追放されたら能力の真価が発揮されて俺だけセカンドライフがウハウハになった、の逆で冒険者としては完全無欠だったのに引退後の人生がハチャメチャになって終わろうとしている人たち
7話 まだいける! 走れ! うおおおおお!
7話 まだいける! 走れ! うおおおおお!
1
「やば……己の才能が楽しすぎる!」
「よかったな。恐れより喜びが先に立って」
「めっちゃいいじゃん、ミハロ! 綺麗に出来てるよ!」
「私も今度、ミハロに家を建ててもらいたくなってきた」
二十時五十五分。
一階講義室で、ミハロ・クローバは大変調子に乗っていた。
床には物が散乱している……というほどひどくはない。早めに引き当てた衝撃吸収絨毯の上に様々なものが降り落ちて、そのままこちら側の空間でディーやオルキスの手によってひとまとめに置かれたり、ミハロとレトリシアの手で向こう側の空間に収納され直したり。作業を始めてみれば存外早い。散らかりはそれほどでもなく、レトリシア・スディの『博物館』とすら呼べるコレクションたちは、怒涛の勢いで美しく整頓が進められていた。
そして存外早いと言えばもうひとつ、肝心の目的の方があり。
ミハロはこの短時間で、観覧車の基本的な設計と実装を終えていた。
「自分でびっくりしたかも。私、遊園地を作る才能まであるんだ……」
「正直、少し納得した。なぜ四人のうちでお前だけが今でも仕事が続いているのか不思議だったんだが……」
「人徳でしょ」
「純粋に荒野の外の社会において汎用性が違うな。『世界を救う力がある』というより、『力がありすぎて世界も救える』という方が実態に近い」
「人徳でしょ」
「二回言っても『はい、そうです』とはならんぞ」
「ミハロ。私のその話術を使いこなすためには、発言の内容や音の感覚、発話のテンポが重要でね」
「えー、すごいなー……。僕、観覧車が出来上がるところなんて初めて見たよ……」
夜の闇の中には、ぼうっと観覧車が浮かび上がっている。
寒いから講義室の窓は閉じている。さっきまでは本当に寒かった。今はそんなでもない。部屋を暖めてみたから。
暖かい部屋の中から、ミハロは椅子に座って、外の景色をじっと見つめている。
夜に見る観覧車は、大きすぎる獣のような存在感を放っていた。ついさっきまで腕によりをかけていたものであることを前提としてなお、「不気味だ」と言われたら「そうですね」と答えてしまいそうな程度には雰囲気がある。あるいは、観覧車や遊園地が本来持つはずのあの華やかで柔らかい雰囲気がない。今にも足が生えて立ち上がり、腕が生えて、校舎をゴカーン!と殴りつけてきそうに映る。
それもそのはず、と。
理由に見当がついているから、彼女は焦らない。
「あとは魔力源ですよね」
きらきらさせるためのものが、まだ足りていないから。
「これだけだとただのでっかい金属の骨組みって感じですし。なんか怖い」
「ミハロが魔法を使って回したり光らせたりはできないの? できそうだけど」
「できる! ……けどめんどくさい。他のも色々同時に動かすと、リソース持ってかれちゃうし」
「恒常的な魔力供給を求められるものについては、非人的リソースを用いて運用するのが基本ね。事故防止にも繋がるし。……魔源。たぶん、このあたりに入れたと思うんだけど……」
「ちょっと待てレトリシア。いまお前が触ってるのはさっき諸々収納し直した場所じゃないのか?」
「気のせいじゃない? 気のせいじゃない?」
「その二連撃をやめろ」
レトリシアとディーが目録と水の中とで突き合わせを行っている声を聞きながら。すごいねえ、と窓際で白い息を吐いているオルキスの後頭部を見つめながら。頭の中で、ミハロはさらに計画を立てている。
一番の大物は観覧車のつもりだった。それがこれだけ短時間でほぼ完成した。思い立って始めた時間がすでに夜だったために明日以降への持越しを覚悟していたけれど、これはひょっとしてひょっとするだろうか。徐々に作るよりも一気に完成させてしまった方がプロモーション的なインパクトもある。これは今夜、いつもより少しだけ夜更かしするのも――
「――ん」
振り向いた。
入り口の方に向かって。
「どうした?」
「いや、なんか今……」
