてワシが夢想した不死の形。その手段の一つとして、その身を生霊たらしめ現世での保存を試みるという黒魔術的なニュアンスも垣間見えたものじゃ。身が朽ちようとも魂に確かな意思を持ち、存在の確立を続ける。そこれこそが死を乗り越えた先の不滅の概念であり、悪霊だろうがなんだろうが、ある意味で不死という結末を得るために望ましいとされたとのこと……」


 凄まじい瞬発力でノーモーションから突撃してくるアンブロシアによって人狼の五体が破砕される。飛び散った肉片は泡と腐臭を生じさせながら消滅し、残り香が収束するようにして4メートルを超える人狼の全身が再生された。


「果たして、そんなものが不死と言えるのかのォ。人間が有史以前から本懐として宿願としてきた自己保存がそのような精神的な不安定さやあまつさえ死の概念の許容とも言える霊的な存在を受容して良いものか。

 ……否。否ッ‼

 そんなものが不死であるはずがない。不死とはすなわち、このアブー・アル・アッバースの在り方そのもの。

 この星に存在する如何なる者にも侵害されない肉体と魂の保存こそが不死じゃ」


 狼の口から垂れ流される高説を鬱陶しそうに聞くアンブロシア。言葉を紡ぐその合間にも常にアンブロシアからの猛攻が続いている。しかし、人狼は不死に裏打ちされた圧倒的な余裕があるからこそ、戦闘中の発言を厭うことはなかった。


「……気になってるんだけど。アンタって、体ぶっ壊されてんのに平気にしてるけど、痛みとかないわけ?」

「痛みがあるとでも言えば、情け容赦が期待できるのかのォ」

「いや。なんか、気の毒に思えてきてさ。……余裕そうにしてるけど、俺如きの攻撃でもう何百回も再生してるわけで。…結局それってさ、再生させられてるってことにならない?何度も何度も情けなくその体を壊されて、そのたびにどや顔で再生したって別にそれは仕方なく再生してるってだけのこと」

「ほぉ、では、どうするというのじゃ。小僧?」


 まつろわぬ蜂の二本の人間の腕、二対の蜂の脚に何かが握られる。それは想像力によって生み出された木刀だった。蜂は四本の木刀を持っているというのに、むしろ先程よりも加速し、高速に詰め寄って人狼を滅多打ちにした。

 一撃必殺に近いこれまでの突進攻撃と打って変わり、アンブロシアのその木刀によるラッシュは殺傷性に欠けていた。殺すまで行かないレベルの身体破壊を試みているのか、急所は敢えて避けながら人狼の腕や脚を中心に打撃を打ち込んでいる。

 ひとしきりの攻撃を終えたのか、アンブロシアは持っていた木刀を消滅させてよろめく人狼に向き直る。


「やっぱり。痛みはなさそうだな」

「痛むものか、戯けがッ。人の手で傷つけられぬような強靭な獣の肉体はそもそもが痛みとは無縁であり、この獣体を破壊せしめるような攻撃に伴う痛みなど何百何千という戦いの人生において、とうの昔に置いてきたわッ‼」

「なるほど。痛くないなら、ちまちま攻撃されても困らないし、大技喰らって体がなくなっても再生できるから問題ナシってことね」

「何もそれは外傷に限った話ではない。病であれ病原菌であれ、何者もこの身体を蝕むことは叶わん。侵された身体は自らが先んじて腐り果てることであらゆる浸食から守ることができる。毒の海であろうと、極寒の山であろうと、死を与えられるよりも先に肉体を崩壊させれば、ガン細胞だって無意味であり、急性心筋梗塞ですらもワシを殺すことは出来んのじゃ‼」


 人狼は仰ぐように笑む。自身の絶対的な不敗の前提があるからこそ、彼にとって死の懸念も敗北の予感も存在しえない。


「体は大事にした方が良いと思うけどなァ。そもそも、死ぬ前に壊れられるから大丈夫、みたいなスタンスって結局はさっき自分が言ってた死の概念の許容、みたいな話になるんじゃいの?」

「哀れで未熟な若造に崇高な不死の理を解することができないのも致し方ないじゃろうな」

 人狼の腕が少年の大きさの蜂を掴む。大きく身を逸らせてからの反動で放たれた頭突きにより、アンブロシアはその衝撃で意識が少し遠退いた。


「多少体が硬いだけの小僧を打ち負かす手段などいくらでもあるわい。これまでの貴様との拮抗など興に乗じた故のただの遊戯よ」

「かはっ……‼」


 これまで用いてこなかったただの頭突きというシンプルな力技。それでいて、その攻撃は実に効果的にアンブロシアの異形の体躯の動きを止めてみせた。


「憎まれ口の小僧が相手とは言え、他者と言葉を交わすことも貴重な孤高の身でな。ある意味、無礼だとは思うが随分と手加減をしていたわけじゃ。……その非礼を詫びる最低限の心添えとして、これより貴様の思いあがった仮初めの強さというものを否定してみせようではないか」


