10 夜明け
その男の名前は
新卒時には大手の事務所に所属していた彼は、ボイジャーと呼ばれる改造人間の研究にまつわる闇を暴くことを信条に熱意を燃やしていた。だが、まことしやかに囁かれる非人道的な実験運用に迫ろうと粉骨細心に励んでいたものの彼は数年と立たぬうちにその事務所を追われることになった。
理由を聞いても判然としない規約違反ばかりを押し付けられた彼は大いなる不満を以てフリーのライターとなり、以降も煙に巻くように取材から逃れるTD2Pへの接触をあらゆる形で実現させようと試みる日々が続いた。
世間を騒がすような強大な悪魔の僕の存在は記者をやっていなくても常に世論の話の種だ。ある日、彼が尻尾をつかんだと思われた『プリマヴェッラ』と呼ばれるボイジャーが当時において"究極反転"という夢想世界の中でも特異な能力の行使でアジアを中心に大陸でも悪名を轟かせていた『
英雄的なスポットライトを浴びたプリマヴェッラは世界からは多大なる注目と賛美の評価を浴び、救世主の名を思うがままにした。多大なる寄付金や謝礼金が英雄を生み出したTD2Pに注がれる結果になったが、矢田はそのプリマヴェッラの誕生の礎となった非人道的な研究や膨大な数の実験犠牲者の存在を叫んだ。
だが、世間は矢田の声を異端と見なした。当然、ボイジャー計画には懐疑的な意見が寄せられること自体は珍しくない。それでも矢田のように自身を由来としたソースで全面的にTD2Pの存在を否定するものこそ、より強い力が働いてその声が揉み消されることも良くあることだった。
TD2Pに対する不信がどれほど積もれども、何一つとした確固たる成果を残すことができなかった矢田はこのジャンルの記者から足を洗おうと決意した。熱意が失せたというより、単純に諦めがついたのだ。自分のような人間はこの世の大きな歯車に首を突っ込んだとして、その歯車の狭間で無力にねじ伏せられるのが精々だと理解した。
数年後にそのボイジャーが別の悪魔の僕に殺害されて世間が葬送ムードになった時も、彼は一人で悪態をつきながらその世間の風潮を卑下した。
それからは政治ネタ、芸能人ネタなどにも手を出してきたがどれもネタとしては不信だった。矢田のような個人の力では限界が及ぶような領域のスキャンダルは大手事務所が情報を握って先に世に打ち出すし、薬物密売のマフィア関連のネタを掴んでも既に小心者になり果てていた彼にはそれを世に売り出すだけの勇気がなかった。
安い酒に浸る日々が続く。四畳半の小さな一間のアパートで日頃突っ伏すようにパソコンに向かい合い、陽を浴びるのは週に一度という体たらくになり果てた。
次第に部屋には蠅が湧くようになり、貯金も底をつきそうになる人生の低迷期にはさらに彼を追い打つ出来事が起こった。
ある芸能人が交通ルールを破った無茶な運転をしたことにより、子供を含んだ八名以上の一般人を死傷させてしまったというニュースだ。そしてその被害者の中には矢田の肉親である父と母の名もあった。
半ば絶縁状態にあった彼にとってであっても、その知らせには心がひしゃげた。だが、自身の荒んだ生活のこともあって、彼はまず何よりも金を優先する姿勢を見せて、遺族代表として率先してその芸能人に対する訴えを行った。
社会でもかなり知名度のある芸能人の起こした不祥事のため、自然とその事件に対する注目度は高まった。彼は持ち前の声のでかさと過去に仕入れたその芸能人の不倫ネタや以前にも起こしていた交通違反のケースを掘り返しては徹底的にその芸能人の過失を追求する姿勢を見せ、多額の賠償金と慰謝料を獲得することに成功した。
矢田には他に兄弟もなく、借金も遺言も残さなかった両親の遺産は矢田が単純承認により全てを獲得した。矢田は生家でもある両親の家を居住用として相続したことで節税を行いながらも帰省を果たし、まとまった金を得たことにより以前よりも遥かに丁寧な暮らしを行うきっかけとなった。
新調したタキシードに身を包んで町を歩き、また記事でも書き始めようと思い始めた矢先、彼にはその町の実情が改めて目に入ってきた。
少し先の道路を暴走する車。酒気帯び運転による大胆不敵な当て逃げの様子を彼は目撃した。