こういう動作をしたとき、一番最初に目敏く気付いて声かけをしてくるのはディーだ。同行者の些細な変化にすぐ気付く。「え、何かあった?」と一拍遅れて心配してくれるのがオルキス。多分この『一拍遅れる』性質が、彼を様々な組織的悪事の現場に導いているのではないかと思う。
「気持ち悪い感じがしませんでした?」
「した」
そしてレトリシア・スディは大抵の場合、自分と同じものを感じてくれている。こういうところが、ミハロがレトリシアに懐いている理由のひとつでもある。
「結界を張っておきましょうか。念のため。私、奥の方をやるから」
「そうですね。この部屋、結構レトリシアの貴重品も広げちゃってますし。じゃ、私は廊下側で」
そうと決まれば、とミハロは椅子から大きく足を伸ばして、飛び降りるようにぴょん、と床に降りた。魔力を練りながら歩く。何か媒体があるとしばらく保つからと、「このへん何か借りてもいいですか?」「このあたりがいいんじゃない?」のやり取りを経て、いくつかの魔法具を手に取る。レトリシアは窓際へ。ミハロは背中を向けて反対の、廊下の方へ。魔法具を置いて軽く魔力を――
込め始めたところで。
講義室の出入り口。寒気が入り込んでこないようにと閉めた扉の向こうから、足音が微かに聞こえてきた。
「誰だ?」
耳を澄まして立ち止まれば、いつの間にかディー・ヨドが隣に立っている。誰だろう、と相槌を打つその直前に、「ああ、あいつか」と彼は言う。誰だよ、とミハロは思う。扉をわずかに開ける。
誰なのか、すぐにわかった。
階段を下りてその足音の持ち主が、廊下の向こうに姿を現したから。
『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような人物で。三十代中盤、女性。役職は教務主任。
名前は。
ナノ・カッツェ。
二十時五十九分。
2
二十時五十七分。
七階の、クローバ教授の教官室の前でナノ・カッツェは茫然としていた。何か信じられないものを見ていると思った。夢だろうか。手の甲を摘まんで確かめようとした。冬の肌はつるつると痩せて掴めない。確かめられず、ただ茫然とし続けた。
観覧車。
観覧車?
しかしかろうじてナノ・カッツェは、魔法学園の准教授らしい落ち着きを取り戻した。落ち着いて窓を開けた。寒い。寒さをものともせず、しっかりとその建造物を見る。たった一時間前には存在していなかった。そんなわずかな時間に建造できるはずがない。幻だと思う。幻ではない。どこかから完成品を運んできたとしか思えない。けれどそれも、一時間で観覧車が建造された可能性と同じくらいありそうにないことに思える。
誰が、と思ったとき。
すごく単純に、ナノ・カッツェの思考はひとりの人物の名を挙げた。
ミハロ・クローバ。
こんな離れ業ができるのは、学園広し深しといえど彼女くらいではないか、と。
もう一度上から覗き込む。何も見つからない。だからここまで苦労して上ってきた階段をまた駆け下りる。いるとしたら一階だ。観覧車の足元だ。六階。五階。三階。どこまで行っても踊り場の向こうに観覧車が見えている。いつの間にか悪夢の中に迷い込んでいたのではないかという気分になる。次に見たときには観覧車が回り出しているのではないかと思う。何か良くないことが起こりそうに思える。
階段を下り切る。
廊下の向こうで、講義室の扉から顔を出しているのを見つけた。
「クローバ教授、」
だからナノ・カッツェは、そうして名を呼んだときに、お互いがお互いを認識したときに生じた彼女の表情の変化にひどく安堵した。それはこの学園の中で働いていて、あまりにも見慣れたものだったからだ。
彼女は「やべ、見つかった」という調子の顔をしていた。
それから「見つかったからなんだ?」と拍子抜けしたように表情を緩めた。
前者は、とナノは思う。よく問題児がやる。それは必然的に自分に叱責の役割を課すものであるので、ある意味非常に憂鬱な表情なのだけれど、今だけはそうでもない。あの観覧車にミハロが関わっていることはほとんど確かなのだろう、と推し測れたから。少なくとも学園に対する何らかの、深刻な攻撃ではないと楽観できる。そして後者の表情は「自分のしていることについて相手からの理解が得られるだろう」という予測から生み出される。そのはずだから。
大丈夫だ、と思った。
