8話 終わり
1
二十一時十七分。
事態は完全に収拾がついたが、大騒ぎになったことだけは覆しようがなく、学園の校舎周りは普段のあの奇妙な静けさや重苦しさから解放された、少なくともミハロ・クローバが教授に就任して以降で最大の賑わいを呈していた。
学園中の人間がここに集っているのではないかと思われた。なんだなんだ、と野次馬のように次から次へと寮から出てきて群がり始める。捕獲したカピバラの数より見物人の方が数が多いかもしれない。それくらいの人数が中庭、レトリシア・スディの手で四方を区切られた拡張封印空間の周りに集って、それこそ動物園よろしく中に押し込められた魔法獣のカピバラを珍しがって見つめていた(あと「こっちは本当に何これ」と言いながら観覧車を見上げていた)。
「とりあえず、」
そんな中、ミハロは。
「一旦これでカピバラ集めは終わりです。皆さんご協力ありがとうございました!」
「どういたしまして!」
「私はここで待ってただけだから、気にしないでね」
「意外に楽しめたな。結構出来が良いんじゃないか、あの魔法獣は」
中庭に面した講義室の一角。
いつもの講義で使う部屋の隅で、捕獲に付き合ってくれた三人に礼を言っていた。
外はがやがやと騒がしいものだから、窓硝子を一枚隔てただけのこちら側の静けさが際立つ。壁に掛けられた時計は、いつもだったら誰にも見せないような夜の時間を指し示す。入れない場所に入ったような感覚。少しだけ、夢の中にいるような感覚がミハロの中にある。いつもならもう入浴したりなんだりと就寝の準備をしている時間帯だから、微かな眠気もある。適度な運動までしたから、なおさら。
で、とディー・ヨドが言うのを聞いて、その眠気が少し晴れる。
「どうするつもりなんだ。ここからは」
「どうしよっかなー、って感じです。片付くことには片付いたし、別に安全終了をかけて終わりにしちゃってもいいんですけど、時間をかけて用意しただけあって内蔵魔力量は大したものなんですよね。レトリシア、結界はこれ――」
「必要なら一晩くらいは張っていてもいいけど。大した出力でもないし。でも、二日三日になると飽きちゃうからダメ」
「十分です。いつもありがとう。……うーん。折角だから即廃棄より、もうちょっと有意義な使い方をしてみようかなって気も――」
「そっちじゃなくて」
話を途中で止めてきて。
ディー・ヨドは、ちらり、と。ミハロにだけわかる程度に視線を動かして、囁いてくる。
「向こうの話だ」
視線の先では、保護した学生たちが行儀よく座っている。
座らせるのはすごくスムーズだった。彼らを迎え入れる係をしてくれたレトリシアはそう証言した。適当でいいから座っておいてと告げたところ、本当に全員スムーズに座った。今どきの子は散らばって座るのが上手い。テキパキしている。そういう講義もしているの? していないし、それにもちろんミハロは知っている。それは別に譲り合いの精神がどうだとか効率がどうだとか、ましてや上座と下座がどうだとかそういう話ではなく、全員が全員、定位置を知っていただけなのだ。
夏学期の頃は。
全員ここで、大人しく講義を受けていたのだから。
「お前の受け持ちの学生たちなんだろう。何か指導とか、説教をする場面なんじゃないのか」
「え、」
「なんだ」
「話しましたっけ、私。この子たちみんな受け持ちの生徒だって」
「いや、偏見で言った。問題を起こしたということはお前の担当する学生なのだろうな、と」
怒るかどうか微妙なラインだ、とミハロは思った。
純粋に性格から類推されている可能性もあるけれど、今日半日を「学生が全く講義に出ない」という話に付き合わせ続けたことから類推されたとすると、全く妥当な予測である気がする。一旦見逃してやるか、とミハロは思った。
「……説教。……どういう……?」
見逃してやるから相談に乗れ、とも思った。
「どういう感じのがいいと思います? 説教マスター。なんかこう、いい感じのを伝授してください」
「ミハロ。少なくとも説教マスターだと認識してる相手に説教の仕方を教わらない方がいいよ」
「仕方ない。説教の仕方を説教してやるか……」
「ちょっと待って。私がその前に説教の仕方の説教の仕方を説教マスターに説教すれば説教説教マスターマスターになるってこと?」
「なんて?」
「その言葉って一回真ん中で分離してから左右で挟み込むんですか?」
「二連撃の変形か? これは」
「あ、全部二回言えばいい感じですか?」
「嫌だろ。全部二回言ってくる説教は」
「強いんだろうね。伝えようという意思が」
「――あの、」
そんな風に話していると、不意に。