跳ねられて道路に蹲るのは小学生相当のまだまだ小さな子供だった。その子供は頭から血を流して悲痛な叫びをあげていた。目の前で倒れる人間を放っておける性分でもなかった彼は子供に駆け寄って様子を確かめた。命に別状がある様子ではない。なんとかして助けなければと思った。
子供は道に飛び出したわけでもなければ、信号を無視して横断しようとしたわけでもない。ただ当然のように青信号を待ってからのんびり歩いて横断歩道を歩んでいただけなのだ。そんな子供がいきなり殺される理由なんてどこにもない。
子供を抱えて歩道に行かなくてはと焦る矢田。彼の焦りもあってかその場ですぐに躓いてしまう。信号は既に切り替わっており、はたから見れば何かを抱えた男が道路の真ん中で不気味に転んでいるようにも見えるかもしれない。
やや渋滞気味になった道で待機している先頭車両が何度もクラクションを鳴らしてきた。何に焦っているのかはわからない、ただ車の中で大声をあげているのはわかった。車の運転手はエンジンを派手に吹かしながら矢田の眼前を突っ切った。鼻先に風を感じるような極めて危険な距離での走行だ。矢田は怯んで再度転んだ。
子供を助けなければいけない。それなのに、この町の人間はなんと愚かなんだろう。
自分の親を含めたかなり大規模な人身事故が起きてそう経たないうちだというのに、なぜそんな危険な運転ができるのだろう。矢田は困惑した。
一度動き出した車の流れは止められなかった。道の真ん中に血だまりを作っている矢田を意に介さないようにして車が信号に吸い込まれるように道を進んでいく。子供からはもう泣き声は聞こえない。聞こえるのは微かに訴えるような呻き声だけだ。
世界の中で自分だけが孤立しているようだった。誰もがチラリと横目に流した視線の中で矢田の目を見る。だが、助けに出るものなどいなかった。それどころか迷惑千番とでも言わんばかりに煽りのクラクションを鳴らすものや、遠くからパッシングを浴びせる車さえあった。
信号が黄色に変わる。大粒の涙を流す矢田がたまらずに駆けだす。だが、その町はどこまでも矢田に厳しかった。
黄色信号を見て感化されたのか、一つの高速走行車両が一層勢いを強めた。黄色信号になったばかりでは姿も見えなかったようなその車は途轍もない勢いで道を進んでくる。赤信号になったとしても、すぐにならば問題ないと考えているのだと矢田は感じた。だが、このまま走ってこられれば間違いなく自分は轢かれるとも直感した。
止まれ。どうかこの子供を殺させないでくれ。
信号も変われ!赤になれ!少しでいいから言うことを聞いてくれ!
願いは叶わずに矢田は子供もろとも危険車両に轢かれてしまった。
彼は全身の打撲と一部の骨の骨折により入院を与儀なくされた。病院のベットで聞かされた話は二つ。
一つはこの手の交通事故がこの町では非常に多いという話。なんでも病院の人間からすれば慣れてしまうほどにこの町では当たり前の光景となりつつあるそうだ。
もう一つは自分が助けようとした子供は最後の車の追突にとって即死してしまったということ。矢田の入院部屋にはおそらくその子供の親が持ってきたと思われる花が飾られていた。看護師曰く、子供の両親は心を病んでしまって精神科に罹っているそうだ。
矢田は心が痛かった。子供が死ななくてはいけなかった理由がわからなかった。
この町の常識を疑った。生きている自分でさえ矛先がわからないこの怒り、無念は死者には余りあるのではないかと思われた。
信心深くもなく、霊感もない矢田だったがそれからしばらくは悪夢に魘されるようになった。
寝る前に想像していたようなこの町で交通事故で殺された無辜の人々が夢の世界で自分に無念を訴えてくる。これは想像の産物だとわかっていても、彼にはその声を無視し続けることができなかった。なぜならその亡霊たちの気持ちが理解できるからだ。残された者のやるせなさだって、彼には想像に難くない。
起きた後も病室には不穏な影がちらつくようになった。自分のベットに無礼にも上がり込んでのそのそと迫ってくるのは命を救うことができなかった子供の靄だ。子供は死んでもなお、痛みを訴えて矢田にしがみ付いた。悲しそうな声も悔しそうな台詞もまた自分の妄想に違いないとわかっていながらも、矢田はその悪霊を静かに抱きしめた。