クローバ教授は、あの観覧車の見た目のおどろおどろしさ、行動の突飛さを自ら理解しながら、しかし何か「一般的に通じるはず」と自分で確信できる程度の理由を持って行動に当たっている。
だから、ナノは少し歩く速度を緩めた。胸を撫で下ろした。それから遅れて、この夜の校舎に再び入った目的も思い出した。まだ彼女は帰宅していなかった。残っていた。この観覧車のことも訊きたいから、この時間からじっくりと相談というわけにはいかないかもしれないが、それでも別れ際に一言伝えるくらいのことはできるだろうと思う。
つまり。
私はあなたの力になりたいと思っていますとか、そういうことを。
「こんばんは。少しお話をしたいことが――」
彼我の距離は十歩。
話しかければミハロは言葉を受け入れるような顔をする。その表情が記憶していたよりも、イメージしていたよりもずっとあどけなく見えて、もっと早くにこうするべきだった、とナノは思う。
もう一歩踏み出す。
足に何か、膝くらいの高さの生温かいものが触れたような感触がする。
二十一時。
視線を下ろす。
カピバラがいる。
「…………?」
疑問符を浮かべて、ナノ・カッツェは立ち止まる。
カピバラの奔流に呑み込まれる。
二十一時一分。
3
「なん――ヤバいヤバいヤバい! 助けてクゼ!」
「助けてって言ったって――」
二十一時。
学園校舎の薄暗い隠し通路では、とても収拾のつかない事態が発生していた。
カピバラの奔流である。そう言うほかない。少なくとも今日初めてここに来て、人生で初めてこんな事態に巻き込まれているクゼ・ピクセルロードにとってはそう言うほかない。そしておそらく、以前から講義をサボってこの場所に入り浸っていた他のクラスメイトたちも、その感想に大した異論は持たないはずである。
「おいヤバいヤバいヤバい!」
「は!? 何、ケージ割れてる!?」
「全部!?」
「何だよこれ! このまま銀行まで行く気か!?」
「ちっげーよ! 暴走だ!」
「ハムスターの反逆ってこと!?」
「やっぱり生き物を作るなんて許されてなかったんだあ!」
「何回言ったらわかんだよ魔法獣と動物の区別つけろって!」
「だから人形はやめようって言ったじゃん! 呪われるんだって!」
「人形の髪が伸びんのは湿気のせいだって言ってんだろ!」
「食われるー!」
訂正。人によっては『ハムスターの反逆』や『人形の呪い』と言った感想を持つこともあるらしかった。
しかし残念ながら、そうした違いからお互いの感性の多様性を確認し合ったり、それを基にして会話に花を咲かせるだけの余裕は彼らにはなかった。なぜと言ってそれはもちろん、
「おい扉も割れてるって!」
「塞げ! 計画が漏れる!」
「それ以前の問題だろ! バリケードぉ!」
「無理無理無理! 全然漏れてる! てか増えてない!?」
大惨事がものすごい勢いで進行しているからである。
学園校舎。隠された空間の一室。話はそれだけに全然収まっていない。
カピバラを収めていたケージのことごとくが壊れた。もう途轍もなく景気良くバッキーン!と壊れた。これらのケージがさっきまではきっちりカピバラの突進に耐えていたことを考慮すると、これは魔法の失敗によりカピバラが著しく強化されていることも意味する。
カピバラたちは一目散だった。
この場に大人しく留まってやろうという気持ちを、毛ほども見せなかった。
一斉に部屋の外に出ていく。さらに廊下を走りまくって、隠しエリアの外にも飛び出していく。その一目散っぷりと言ったら並のものではなかった。毎日に退屈し、ここではないどこかに飛び出そうとする青春真っ盛りの無鉄砲な若者のようだった。そのここではないどこかに飛び出そうとする青春真っ盛りの無鉄砲な若者のような勢いのまま、それを食い止めようとして立ち塞がった青春真っ盛りの無鉄砲な若者たちの腹部にものすごいパワーで突進して「おげえっ!」と吹っ飛ばしたりしていた。
そして、見間違いでなければ。
ものすごい勢いで増えている。
「こっちに固まれ! 僕が何とかする!」
結局クゼは、そう叫ぶ他なかった。
おおっ、と歓声が上がる。期待の目を向けられる。期待に応えられるほどの腕はない。クゼは思う。毎日講義に出て、あらゆる期待に応えられる腕を持つ人を間近で見ているからわかる。自分はそこまですごくない。