 人狼の眼が光る。

 備わった悪魔の僕の青い重瞳。彼らが本気を出す際、一様にその瞳からは光が溢れだす。


 変化するのは瞳だけではない。人狼から生えた体毛はみるみるうちに逆立ち、逆巻く。おどろおどろしい気迫が周辺の空間を震わせるまでのプレッシャーとなり、未だ意識を朦朧とさせているアンブロシアの戦慄させた。


「不死である以上に、ワシには誰よりも生殺与奪を司るに足る実力がある。さぁ、小僧。貴様のようなただの緋鯉では、全身全霊の力を解放した狼の力には決して太刀打ちできぬというこの世界の理を……存分にその五体に教えてやろうぞ‼」


 犇めく闘気。野生の脅威。

 意識を取り戻したアンブロシアに、再び格の違いという感想を抱かせるに足る圧倒的な強者感が放たれている。



―ーー

―ーー

―ーー

 

 緊迫する人狼と人蜂の合間に響く軽快な音。


「こりゃあ良い。傑作だ。……かの高名な暴虐極まれる自由な狼をここまで本気にさせるなんて、それだけで勲章授与ものの戦果だ。いや、君に課せられた役割を鑑みるに、勲章授与どころか世界の半分をくれてやってもいいレベルの偉業だね」


 軽快な音の正体。


 それは拍手だった。純粋さすら垣間見える単なる賞賛の拍手。音は大きく、リズムは早すぎず、遅すぎず。その拍手は十数秒という何とも言えない間、人の姿を失ったアンブロシアに対して手向けられた。


「改めておめでとう、アンブロシア。いや、唐土己君」

「あま……ガブナー雨宮、さん」

「ははっ。かしこまる必要はないって船でも言っただろう?いや、君と居た時間は本当に短かったけど、こうして世界的に重要な瞬間に一緒に立ち会えてるっていうのは感慨深いものがあるよ、実際」


 特徴的なアロハシャツとサングラスを掛けた常夏チックなスタイル。

 棘がなくとも威圧性を持った言葉の話し方。飄々としながらも堂々とした態度。

 間違いなく、佐呑への船で案内役を務めていたTD2P捜査部のガブナー雨宮警部補だった。


「なんで、アンタがここに?」

「場が整うのを待っていた、とでも言えばいいのかな。簡単に言ってしまえば、世界を救済する最高な計画において極めて重要なフェーズが訪れるのを待っていた。みたいな?」

「…なんでもいいけど、今すぐ逃げた方が良い。この狼、ただの人間にどうこうできる相手じゃ…」


 そこでガブナー雨宮が辛抱堪らないといった風に笑いこけた。

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ‼

 いやー。良いね!君はもう自分のことを人間だって思ってないわけだ。その見かけからしてもそうだけど、随分と怪物染みちゃってまぁ……」


 身を丸めたガブナーに迫る人狼。一足飛びでガブナーの眼前に肉迫するや否や、強力な爪撃をそのまま繰り出してくる。

「それに……ただの人間ってわけでもないんでよねェ」

 人狼の爪が割れた。目から青い光を迸らせた人狼は異変を察知して飛び退く。

 特殊な人狼の指に骨から軋むような痛みが奔った。


「小僧ォ。……よもや」

「はいはい。そうです。勿体ぶるものでもないし、御覧にいれましょうか」


 ガブナーの眼前に展開されたバリアのような薄紫色の壁。その壁によって人狼の攻撃は弾かれたが、その間にもガブナーは両手をポケットに突っ込みながら、アロハシャツをなびかせるように仁王立ちをしていた。

 そして、今彼は片手をサングラスに伸ばし、常に掛け続けていたそれを貌から外す。


 吸い込まれるような紫色の重瞳がそこに在った。

 

 最も顕著なボイジャーの身体的な特徴。紫色の光が灯った重瞳は、他のボイジャーと比較すれば幾分か光の厚みがないようにも思われるが、それでも間違いなく彼が特別な存在であるということが明瞭だった。


「唐土君。…君は知らないと思うが、ボイジャーを用いて対悪魔の僕の構造を確立するための運用計画であるボイジャー計画にはね、秘匿こそされているけど、TD2Pだけでも年間で三百人以上の被験者による過酷な人体実験が行われているんだ。……君のようにその実験において、研究者共が求める有用な数値を示せた存在はボイジャーとして兵器運用される。だが、そもそもが過酷な実験を繰り返し被験し、最終的にボイジャーとして登記されるような存在は極稀だ。

