第六話
目の前に、夜叉がいる。仕掛けようとした悪事の露見を証するように。
覆しようもないその現実を前に、星舟は双肩の力を抜いた。
だがただ一つのその眼は、絶望に染まっていない。むしろ傲然と顎を反らし、ハンガを見下した。
軽い当惑を眉で示したのは、むしろ彼女の側だ。
「……バレたってのに、ずいぶんと落着き払ってんじゃないのさ。あの子に会うのが、目論見だったんじゃないのかい」
伝法にそう問う領主未亡人に、星舟は首を振った。
「いや? オレの狙いは、ハナからあんたでしたよ。いくらご子息を抱え込んだとして、実権を握るあんたがウンと言わなけりゃ意味がないでしょ。我が子が狙われれば、あんただってさすがに酒を抜くだろ……お初にお目にかかる、シラフの御母堂。二年前より末席を汚しております、夏山星舟と申します」
皮肉たっぷりに辞儀をすれば、
「まんまと一杯、食わされたってわけか」
苦笑が転がる。自らが酒飲みであることを踏まえての自虐か。
「そんな訳だ。ここは一旦子どものことは置いておいて、これからのことを話しましょ」
「すまん」
……そして酔いが醒めても、星舟の言葉を中途で折り、そして頭を下げた。
「他のことには目を瞑る。だからあたしら親子を、放っておいてくれ」
生物としても、立場としても遥か格下の相手に、低頭しながら彼女は言った。
「対尾でイクソンを失くした、そしてかろうじて助かったシグルも、次の疾病で喪いかけた。もうたくさんだ……戦も、時流に抗うことにも……疲れた。戦いたいヤツだけが、戦えばいいだろう。衰えた者は、降りる。それが自然の流れというものだろう」
常の酩酊の裏にあるものを、この時星舟は初めて知った。
短期間にあまりにも多くのものを、この家は奪い去られた。今なおその傷が癒えていなかったからこそ、彼女はその穴に酒を注ぎ続けた。その胸中は察するに余りある。そして、なまじ海運に携わる者として、情報は海の外の時勢、竜種がすでに時代に取り残されつつあることを、敏く感じ取っているはずだ。その弱音にも、
だが、
「なに言ってんだ。そんなこと許されるわけねーだろ」
星舟は、鬼となってそう言った。
「旦那が海に沈みましたから戦いません。ガキが死にかけましたから領主辞めます。そんなことが罷り通るわけがないだろ。己の命がすでに己ひとりのものじゃない。それが人の上に立つってことだ。道楽で支配者やってた
今まで溜め込んで来た鬱憤を、星舟は自分でも驚くほど冷静に発揮した。
だが、失意傷心の未亡人に反応はない。ため息を吐いて、星舟は足を動かした。
「あんたじゃ埒が明かないってんなら、やっぱりシグル様に話通すしかありませんね」
……それは、半分本気で半分挑発を兼ねていた誘い文句だった。
あるいは、という仄かな予感が、彼の生死を分けた。
星舟がハンガを横切ろうとした瞬間、本能が彼の身を半歩分後ずさらせた。
鼻先を、風が掠めた。彼の頭部の向こう側にある、壁が粉砕された。
寸時寸尺、ずれていたら間違いなく頭骨が同じ末路を迎えていた。
その事実と、背に冷たいものが流れるのとを同時に感じる。
「じゃあ、仕方ないね。こっちは筋を通した。その最後の温情を、踏みにじったのはお前だ」
すぐ隣に接するハンガの姿が変容していく。その手から、錆色の刃が抜かれていた。珊瑚礁を想わせる色味と形状の装甲が彼女を鎧い、カブトガニの背甲がごとき仮面の奥で、殺意の眼光がぎらついている。熱波のようなものが、星舟の顔面に叩きつけられた。
「残念だよ、また家宰を入れなくちゃならない」
白々しい嘆きとともに、その彼女の後頭部から、髪の毛がごときものが伸び上がる。
ごときもの、である。正確には、その一筋一筋が、太い鉄鎖の質感と重さを持っている。
「いいや、そんな人事は
虚勢を大いに含んだ啖呵を切った星舟に、怒髪天を衝くという表現に相応しく、その鎖の髪が意志を持っているようにして浮き上がったのだった。
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