「全員揃ったか!?」
「おい馬鹿こっち来いって!」
「いや、ここは俺に任せて今のうちに――」
「黙らせろ!」
「はい、クゼ様っ!」
「連れてまいりました!」
「クゼ・ピクセルロード大魔法使い様っ!」
「何とかしてください、大先生!」
「ああ」
だから、あえてクゼは皆の期待を一身に受け止めて。
杖を振って、普通に裏切ることにした。
「『離れ小島の不思議な小鳥』」
ふぉん、と全員の足元に青い明かりが浮かび上がった。
は、と口に出したのはいつもの友人だけ。だからクゼは思う。多分その友人だけが知っているのだろうと。
いま自分が唱えたのは、決して大量の魔法獣を処理できる大魔法ではなく。
ただ全員を宙に浮かせるだけの、空中に魔法の足場を固定するだけの、中くらいの魔法であるということが。
「よし」
「…………え、」
しばし、沈黙があった。
『離れ小島の不思議な小鳥』の効力を、クラスメイトたちが確かめるための時間。「まさかこれだけで終わるわけがないだろう」という思いが「まさかこれだけで終わりなんすか?」に変わるまでの時間。
「いや、ちょ――ごめん。言えたことじゃないと思うんだけど」
口に出したのは、やはりいつもの友人で。
「下の方でハムスターが、すっげー勢いで素通りしてんだけど」
「ああ」
「仕様通り?」
「仕様通りだ」
「完全に学園に解き放たれてんだけど」
ああ、とクゼは頷く。
「仕様通りだ」
怒号が沸き起こった。
クゼは両手で耳を塞いで、それをシャットアウトした。
「仕様通りでこれじゃ仕様ミスだろ!」
「どうすんだよ! 制御効いてねえんだろ!?」
「全員呪われる……」
「神の怒りだ……。人類がハムスターに支配される時が来たんだ……」
「てか何なのこれ? 全然意味わかってないんだけど」
「魔法の暴走っつってなかった? 誰?」
「やっちゃったなー、これ」
そして割とすぐに収まった。
こんなものだろう、とクゼは思った。パニックにパニックを重ねていけばとんでもない大パニックになるが、重ねなければ時間経過で解消される。足場の上で、少しずつ建設的に状況の把握が進んでいく。
「はいっ」
友人が潔く手を挙げた。
「自分のせいです。理由は……あー、聞いた感じなんだけど――」
「君たち、魔法獣を作るときに魔法式の簡略化をしただろう」
自分の非を認めるのが嫌というわけではなく、単に知識的な言い淀みだろう。
そう判断したから、クゼはその先を引き継いだ。
「創意工夫の一環だったんだろうが、簡略化を完璧に扱うのは非常に難しい。相似体を高い精度で整える必要があるし、二次元的、三次元的な部分を揃えても、そこからさらにいくつかのチェックを通す必要が出る場合がある。複雑性の高い魔法獣の生成はその典型だ。『アーカーラの時間大定理』の証明過程で五次元軌道の相互復元性チェックが開発されるまでは、『魔法獣の生成式はワンオフで、性質を保ったまま加減・乗除の操作を行うことはできない』とすらみなされていた」
「…………そうなの?」
「今日の講義でクローバ教授が懇切丁寧に教えてくれた」
沈黙が沈鬱に変わったのをクゼは感じた。
とても丁寧で面白い講義だった、と追い打ちをかけてやろうかと思ったが、やめておいた。一撃で十分だろうとわかる程度には皆、一気に沈み込んだ。
「で、どうなんだ」
静かになったから、そのまま畳みかける。
「明らかに魔法は暴走しているが、制御は無理なのか」
「無理っぽい。全然反応しねえ」
「魔力供給の遮断は?」
「無理。独立運用するつもりだったから、常時供給型じゃねえんだよ。みんなで魔力込めまくって作ったんだ」
「自然損耗率は?」
訊ねて返ってきた数字を、クゼは頭の中で処理する。終わったな、と思う。この大惨事がではなく、この大惨事を自分たちで収拾できる可能性が。
「だあっ、くそっ! クゼ! なんか思いつかねえ!? 教員もみんな帰ってるだろうし、寮監はあれだろ。放っておいたらマズいし、いやもちろんこっちでも考えてんだけど、何かこう――畜生! もっと勉強しときゃよかった! 頼むよ、何か画期的な案を――」
「あるぞ」
全員がクゼを見た。
クゼは別に、誰のことも見返さなかった。
「このまま待つ」
「待ってどうなるんだよ」
「解決する」