声をかけられて、ひとりの学生が席を立ってこちらに近付いてきていたことに気が付いた。
「クローバ教授。本当にありがとうございました。それから、ご迷惑をかけてすみませんでした」
深々と、頭を下げられて。
あれ、とミハロは思う。見覚えのある顔で、ちゃんと何となくの雰囲気まで覚えている学生だったから。
宿題は全然やってこないし、ノートは取らないし、その割に全然自主学習もしていないし、自己評価の割に実力が伴っていない、そんな感じの学生。裏で自分のことを「あいつ」とか呼んでいるタイプ。
こんなに殊勝に頭を下げる印象はなかったな、と思えば。
ぼそぼそと、耳元のあたりでディー・ヨドが。
「……一般的にはな……人は自分の身の丈を超えた失敗をすると……怖くなって急に……自律心が芽生えたりするんだ……」
「……そうなの……? ……私は全然……」
「……お前は……身長がでかすぎる……観覧車くらいある……」
悪い気はしなかった。
「今回の魔法獣の暴走は、全部自分のせいです。特にクゼ・ピクセルロードは無関係で――」
「え?」
驚いてミハロは、目の前の学生から視線を動かした。
動かした先はもちろんクゼ・ピクセルロード。「まあ、そうと言えばそうです」という調子の顔をしている。もう一度、今度は深く驚く。
「クゼくんなしで魔法獣を作ったの? 独学で? 他のクラスの子も混じってないのに?」
「は、はい」
えー、と思って、ミハロは。
「やるじゃん」
「――え、」
「形取れてるよ。関節も全体的にスムーズだし。夏期末のときは立体問題ほとんど落としてたよね。勉強した?」
「あ、えと、」
はい、と学生は頷いた。
いやでも、と。後ろを振り返った。みんなに手伝ってもらって――あ、違う。全然その、いや、なんつーか。おい水臭いこと言うなよ。そうだよ、私たちだって手伝ったよ。ノリノリだったよ。先生、俺たちも悪かったんです。今までのことも含めて、本当にすみませんでした。ありがとうございました。
へー、とミハロは思った。
そうかそうか、とも思って。
「じゃあみんな、講義に出てない間もちゃんと勉強してたんだ」
「……はい。というか、講義に出なかったのは――」
「そ! じゃあいいよ!」
にっこりと笑う。
素直に、嬉しくなったから。
「ちゃんと勉強してるなら良いよ! 話を聞いてるより手を動かしてる方が楽しいって気持ちはわかるし! 自主的に勉強して、実作まで持っていってるんだから言うことなし! それはそれでえらい!」
「え? ……え――」
「でも危機管理が甘いのは純粋に危ないから、それだけは好奇心とは別枠で先に身に着けた方がいいね。教科書だとそういうのをまとめたページがないから――」
どうしようかな、言うことなしって言ったけど言うことあったな、とミハロは思う。頭の中に、様々な要素が浮かんでくる。
自主的に勉強するようになったのは喜ばしい。だったらその危機管理に関する文献を紹介するだけでもいい気がする。けれどディー・ヨドが「指導……責任……」とおどろおどろしくも小さな声で呟くから、いやもっとかも、とも思う。責任を持って自分が教え込むべきなのかもしれない。しかし思い返してみればそもそもそれができれば、つまり自分が頭から尾っぽまできっちり教え込める環境があれば最初からこんなトラブルは起こらなかったわけで、そう、即ちこの学生たちが明日もこの殊勝な態度を保って講義に出てくるかどうかについての信頼がどうたらこうたらという話になるわけで、だから遊園地をここに――
「…………」
と、思いながら。
ミハロは遠く窓の外、高くそびえる観覧車を見上げて考える。
「やっぱ、罰ゲームね」
「ば、……つゲーム?」
「そ」
使うなら、
「罰として、遊園地を作ってもらおうかな」
今か、と。
2
「…………なあ、クゼ」
「さっきから手より口の方が動いてないか?」
「いや頑張ってるよ! 頑張っててこれなの!」
「そうか。すまん」
「いや……手が遅いのは事実だしいいんだけどさ。…………」
「…………」
「…………なあ」
「手」
「何やらされてんの? これ」
「イルミネーションの設計と実装」
「なんで?」
「勉強」
「クゼさーん! ジェットコースターの安全帯の設計なんですけど――」
「……こことここ。数字が違う。素直に計算ミスだ」
「クゼくん! メリーゴーラウンドのモデルにする馬の種類って――」
「さっき教授に生物図鑑を……あ、向こうで使ってるな」
「クゼ! お化け屋敷なんだけど――」
「怖くない方がいい」
「いや――」
「怖くない方がいい。……よし。それでいい」
「…………」
「…………」
