フィボナッチの兄弟達に、ささ……
ポテろんぐ
第1話
絵の具を一滴でも垂らせば、もう真っ白ではなくなる。
もっと言えば、真っ白な紙が完成した瞬間に空気中の埃やチリなどがくっつき、それはもう真っ白ではない。
もっと言えば、紙の製造段階で不純物が混じり、真っ白ではなくなってしまう。
小学生の頃、授業中に不思議に思った。
この世に真っ白なキャンバスは存在しないんだな、と。
僕は頭で純粋な真っ白なキャンバスを強く想像してみた。何も不純物も混ざっていない純粋な真っ白なキャンバス。
それ自体がもう芸術だ。
練習に練習を重ね、僕はどんどん真っ白なキャンバスを想像できる様になった。
僕の頭にしか存在しない究極に真っ白な状態。
それを想像するとスーッと心が落ち着いて行った。
僕は心が落ち着かない時は、真っ白のキャンバスを想像する様になった。
大学教授をしていた父の影響もあり、母は教育熱心な人だった。
僕は物心ついた頃から周り同級生よりも勉強ができて、「将来は日本一の東栄大学」と呪文のように言われていた。
家庭内だけならまだしも、家の外でも、学校の先生、塾の講師、挙句には僕の友人に至るまでが「悠太は絶対に東栄大だよ」と、強要する様に言って来た。
地方都市で都会ほどレベルの高い生徒が少なかったからかもしれないけど。
小さい街にいる誰もが、僕を日本の最高学府の頂点に入れたそうに、僕を監視しているように感じた。
何故、東栄大にこだわるんだろうか?
他人に人生を強いられているようで、次第にうんざりして来た僕は、塾へ向かう足が重くなり、その日はいつもと違う道を曲がってみた。
その道は、お母さんから『不良が多いから近付いちゃダメ』と言われていた道だ。
だからこそ、僕の反骨精神が刺激され、その道を歩いていると僕の心は自由になれた気がした。
日が暮れかけていた。
どの家からも夕飯の支度をする匂いがする中、その家からだけは食べ物とは違う香りがした。
──絵の具の匂いだ──
石塀の穴から家の中を覗くと、窓を開けて大きなキャンバスに絵を描いている大人の人が見えた。
お父さんと同じくらいか……年上くらいの人だ。
匂いに夢中で気が付かなかったけど、この家からピアノの音もしていた。割と大きなボリュームなのに、なんだろう……アニメとかの曲とは全然違う、綺麗というか悲しい綺麗な曲だ。
その時、絵を描いていたオジさんが僕の視線に気付いて、微笑んだ。
オジサンは真蔵さんという名前だと言った。寝る枕と同じ読み方で真蔵だ。
その日、僕は塾をサボって真蔵さんの家にお邪魔した。
「うわ」
真蔵さんが描いていた絵を見た瞬間、僕は思わず声が出た。
僕の学校の近くにある河原の絵だった。色から何まで写真そっくり、キャンバスの中に切り取って来たみたいに上手だった。
「私はね、一度見たものを永遠に忘れないんだ。瞬間記憶と言ってね」
「だから、こんな写真みたいに描けるんですか」
僕がその絵に見惚れていると、真蔵さんは謙遜する代わりに笑った。
「こんなのはただ絵が上手いだけなんだよ」
「上手いじゃダメなんですか?」
「人に訴えかける感情がこもっていないんだ。ただ、写真みたいに写しただけ。生き物で言ったら剥製と同じだ」
真蔵さんは隣の部屋のオーディオから聞こえてくるピアノの音を指差した。
「この音楽には人の心を動かすものがあるだろ?」
「……うん」
音は見えないのに、僕には真蔵さんが指差した先にある音が目に見えるようだった。その証拠に僕と真蔵さんの二つの視線は部屋の同じ空間を指していた。
「音が生きている。これが本物だ」
「誰の曲なんですか? 聞いた事ないです」
「売り物じゃないよ。これは私の教え子の曲だ」
「絵だけじゃないんですか?」
「伊達に歳をとってないよ。絵や戯曲、小説、色々教えたね」
真蔵さんはそう言って目を閉じ、流れてくる音楽をタバコを吸うように鼻から体内に吸い込んだ。
「でも、やっぱり音楽は良い。どこにでも簡単に完璧な姿で持って行ける」
美味しそうにタバコの煙を吐き出すように、しみじみとそう言った真蔵さんを見て、僕は「ならなんで絵を描いているんだろう?」と不思議に思った。
それから真蔵さんの弟子だった人たちの作品を色々と見せてもらった。
そこにあるほとんどの作品は絵も音楽も詩も小説も、どれも僕の心を動かし、イマジネーションを掻き立てられた。
その日、僕は真蔵さんから油絵のやり方を教わった。
「綺麗な絵なんて描いちゃダメだ。思ったことをぶちまけるんだ」
今まで溜まっていた心の不満とか、そう言ったものをキャンバスにぶつけるのはサンドバックを殴る様で気持ちよかった。
でも──その時は絵を描くのに夢中で疑問に思わなかったけど──なんで、弟子の人達は自分の作品を真蔵さんに預けているんだろう?
絵はまだしも、楽譜や小説なんかの作品って普通、自分で保管するものじゃないのだろうか?
その日、家に帰ると塾から電話が行っていて、僕はお母さんからこっぴどく叱られた。
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