「いや、だから教員だってもう――」
「クローバ教授がいる」
瞼を閉じる。
もうこうなっては仕方ない、と思う。さっき寮でナノ・カッツェ准教授が言っていたとおりだ。
自分の身の安全を脅かすような行動に出るくらいなら。
そのときはきっぱり心を決めて、潔く怒られなさい。
「さっき校舎の裏に、観覧車があった。あんなわけのわからないものを作るのはあの人だけだし――いつも夜遅くまで、学園に残ってくれてるんだ。僕たちの誰が、いつ勉強したくなってもいいように」
4
魔法は間に合わない。
だから気合で耐えるしかない。そう思ってナノ・カッツェは身を固くして、ぎゅっと瞼を瞑って、衝撃に備えた。
「…………?」
「へー。魔法獣。中等科の校舎で、こんなの作る子がいたんだ。……うわ。全然相似体の構成できてないし。禁止事項の勉強サボってるな、これ」
けれど予想していたような衝撃はなく。
近くでは、今日何度か聞いた声がする。
恐る恐る、目を開けた。
「クローバ教授……?」
「こんばんは。カッツェ教務主任。トラブルですか?」
驚くべき光景、としか言えまい。
ナノはそれを目の前にしてもまだ信じられない。窓の外に観覧車が見えたのと同じくらいには夢のように思える。
カピバラの大群が押し寄せてきたのは、夢ではなかった。
ゆえに、今こうして衝撃を受けていないのには、怪我ひとつないまま地面の上にへたり込んでいるのには、現実的な理由がある。
廊下の端から端まで、一瞬で結界に封鎖されていた。
押し寄せてきた大群が、しかしものすごく緩やかな動きをしている。結界内部を緩やかな縛りの魔法が包み込んでいて、亀よりものろのろと動いている。あれだけいて、あれだけの勢いがあって、なのに全く脅威にならない。
自分がやろうとしたとして、一体どれだけ精密な魔法式と膨大な魔力量が、そして人外染みた反射神経を要求されるのか。全く想像がつかないような、凄まじい魔法。
それを成し遂げた若き魔法使いが、隣に立っている。
まるで魔法など使っていないかのような涼やかで、あどけない表情のまま。
その手にぎゅっと、カピバラを握って。
「クローバ教授。これは一体……」
「魔法獣の暴走みたいですね。とりあえずこれ以上流出しないように校舎は閉じて――」
「ミハロ。ディー・ヨドは?」
言葉が途中で切れたのは、講義室の扉からもうひとり顔をのぞかせた人物がいたから。
随分と背が高い――だからナノ・カッツェは、一目見てわかる。夕方頃、クローバ教授とともに自分の講義の聴講に来ていた人物だ。
得体は知れない。
けれど。
「お? そこに……ああ、もう行っちゃったみたいですね。あの人せっかちだから」
「いつも置いていかれる……。ここに持ってくればそれで大丈夫そう?」
「大丈夫そうです。私も後から行きますけど、有限増殖の性質持ちっぽいので、早めに集めてもらえると助かります」
了解と右手を掲げて、その後こちらにぺこりと会釈して、去っていく。
彼の颯爽とした動作は、どうにもこうした異常事態に慣れているようにも思えた。
「これ、心当たりあります?」
去って行けば、カピバラをでんと突き出しながら、クローバ教授が訊ねてくる。
だからナノは首を横に振って、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「たぶん、一階の、」
昔、この学園に通っていた頃を思い出しながら。
「隠し空間から出ているのだと思います。正確な場所はわかりませんが、これだけの数の魔法獣を作成するには、長期間誰にも見つからない、ある程度広い場所が必要になるはずです」
「隠し空間……。ああ、」
外観と中身が揃ってないのはそれか、と独り言のようにクローバ教授は呟いて、
「一階っていうのは?」
「階段を下る途中では、見かけなかったので」
「なるほどなるほど……。了解です」
んじゃ、と彼女はのろのろと動くカピバラの群れを見つめて、
「とりあえずそっちの様子を確認して、そのあと学園周りで追いかけっこかな。レトリシア・スディ!」
「私、あんまり走る気はないけど」
「お留守番をお願いします。三人でカピバラを集めてくるので、その封印用の部屋を立ててもらえると」
「動物園? 楽しみね」
もうひとり、講義室から出てきて。