「……あ、これ上まで届かね……」
「大丈夫? 高いところは危ないから、僕がやるよ」
「あ、すみません」
「全然! 気にしないで、何かあったら言ってね」
「オルキス。ジェットコースターの方の連結も手伝いでやってしまおう。力技だ」
「りょーかーい。……でも、力技でいいの?」
「さあ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……なあ、クゼ」
「ん」
「なんで、手伝ってくれてんの。お前関係ないじゃん、この罰」
「なんでって……だって、」
「だって?」
「楽しいだろう。これ」
「…………」
「…………」
「…………うん。まあ、そうだけど」
「だけど?」
「…………そう、っすね」
よし、と。
白い息を吐きながら、小さく呟く。
3
茫然と、ナノ・カッツェは目の前の光景を見つめていた。
冬の夜の、夢のような光景。じっと。寒風に吹かれて、剥き出しの頬が赤くなることだって厭わずに。
「あ、あの~……。カッツェ准教授、今、時間大丈夫ですか……?」
「っ、はい。どうしました」
「ここ、教えてもらってもいいですか……? 低級相似体で成功した後のスケールアップで、ここの三番目の操作がよくわからなくて」
ああ、ここは、と。
差し出された専門書を指差しながら、ナノは答える。省略化されていますが、分解公式の基本形が適用されているだけで、丁寧に読み解いてみればいいだけの箇所です、と。
わかりました、ありがとうございます!
そう言って学生が離れていく。訊いてきちゃった、と元気に笑って、友人たちの輪に入っていく。その背をナノは見つめている。
こんなことがあるのか、と思う。
「教務主任」
今度は、知っている声で話しかけられた。
だからナノは、予想しながら振り向く。予想通りの顔がある。
ミハロ・クローバ教授。
「今、学生の質問に答えてもらってましたよね。すみません、時間外なのに」
「いえ、気にする必要は……クローバ教授。今、よろしいですか?」
「はい。大丈――そこー。なんとなくで魔法を完成させない。自信がないときはちゃんと防護壁張る。面倒でも徹底して、魔力量もちゃんと鍛えるようにしてー。……すみません、」
大丈夫です、の言葉は、向こうから返ってきた「わかりました」の声にほとんどかき消されてしまう。そのくらいには、活気がある。
ついさっきナノがこの事態について、集まってきた学生や寮監、さらには守衛に説明している最中のことだった。
ぞろぞろと、校舎の中から学生たちが連れ立って出てきた。その中にクローバ教授の姿もあった。ナノはてっきりこう思った。ああ、注意が終わったのだろう。自分も今日のところは魔法獣用の結界作りの補助に入ったりなんだりで著しく疲労した。今日のところはこれで解散に――
と、思っていたら。
「今から遊園地を作るんですけど、気にしないでください」
一言、クローバ教授が言って。
あとはそのまま、流れのとおり、茫然と。
「何のために、これは……?」
していたから、ナノは訊ねた。
「あと、そもそもこの観覧車は一体……?」
「ちょっと色々ありまして……」
語れば長くなる話なんですが、とクローバ教授は言う。
だから論文みたいに結論から、とも言う。
「学んでもらおうと思ったんです。これから『自分で学ぶときに必要になること』を。重点的に」
それは、とナノは思う。
禁止事項のことなのだろう、と。
見ていてわかった。クローバ教授は学生たちをいくつかの班に分けた。ジェットコースター。メリーゴーラウンド。お化け屋敷。イルミネーション。そしてその後、彼女はこう言った。
好きに作ってみて。
横から、鬱陶しいくらいに口出すから。
実際のところ、彼女の口出しはほんの最小限のことだったけれど、そのどれもが的確だった。
学生たちが設計を考える。実装を始める。その経過の中で、踏んでいる禁則事項があったら丁寧に指摘する。物によってはミニチュアのスケールで再現して、それによって発生する問題をその目で確かめさせる。
学生はさらに創意工夫を始める。
遊園地という『利用者の安全を第一基準とする施設』を建造していく中で、何がどういう理由で禁止されているのか、理解を深めていく。
理想の教育のことを、ナノ・カッツェは思った。
かつて目指して、諦めてしまったそれのこと。
「別に私は、今回のはそこまで大きな失敗だと思ってないんです。実際、監督者がちゃんとついていれば大した問題じゃないし。それよりも自分で何かをしようとしたことの方が、自分から何かを学んで、それを形にしようとしたことの方が、ずっと重要だと思ってます」
澄んだ声で、クローバ教授は語る。
