第十九話:裏腹

「さて、そろそろ帰るか?」

「うん、そうだね」

「あら、お帰り?」

 晃一郎こういちろうが言って、十五谺いさかが同意し、涼子りょうこが名残惜しそうに視線を向ける。

「ご馳走様でした」

「はぁい、お粗末さまでした」

 代金を支払って、出入り口のドアに設えられているカウベルを響かせる。

「ありがとうございましたー。またね」

 涼子の明るい声を受けて、晃一郎は歩き出す。途端にびゅうと冷たい風が吹き抜ける。

「はわぁー、寒ぅー」

 言ってから、十五谺はほーと白い息を吐き出した。

「あぁー、テストやだなぁ……」

 家に帰ったら流石の晃一郎も試験勉強をしければならない。この世に定期試験を楽しみにしている学生などいるのだろうか。

「晃ちゃんととおるさんはヤバいんでしょ?テスト」

「亨と同列にされたくはないけど、確かにヤバい」

 何だか楽しそうに言う十五谺に憮然として晃一郎は言い返す。

「でも亨さんはお姉ちゃんと勉強してるみたいだし、晃ちゃんのがヤバくない?」

「……確かにそうかも」

 ふと部室で勉強していた面々の顔が思い浮かんで少し憂鬱な気分になる。

「わたしじゃ教えられないしねぇ。ま、頑張ってよ」

「ヒトゴトだなぁ……」

 二十谺はつかに聞いた話では、十五谺は勉強はできるらしい。実に意外だ。二十谺にその話を聞くまでは本当にアホの子だと思い込んでいたので、十五谺にとっては失礼極まりない話なのではあるが、実に人間とは見かけに依らないものだ。とは言うものの二十谺は見た目から知的な感じがする。顔は似ていてもまとう雰囲気は人それぞれ、ということなのだろう。

 些細な話をしながら、中央公園へと向かう。

「え、あれ?大丈夫だよ」

 公園の入り口に差し掛かったところで、十五谺がそう言った。この間送らなかったことも相まってか、遅ればせながらに晃一郎が十五谺を送っていることに気付いたのだろう。

「また面倒に巻き込まれたくないだろ。十五谺がアイツと寄り戻す気あるんなら話は別だけど」

「ぜぇったい、ない!」

 ぷぅ、と唇を尖らせて言う十五谺の可愛らしさと、寄りを戻す気など更々ないという気持ちを再確認できて、晃一郎も笑顔になる。

「んならもしまたアイツがきても俺がいた方が何かといいだろ。もうあんなこともしてこないだろうしさ」

 単純に十五谺ともう少し一緒にいたいという気持ちが強いが、十五谺を守るということも今の晃一郎には必要な行動だ。

「うん……」

 急に十五谺の声の張りがなくなった。

「邪魔なら帰っけど?」

 まだ怪我も完治していない晃一郎への気遣いだろう。

「そ、そんな訳ないでしょ!折角送ってくれてるのに!」

 慌てて十五谺は声を張り上げた。


 そして男は案の定現れた。昨日の今日で現れたと言うことは、自分が所属している組織の上層にいる人間を舐めてかかっているのかもしれない。改めて見ても中々痛々しい顔をしているというのに。