そこでようやくナノは、それが誰なのかわかる。
「あと、こちらの方の避難もお願いしていいですか。同僚なんですけど」
「お安い御用。そちらの方、こんばんは。床は冷たいでしょう。手をどうぞ」
近寄ってきて、黒い手袋を外してこちらに手を差し伸べてくれる彼女。
伝説の賢者、レトリシア・スディ。
連鎖的にナノは気付く。先ほどの青年の正体。それから昼、クローバ教授の教官室にいたもうひとりが誰なのかも。
「それじゃ私は行ってきます! また後で!」
「気を付けてね。ミハロ」
片手を挙げて、風のようにミハロが去っていく。レトリシア・スディはこちらを見て、安心させるように薄く微笑む。
恐る恐る、ナノはその手を取った。
「あの、」
「はい。どうかした?」
「何か、手伝えることはありますか」
あまり必要もなさそうですが、と付け足したくなってしまったのは。
世界を救うのと比べたら、それほど大変ではない問題かもしれないと思ったから。
5
「クゼー! 死ぬなー!」
「死んだ」
「本当に死んでそうな顔すんな! お前汗ヤバいし顔青いしどんどん黒目小さくなってるしマジでヤバいぞ!」
二十一時三分。
人には限界があるということをクゼ・ピクセルロードは知り、やはり学園というのは学びに溢れた場所だなあふざけるなよという気持ちになっていた。
単純な話で。
クラスメイトの全員を持ち上げるだけの魔力を延々捻り出していると、人はつらくなる。
「うわあああ! クゼさんの息が白く色付かなくなってる!」
「疲労のあまり体内温度が外気と同じレベルまで落ちてるんだ!」
「クゼくんしっかり! 君が死んだら私たちはどうすればいいの!?」
「落ちろ」
「クゼくんがやさぐれてる!」
「そりゃやさぐれるよこんなことに巻き込まれたら!」
「おい! この魔法、俺たちで引き継げねえのか!?」
「落ちろ」
「クゼくんがやさぐれてる!」
「これ講義でやったんだな俺たちがいないときに!」
「頼む、保ってくれ! クゼの身体!」
「落ちろ」
「あと僕たちを思いやってくれる気持ち!」
もうそろそろいいか、という気持ちにクゼはなっていた。
そもそも自分に全く責任がない。講義には毎回真面目に出てきて、ちょっとピザを三切れ食べにきただけでこの仕打ち。全く釣り合っている気がしない。この足場の魔法を解いてしまえば苦しみからは解放されるしこの勝手なことを言い散らかしている不真面目者どもは綺麗に落下してカピバラの頭突きを食らいまくって死に絶えるしで良いこと尽くめな気がする。気がしてきた。本当にそうだという気持ちになった。
「……クゼ」
けれど、友人が。
「ごめん。巻き込んで悪かった」
「…………」
「なんか、いっつもこんな感じだよな……。ほんとごめん。振り回してばっかで」
悲しそうな顔をしている気がしたから。
それは本当にそうだ、と思いながらも、クゼは。
あと一瞬くらいは頑張ってやるか、という気になって。
「えっ、見たことある顔ばっか」
とうとう、今。
一番聞きたい声を聞くことができた。
「ほんとに見たことある顔ばっかだ。えー……? カピバラの練り込みなんかは中等科離れしてると思ったんだけど。君たち――」
「せ、先生!」
「すみませんでした!」
「死にかけのクゼを助けてください! こいつだけ無実です!」
「え?」
ミハロ・クローバ教授。
クゼにとってはこの一年、ひょっとすると一番声を聞かせてもらった人が、カピバラ片手に無傷で、堂々とそこにいる。
目が合えば、彼女は大いに笑って、
「あ、クゼくんがいたんだ! そっかそっか。で、その魔法は――うん。正面からじゃ厳しいから、上に退避したんだ。判断良いね! でも魔力量を考えると持久戦には向かないやり方になっちゃうから、もう一工夫できるとさらに良いね。足場は魔力以外で、たとえば床を捲って確保してみるとか。『魔法が上手い』っていうのは、意外と技術だけの話じゃなくて、物の見方も含んだ話だったりするからね。クゼくんの実力があれば、もう少し周りに目を向けてみるだけで劇的にやれることは増えるよ。今度の講義はそういう話も扱ってみようか」
「た、助か、り、ます――」
「先生! 次の講義までクゼを生かしてやってください!!」
「息の根が止まる前に助けてください!」
「え、うん。はいはい」