見物人たちから声が上がる。先生、俺たちも参加していいですか。いいよー。たったその一言で、ここに集っていた野次馬たちが一斉に『学ぶ人』に変わっていく。お互いがお互いに教え合う。間違いがあれば、あるいは正解があれば、教員たちまでがそれに混ざって学びに向き合っていく。
「だったら、頭ごなしに叱り付けて禁止するより、『こうすればよかったんだよ』って教えてあげる方がいい。ただ教えて終わるよりも、『じゃあまた自分でやるときはどうすればいいんだろう』をじっくり、安全に考えられる場所を提供してあげた方がいい。一生私が傍に付いて教えてあげられるわけじゃないし、絶対にどこかでは自分の力で学び始める時が来るから。その日のための準備をしてあげたくて」
それで目の前に、ちょうどいい教材があったので。
それに作りかけで、なんだかもったいなかったし。
「それは、」
そう言ってはにかむクローバ教授に、ナノは。
「それは――」
昔のことを、思い出している。
前職。医薬品の研究開発をしていた頃のこと。後輩たちの世話をすることで感じ始めた、教えることの喜び。これまで知らなかった自分の側面。自分より、他者の成功の方を嬉しく思うこと。その思いのままに飛び込んだ、全く新しい業界。教育現場。
理想と現実のギャップ。
別に俺たち、勉強がしたくてここに来てるわけじゃなくて――
「教務主任」
「っ、すみません。少し、考え込んでしまって」
「いえ、それだけならいいんですけど……」
あの、とクローバ教授は声を潜めて、
「泣いてます?」
「いえ。泣いていません」
「そうですか?」
「ええ。全く」
強がりを言って。
瞼をきつく瞑って三秒。強がりを、本音にして。
「ただ、僭越ですが少しだけ。全く叱らないというのも、よくありません」
「う。……そうですか? もう反省してるからいいかなって……」
「意地の悪い言い方かもしれませんが、見た目からは本当に反省しているかわかりません。それにその反省がどれだけ正確かも。今回の場合は、その正確性に対するフォローアップはできているようですが、」
「よしっ」
「わかりやすい叱責のポーズは、問題の存在や程度を明らかにする効果もあります。『あの程度で済んだんだからもう一回』は、重なっていくとひどいことになりますよ」
えぇ、とクローバ教授は言う。
時には必要なことです、とナノは言うが、しかし思う。ひょっとすると、彼女にとってはそうではないのかもしれない。
目の前に広がるこの光景。
学生たちがその楽しさを感じながら魔法に取り組む、夢のような光景を見つめながらでは。
「ジェットコースター、できました!」
「お化け屋敷も終わりでーす!」
「メリーゴーラウンド、まだ手こずって……。あ、嘘。ここ計算ミス? ……すみません、いけました!」
次々に、報告は上がっていって。
最後に控えていた班も、周囲の助けを借りて、ようやく。
「イルミネーション。終わりました。……終わったんですけど」
「けど?」
「魔力源の確保が……。一応、クゼがやってくれれば三秒は点くんですけど」
「死にます」
「そうなるとここにいる人間の魔力を合わせてもそこまで長い間は点灯できない計算になっちゃって……。すみません、見当付いてないです」
ふふ、とクローバ教授は笑った。
「そうかな。折角作ったものなんだから、自信を持ってあげればいいのに」
「……? 何に、ですか?」
「カピバラ」
彼女は言った。魔法獣たち……ついさっきまで、そして今でも、遊園地を作る人々の足をゆっくりと動き回っていた、今や彼女の魔法の力で無力化されたそれらを指して。
「これ、使っちゃってもいい?」
「いい、ですけど」
「ありがと。有効活用させてもらいます。レトリシア・スディ!」
「制御? それとも供給パスの方?」
「パスの方をお願いします」
「お安い御用。そちらの方も、よければ一緒にどう?」
「……私ですか?」
「ええ。ほら、ちょっと仲良くなったから」
指名されて、ナノ・カッツェはレトリシア・スディの隣に。何をするんですか、と訊ねる。教えてもらえる。
絵面を想像して、ちょっとだけ噴き出す。
「牽引用で考えてたんでしょ?」
クローバ教授が杖に魔力を込めながら、学生たちに問い掛ける。
「小さい割にパワーが強いから。魔法馬車を引く馬の代用にして、今まで以上に場所を取らないとか、そういうアピールをするつもりだった?」
「は、はい。……それでその、銀行から融資を受けて、事業を興せたらな、って」
「もうちょっと時間はかかりそうかな。あそこ、結構細かく見るから。今回の設計から不具合が取り除けても、生成コストとか実際の使いどころとか、細かいところを詰めていかないと」