「……十五谺」

雄太ゆうた

 男の名を短く呼ぶ。晃一郎は何も言わない。雄太と呼ばれた男と十五谺の出方を待つ。

「見せしめのつもりかよ」

 雄太がそう言って晃一郎を見た。

「……違うよ」

 低く、十五谺は呟くように言う。

「あぁ。あんたらがまた来るかもしれないから俺が勝手に張り付いてるだけだ」

 十五谺の気持ちも思いも、そこにはない。ただ、晃一郎がそうすべきだ、と思ってやっていることだ。

「は、てめぇにどうにかできんのかよ、ヘタレ野郎が」

 ポケットに手を突っ込んだまま、攻撃的な視線を晃一郎に向ける。

「あんた、十五谺にちょっかい出すのは禁じられてるんじゃないのか」

 怒りはこみ上げてきたが、それでも怒気を抑えて晃一郎は雄太に言う。

「だからどうした。禁じられてようが何だろうが、十五谺を想う気持ちは上の連中には判んねぇよ」

「……」

 本当にそうだろうか。同じだとは絶対に思いたくはないが、十五谺を想う気持ちは晃一郎にもある。だけれど雄太のそれは、十五谺を想う気持ちではないのではないだろうか。十五谺を手に入れたいという雄太の身勝手な欲望だとしか思えない。口先だけだ、こんな言葉は。そんな自己中心的な考えだから晃一郎の言葉で、雄太の所属している組織と何らかの繋がりがあって情報を得ている、とは想像もできない。

「ごめん、わたしも判んない」

 雄太の言葉にかぶせるように冷淡に言い放つ。先日とは打って変わって、本当に断ち切るつもりなのだろう。

「そりゃ、そうだろうけど……。反省してる。あんなことは二度としねぇ、って言ったろ」

「それのどこが信じられるの?反省してるって口だけじゃない!」

 声を荒げて十五谺は拳を握った。

「だからそれは!」

「反省してるんなら何で晃ちゃんに謝らないの?晃ちゃんにしたことは当然だとでも言うの?直接手を下した訳じゃないから知らないとでも言うつもり?そんな当たり前のこともできないで、雄太のどこを信じろって言うのよ」

「……」

 十五谺の言うことは尤もだ。そしてそれは十五谺と晃一郎が経験してきたことだ。自分の過ちをしっかりと自分で理解して、傷つけた人に謝罪をする。そうして晃一郎は、バンドメンバーにもKool Lipsクールリップスのメンバーにも理解は得られたし、十五谺とも仲良くなることができた。

「晃ちゃんね、判るでしょ、あんた達がギター壊したんだから。バンドやってるの。ライブも近いの。それなのに怪我させて、一体何人の人に晃ちゃんが頭を下げたか、一度でも考えたことある?」

「十五谺、それはもういいよ」

 今は晃一郎の問題ではない。十五谺と雄太の問題なのだ。起こってしまったことを今言っても何も変わらない。例え雄太が謝罪をしたとしても、裏切られて傷ついた十五谺の心が癒える訳でも、晃一郎の怪我が治る訳でもない。

「良くない」

 きっぱりと十五谺は答えた。

「周りの人を判ろうともしないで傷つけたのは、わたしも一緒だった。でも、ちゃんと謝った。理由も言った。それで全部納得してもらえないってことも判ってるけど、きっと許してくれない人もいるだろうけど、少なくともわたしは、お姉ちゃんとも晃ちゃんとも、仲良くなれたもの。それは、お姉ちゃんも晃ちゃんもわたしが信じて、そのわたしを信じてくれたからだって思う。だけど、今の雄太は何も信じられないでしょ」

 そういうことか、と思う。再び付き合うということは確かにないのだろう。だけれど十五谺は雄太に間違ったままでいてほしくないのだ。最初に晃一郎が十五谺に抱いていた感情と似ている。あの時、十五谺を想う気持ちは晃一郎の中にはなかったが、何とか理解をしたい、間違ったまま、お互いを誤解したままではいたくない、と思っていた。それが今、また十五谺のお陰で一つ、確信となった。

「わたしは、雄太とはもう付き合えない」

 十五谺はそうきっぱりと言い放った。

 毅然とした態度、厳しい口調。意を決した十五谺の横顔は二十谺そっくりだ。

「……」

 雄太は返す言葉もないようだった。仄暗い感情が晃一郎を支配して行く。知らなかったとはいえ、騙されていたとはいえ、十五谺は晃一郎を襲った男と一度は関係を持った。雄太はその事を知らないのだろう。晃一郎がその場しのぎの男だとかいう前に、とっくに十五谺の気持ちは雄太から離れていたことを信じたくなかったのか。結局、結果から見れば、雄太もあの男に裏切られ、十五谺は好意を利用された。沸々と沸き上がる怒りに支配されそうになる。