 殆どの者はその実験の過程で命を落とし、そうでなくとも脳に特殊な信号を与えられた影響で著しい精神汚染や精神構造の危殆化に陥り、廃人となったり自我を失ったりする。約99%の事例においてV計画にはバットエンドさ。そして運よく実験的には最終フェーズをクリアしたり、一定の項目で非凡な数値を示せた存在が埋め合わせでボイジャーに登記される場合がある。

 俺はそういうタイプの出来損ないなボイジャー。機体名すら与えられないさ」


「…………………」


 人狼が再び迫る。今度は先程よりも勢い、速度、攻撃までのモーションに格段とキレが掛かっている。

 だが、再びガブナーの眼前には薄紫色のバリアが展開される。それに阻まれた人狼は身体ごと勢いを阻まれて、それどこをか大きく身を跳ね返されてしまっている。


「俺にはね。これくらいしかないんだ。自分を最強たらしめる固有冠域すら持たず、君臨する悪魔の僕たちに対して有効な攻撃手段なんて何ひとつ持っちゃいない。

 俺がボイジャーとして選ばれた理由はこれさ。およそこの世の生物の全てを凌ぐ史上最高の"対精神汚染"の性能。俺は自分の精神力が優れているとは思ってないけどね。それでも俺が示した耐用値はボイジャーの実用機体全ての数値を上回り、カテゴリー5の悪魔の僕の固有冠域すら生存が許されるレベルの”風除け”の水準を示してる。……現にカテゴリー4の不死腐狼の本気の攻撃をオートガードできるくらいには余裕があるわけだ」


「有り得ん」


 人狼が再度挑戦する。だが、結果は同じ。いろいろと体術を組み合わせて攻撃を仕掛けるも、ガブナーは貌色一つ変えずに突っ立っている。


「まぁ、攻撃手段もないんだけどね。とはいえ、自称不死の糞脆い爺と比べたら圧倒的に頑丈だと思うな。……豆腐みたいに全身ぶっ壊されておいて、不死だの、なんだの、恥ずかしいったらありゃしない。こちとらサングラスかけてボイジャー扱いされないように慎ましく生きてるのにさ」

「このワシを……不死腐狼、アブー・アル・アッバースを愚弄するか小僧ォォォオオ‼」

 

 激昂する不死腐狼を前に、ガブナーは誰よりも余りある余裕を浮かべて見せた。

「アブー・アル・アッバース。『不死の夢』の悪魔の僕。その実力は折り紙付きで、人狼フォルムになった時点で全ての干渉行為に対して耐性を持ちつつ、いざ身体の破壊、欠損が生じれば瞬く間に身体のいかなる部位だろうと、全身であろうと即効の再生を実現できる。無尽蔵の修復性能に支えられた不死。存在の完全消滅を防ぐという意味合いでは間違いなく不死の力とカテゴライズできるだろうさ。

 しかし、何よりその不死を阻害する要素は”究極反転”の未獲得による現実世界の外的要因。いくら夢想世界で無類の不死性能を持っていたところで、現実世界でその老体が死んでしまえば勿論夢の世界のアンタも死ぬ。それでその肉体を守り、かつ迫りくる老いから逃れるために採った手段は所謂"脳の保存"という選択だったわけだ」


「……何故、そのことを知っておるんじゃ」


「TD2P管理塔捜査部を舐めてもらっちゃ困るな。アンタの肉体はTD2PとAD2Pの監視の目が届かない地中海・黒海エリアのとある施設に冷凍保存されていることの調べはついてる。噂によると核戦争にも耐えられるようなとんでもない施設での保存らしいじゃないか、羨ましい。……んで、体全部を凍らせてるともちろん夢を見ることも出来ないから、その脳みそはさらにTD2Pの手が届かない北極の秘密施設に漬けられてるそうじゃないか。TD2Pに金と行動力と度胸があれば、すぐにでもアンタの脳みそか肉体のどっちかの破壊は叶うだろうよ」


「……………」

 不死腐狼から闘気が失せた。何やら思案に耽るように動きが急停止する。


「ま、別にアンタを殺すのが目的じゃないから良いんだけどさ」

「何を企んでおるのだ……小僧ォ」


 ガブナー雨宮の貌が歪む。


「俺はさ、本来役立たずなんだよ。……俺のとんでもない夢の世界の耐性も、別に他人に還元できるほど器用に展開できるわけじゃない」


 彼の手元に正方形の筐体が出現する。ところどころに模様が入った奇妙な筐体だった。


「だが、こんな俺だからこそできることがある。どこまでも自己本位に…ある意味での夢想世界での自爆攻撃をノーダメージで実行することができるのさ」


「何する気ですか、ガブナーさん」


 ガブナーはその問に対し、行動で答えて見せた。


『獏起動。超広域夢想域同調形改変システムへと接続。座標、指定パスへと同期完了』

 筐体から音声が漏れ出した。


「―獏、抜錨。思いあがった愚か者共の夢を奪えッ‼」

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