でも、本質はそこじゃなくて。
「自分で作ったものの使い道を、自分で狭めちゃうのはもったいないかもね」
一、二、三。
音楽を鳴らすように、彼女の杖の先が降られる。
ぱっ、と光った。無数のカピバラたちが光の粒に変わっていく。そしてその光の粒が寄り集まっていく。数が数だから、すごく大きい。とても自分では制御できない量だ、とナノに思わせるくらいに大きい。
その大きいのが。
四、五、六、で形を取り始める。
途方もなく大きな、カピバラの王として。
「……見ていると、思い出すな」
「ヌゴプロ?」
「お前、そんな略し方してるのか」
「昔の話をするとき不便じゃない? どうしてる?」
ふたりの男が、そんな会話をしているうちに。
七、と杖が振られる。どしーん、どしーん、と地を揺らすような重々しさでカピバラは動く。動いて、そこにすっぽり収まる。
観覧車の中。
まさか、と。そのとき半分くらいの人間が予想して。
もう半分は、多分もう、笑ってしまっていたと思う。
「さ、供給路を」
「はい」
八。最後の一振りを彼女が終える。
そして、予想通りのことが起こり出す。
カピバラが、観覧車を回し始めた。
滑車を回すハムスターのごとく、一心不乱にカラカラと。すごい勢いで。だからナノも負けていられない。レトリシア・スディとともに、その運動を魔力に変える。観覧車の底に取り付けられたケーブルを介して、この中庭の、小さな遊園地全体にいきわたらせる。
ぱち、とひとつ点いた。おお、と歓声が上がった。
ぱちぱち、とふたつ点けばさらに歓声は大きく。ぱちぱちぱち、と点けば。
もう、止まらなくて。
光の庭と大歓喜が、夜の学園に現れた。
「さ、アトラクションを試してみてください。自分たちがどんなものを作ったのか、その目で確かめてみましょう!」
それから先のことについて、少しだけ記しておく。
学園に存在する、不思議な行事の話だ。
それは冬に行われる。なぜ冬なのかと訊ねられれば、多くの現役学生はそれに答えられない。妙に歴史に詳しい者だけが、さも当然の知識かのようにこう答える。最初にやったのが冬だったからだよ。そして、ではなぜ最初にやったのと同じ時期にいつまでもやっているのか冬は寒いぞわかっているのか正気なのかと訊ねられ、うーん……と困りながら相槌を打つ。
学生たちの、自主性を育むためのものなのだと言う。
一番最初は、夜に行われた。けれど当然、夜になってまで学生を活動させるのは治安上よろしくないことだから、そのうちそれは昼に、やがては朝から晩まで、二日にわたって行われるようになった。何か実現したいアイディアを学生たちが持ち寄って、それを叶えるために様々な魔法的課題に取り組んでいく。
様々なドラマがある。
クラスやクラブの結束を試されることがある。準備の中で絆を深めて、親友や恋人になることもある。ずっと俯いて過ごしていた引っ込み思案が、研ぎ続けた力を発揮して、「自分はここにいる」と叫ぶこともある。喝采も挫折も、全てが起こる、奇妙で輝かしい時間。時を経るにつれてそれは、一番最初にあった華やかさに加えて、あまりにも様々な顔を持ち始めたから。
やがて、こんな風に呼ばれるようになる。
文化祭、と。
ナノ・カッツェは、それを見ていた。
初めての文化祭に立ち会った教員として。それを語り継ぎ、行事として確立していく者として。
自分たちが学んだものが、何かに活かされていくことを知る。
自分たちが『何かに影響できる』と知っていく若者たちの顔を、見つめていた。
「カッツェ教務主任。供給の方、変わります。ちょっとこれじゃキツめに――」
「クローバ教授」
「はい?」
「あなたがここに来てくれて、良かったです。心から、そう思います」
二十二時十八分。
それはこれから長く長く続く学園の歴史に新たな、そして非常に重要な一行が書き足された瞬間のことであり。
同時に少なくない数の若者たちが、これからの一生を共にする魔法を、心から好きになった瞬間である。
その一瞬があっただけで、それはどうしようもなくかけがえのない夜であり。
この瞬間のためだけにこの一日があった、と締め括ってしまってもいい。
だから。
その後にミハロ・クローバ教授が「じゃあ後片付けも兼ねて、やっちゃいけないことを全部やるとどうなるかも見てみようか!」と全てを爆発させ、後日、順当に学園を解雇になったことなどは。
まあ、別に。
そんなに、重要なことではないのだと思う。
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