「行こう、晃ちゃん」

 十五谺の言葉が晃一郎の思考を遮るように言った。

「あ、あぁ」

 雄太を無視して十五谺は歩き出す。十五谺の怒りは晃一郎のそれよりもかなりの物のようだった。その怒りが晃一郎に向いている訳ではないことが判っていても、たじろいでしまう。

「へ、判ったよ……。お前、気をつけろよな。お前はその場しのぎで」

 最後まで言い終わらないうちに、十五谺は踵を返し、雄太の頬が鳴った。

「へへ、聞かれたくなかったかよ!」

 雄太の頬をひっぱたいた十五谺の胸倉を乱暴に引っ掴んで、雄太は大声を上げる。一瞬だけ十五谺の足が地面から浮く。

「ちょっと、待て!」

 晃一郎は雄太と十五谺の間に割って入った。

「るせんだよてめぇは!」

 十五谺を放した手が拳を作り、がつと晃一郎の左肩を殴り付けた。

「!」

 余りの痛みに声を上げることすらできない。

「晃ちゃん!……良く判ったわ!雄太!」

 晃一郎に殴りかかったせいで自由になった十五谺が雄太を突き飛ばして声を張り上げた。

「そうやって、口先だけで生きて、後先考えないで、それならわたしもそれなりに対処させてもらう!」

 蹲って肩を抑える晃一郎には十五谺がどんな表情をしているかは判らない。

 ただ、怒っている。本気で。

「晃ちゃん、立てる?」

 晃一郎の右脇に自分の身体を入れて、十五谺は晃一郎を立たせようと全身に力を入れる。十五谺に負担はかけまいと晃一郎も足に力を入れた。

「ん、だいじょぶ……」

 何とか立って、視線を上げた。雄太が目を見開いて、こちらを見ていた。

「そ、それなりにって、どういうことだよ……」

「あんたが一番ビビる方法に決まってるでしょ」

 十五谺の言葉を受けて、晃一郎は制服の胸ポケットに収まりっぱなしだった伊庭の名詞を取り出して、雄太に見せた。

伊庭いばさんはわざわざ俺たちのところにまで来て、頭を下げてくれたよ」

 ややあって、目を見開いていた勇太の顔色が変わった。

「……わ、悪かった!それだけはカンベンしてくれ!」

「あんた、晃ちゃんに何をしたか判ってないでしょ?今何に対して謝ったの?言ってみなさいよ!」

 十五谺の横顔はほんのりと紅潮していた。こんな時なのに、激烈な怒気を発する十五谺の横顔に、晃一郎は見惚れてしまった。

「……い、今までのこと全部だよ。お前にはもう近付かない。約束する!だからそれだけはカンベンしてくれ!」

 雄太は本気で恐れているようだった。見た目は殴る蹴るの暴行を受けた程度なのだろうが、その内容は晃一郎の想像を絶するものだったのかもしれない。ばれなければ良いなどと甘い考えでいるからそういうことになる。自業自得でしかない。十五谺を想う気持ちが聞いて呆れる。

「十五谺、行こう……」

「でも!」

「いいだろ、このこと全部伊庭さんに言えば済むことだよ」

 まだ言い足りないのであろう十五谺を晃一郎は促した。こんなくだらない人間に関わって、怒りに支配されれば、晃一郎も同じくくだらない人間に成り下がる。

「や、やめてくれって!頼むから!」

 態度を急変させ、いっそ無様さまで感じてしまう雄太に向き直り、晃一郎は口を開いた。

「じゃああんた、今すぐ俺のこの肩、治してくれよ。それと、他のバンドのメンツにウチのバンド手伝ってもらってる時間、スタジオ代、おれの壊れたギター、全部、返してくれ」

「……」

 無理だと判っていることを晃一郎は雄太に投げかけた。当然雄太は言葉に詰まる。どれほどのことを自分がやってきたのか、その十分の一、いや千分の一でも解らせるために、晃一郎は言葉を繋げる。