そして夜になればいつだって会うことができるとわかった。
子供だけじゃない、感情を共有できる多くの魂が病院には集まる。
だからこそ、彼は悪魔に魅入られた。
何もない夢の世界に町が形造られていく。どこまでもふざけて呪いに溢れたこの町が。
『お前の夢を問う』
悪魔が矢田に力を与え、夢を問いかけた。
その答えこそが矢田の固有冠域として夢の世界に固有冠域として顕れた。
復讐に燃える悪霊たちの饗宴。
自分こそがルールとして君臨できる町。全ての車を意図して操れる法外な力。
心は鬼に変質し、命を踏みにじることを何とも思わない怪物がその世界には爆誕した。
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繰り出された黒い太陽を用いた大技。それは黄昏と夜のみが肯定される世界に夜明けを齎す一撃だった。
黒い太陽は悪霊たちを飲み込みながら上昇していく。暁と名付けられた技にふさわしく、その町があった夢想世界を果てまで照らすような煌々とした光が当たりを満たす。その太陽が仮に実際と同様にまかり間違っても黒い色などしていなければ、その光だけで周囲が燃え尽きていたかもしれない。
だが、黒い芯を持った太陽は静かに青い炎の悪霊たちを燃やし尽くした。遺恨の隅までに届くような密度の高い火力。未だに敗北を許容できずに叫び散らす悪霊たちの怒号もまた黒い太陽がその全てを掻き消してしまった。
見事な絶景を前にキンコルとスカンダは自身の固有冠域を解除した。どちらも周囲の景色を一変させる強力な空間生成能力だが、アンブロシアが今体現しているその太陽の生み出す光景は形容し難い尊さがあるように思われたからだった。
「悪霊を燃やす太陽か……こりゃあ怪しげな霊感商法の輩には即刻店を畳んでもらわなきゃな」
「なんて奴だろうね。アタシ、あいつに結構生意気なこと言っちゃってたけど、あとでボコられないかな?」
呆けたように立ち尽くす二機のボイジャー。二人は仲良く並んで立ちながら、揃ってその太陽の中で青い炎が燃え尽きるさまを見届けた。
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「ッ!?!]
太陽が悪霊に憑りつかれた鬼を燃やしつくした後、気が抜けたアンブロシアの首に何か強い力が生じる。
今一度目を剥いて周囲を見ても何もいない。だが、まるで何十人もの大勢にしがみつかれているかのように全身に強い負荷がかかる。すると今まで瓦礫に埋め尽くされていた足元がネバネバとした泥のように変質し、どこか穴のようにも見えるその泥沼に足が取られる。
首が絞められ、胴を掴まれ、足元からは沼に引きずり込むような力が働いているようだった。声も出せずにもごもごと訴えるアンブロシアの異変に他の二機のボイジャーは気がつかなかった。
「……行こう」
「…一緒に逝こう」
「地獄にいこう」
「ほら、はやく」
「ぼくたちと一緒に」
「さぁ!さぁ!」
まるで信号鬼という依り代を失った悪霊たちがアンブロシアもろとも地獄に引き込もうとしているようだった。そのためか足が沈んでいく泥の先には何か奈落染みた恐怖をひしひしと感じてならない。
(誰か…っ!……誰かッ)
だが、次の瞬間にはアンブロシアの表情には安堵が滲む。
何の心配もないと感じた。
何故なら、自分を守ることを心に決めた誰よりも頼りになる剣士の姿が目に映ったから。
「私のボイジャーを二度も殺させてやることなど、絶対にしないッ」
舞うような剣の軌跡。祈祷にも似た剣舞によって不可視の悪霊の呪縛が解かれる。
彼女は二度も三度も思い切り足元の泥を斬り割いた後、イメージにより顕現した大量の爆弾を起動しながらその泥に放り込んだ。爆風に乗るように、剣士はアンブロシアをお姫様のように抱きかかえてその場から跳躍する。強い風を頬に受けながらアンブロシアはその痩躯から力を抜いて言葉を絞り出した。
「ありがとうございます。白さん…」
「よくやった唐土君。この戦い、君の勝利だ」
---------------------- 一章 『信号鬼』完
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