大袈裟な、と言わんばかりの声音でクローバ教授は応えた。
そして実際、彼女にとっては大したことではなかったのだと思う。
パチン、とひとつ、指を鳴らした。
「あ……」
「クゼが生き返った!」
「息が白くなってる! 体温が戻ったんだ!」
「寒い」
「早速汗が冷えてる!」
急に、力が抜けた。
それはもちろん、クローバ教授があの一動作で『離れ小島の不思議な小鳥』を発動して、自分の魔法の肩代わりをしてくれたから。急に軽くなった感触に、反射的に魔法が解ける。割いていた分のリソースが一気に解放されて、体力も魔力も戻ってくる。
足場の上で、顔を上げる。
クローバ教授は汗ひとつかいていない。眼下に延々と流れ続けていたカピバラたちの動きが、凍ったように止まっている。増殖も止まっている。魔法獣を外側から、自分自身が使用者でもないにもかかわらず、完璧に制御している。
「全員大丈夫そう? 怪我とかあったら、パパっと治しちゃうけど」
それでも彼女は、全く堪えた様子もなく。
彼我の実力差に愕然とする。それと同時に――それほど年の変わらない魔法使いとしてはどうかと思うが――クゼは、安心もする。
ああ。
助かった。
「クローバ教授。私たちはこれからどうすれば……」
「とりあえず講義室に……って言っても、もうクゼくん以外わかんないか。一階の――」
「大丈夫です。僕が先導します。いつもの、今は観覧車の足元にある部屋ですよね」
「お、見てくれた!? めっちゃ良くできてない!?」
「見ました。めっちゃ良くできてました」
「でしょー! あれね、建てるだけなら意外と魔力を使わなくてもできるから今度クゼくんにも……って、急がなくちゃ」
寮の方にも広がっちゃいそうだから、と彼女は踵を返す。半身で振り返りながら、少しだけこちらに視線をくれて、
「じゃあ、講義室に集合ね。カッツェ教務主任と私の友達が詰めてるから、もし何かあったらふたりを頼ってもらう形で。他に何かある?」
「教授はこれからどちらに?」
「追いかけっこ。全部追い詰めて、講義室に封印するから。他には?」
「ありません」
じゃ、と彼女は言う。
呪文を唱えると、走りやすいようにだろう、メキメキメキ、と音を立てて変身する。
「お気を付けて」
クゼが声をかけると、彼女は頷いて応え、走り出す。
稲妻のように早い。クゼはその背が見えなくなってもしばらく手を振り続けた。足音が聞こえなくなるくらいまでは少なくとも、ずっと。
「む、」
手を下ろす頃になって気付く。
クローバ教授が、自分たちに残していってくれたもののことに。
薄青い『離れ小島の不思議な小鳥』――それが、自分の展開した範囲よりずっと長く続いていた。すごく長い。長すぎる、と言ってもいい。廊下のずっと向こうまで続いている。ひょっとすると講義室まで続いているのではないかと思う。これならカピバラが急に動き出しても決して怪我をすることはないだろうし、トラブルに巻き込まれる方が難しい。
だから、クゼは立ち上がる。
この魔法が解けないうちに――というより、教授が早くこの魔法を解除できるように、自分が先に立ってこの集団を安全な場所まで連れて行こう、と。
思って、振り返る。
「みんな、講義室に――どうした?」
「……いや、今訊くことじゃないことかもしれねえんだけどさ」
全員が全員、すごい顔をしていた。
怪訝とか、衝撃とか、そういう言葉を絵に描いたり文字に書いたりしたような顔。歯に物詰まったとか、狐につままれたようなとか、そういう顔にも近い。
あまり気の進まなそうな様子ながら。
代表していつもの友人が、その表情の意味するところを教えてくれる。
「あの先生、いまティラノサウルスになんなかった?」
「よくなってるぞ」
強いし、しかもなぜか速い。
さあ行くぞ。
魔法を解除したことでいつもの力強さと真面目さを取り戻したクゼ・ピクセルロードは、全員を先導して先を歩く。後ろからはやはり、怪訝な顔をしたままのクラスメイトたちがついてくる。
結局。
ミハロ・クローバの手にかかれば、この程度のトラブルは物の数にもならなかった。
そのことを知るまであと十二分。
そんな二十一時五分を、彼らは歩いた。
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