「できないんだったら……」

 一瞬だけ雄太の目が期待を帯びたものに変わる。もっと自分でもできることを期待しているのかもしれない。だが、今の晃一郎が何よりも許せないと思うことを、そのまま雄太にぶちまける。

「十五谺の傷ついた心を癒せよ。何も、ことが起きる前の十五谺の心に戻してやれよ。あんたの身勝手な思い込みで十五谺がどんだけ傷ついたか、考えたことあんのか」

 晃一郎は一気に捲し立てる。それこそ無理な話だ。この世界に存在する何者にだってできはしない。

「それができなきゃ俺達はあんたにやられっぱなしだ。そうだろ?」

「……」

 雄太は俯いた。少しくらいは自分がどんな権利を持って他人を傷付けたのかが判るだろう。

「俺がどれだけ痛い思いをしたか、どれだけの人に迷惑をかけたか、十五谺がどんなに傷ついて悩んできたのか、あんたは知る必要があるんじゃないの?」

「……勘弁してください!ほんと、マジで勘弁してください!できることならなんでもしますから!マジ勘弁してください!」

 雄太はいきなりその場で土下座をし始めた。もはや無様を通り越して哀れだ。

「善悪も良いも悪いも判らないあんたのその土下座、あんたのプライドなんか一つも傷ついてないでしょ。屈辱も味わってないでしょ。わたし達がここであんたを許せば、後で土下座なんて何が減るもんじゃないし、とか言って笑ってるんでしょ」

 雄太を見下ろす十五谺の視線は、驚くほどに冷たい。

「そんなこと」

「……わたしは、絶対あんたを許さない」

 雄太の言葉を遮って、呪いの言葉を吐き、十五谺の表情が冷笑に変わる。綺麗だ、と見惚れたのもつかの間、どこまで本気なのかは判らないが恐ろしい女だ、と少々晃一郎もしり込みをした。

「行こう、十五谺」

「……うん」 


 結局十五谺の家の前まで、晃一郎は十五谺を送った。今この場で一人にするには余りにも危ない。

「で、どうすんだ?」

「何が?」

 きょとん、として十五谺が訊き返してくる。先ほどの怒りに満ちた表情が嘘のようにいつもの可愛らしい顔に戻っていた。

「伊庭さんに言うか?」

「晃ちゃんにその気がなければ言わないつもりだけど」

「だよな」

 あそこまで怒りを露にして、それに恐れていた雄太は正直に言って気の毒というレベルを飛び越していた。晃一郎としてはこの先十五谺や自分達に関わらなければそれで良い。

「あんだけ言っときゃ流石にもう関わってこないだろうし」

 いざとなれば切り札もある。

「そうだね……」

 静かに、十五谺は言った。

「あの、晃、ちゃん……。わたし」

 伏し目がちに十五谺が続ける。何となく言いたいことは判る。どうするべきか、どう反応するべきか、悩む。

「あ、あぁ、別にいんだって、気にしてねぇから!十五谺も気にすんなって!な?」

 わざと大きな声を出して晃一郎は笑った。肩が酷く痛むせいもあって、明らかに作り笑顔なのはもうこの際仕方がない。

「で、でも……」

「いっつぅの!んじゃ帰るわ、じゃな!」

 余りにも不自然に背を向けてしまった。

(だって、しょうがねぇじゃん)

 所詮その場しのぎでしかないのだ。怪我をした時のことも、昨日のことも、今日のことも。それは仕方のないことだ。十五谺がそのことについて何かを考える必要はない。晃一郎自身がそう言ったのだ。

(十五谺の背負ってる荷物は持ってやることはできないけど、十五谺が助けを必要とするんだったらいつでも助けるよ)

 本当ならば背負っている荷物だって共有したい。あの時はそうは思ってはいなかったが。今は違う。だからこそ、十五谺の気持ちが判ってしまうその一言は、晃一郎には堪える。

 聞きたくない。

「あ、ありがとっ!」

 十五谺の声を背で受けて、そのまま軽く右手を上げると、振り返らずに晃一郎は帰路に着いた。


 第二十話:裏腹 終り

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