第四話『彼らの秘密』その8
後ろめたさがない、といえば嘘になる。
少なくとも勢十郎はあのペンギン直々に退去を命ぜられ、二度と大花楼の敷居を
荒れたままの大花楼は、四月だというのにとんでもなく冷えていた。外から吹き抜けてくる山風が、木造建築の隙間に容赦なく突き刺さり、体温と鍔迫り合いを演じている。
母屋にあがった勢十郎は、迷わず居間へ足を運んでいた。狐面とゴーグル少女が破壊していった家具はそのままになっているが、屋内は多少綺麗になっている。例の襲撃後、住人達が片付けをしたのかもしれなかった。
雲海が描かれた襖を引き開けて、勢十郎は大広間へと足を踏み入れた。
あの年老いたモノガミは、おそらくここにいる。彼はそう目星をつけていたのだが、その予想は大きく外れていた。
「……誰だ、てめえ?」
とんでもない怪物が、そこにいた。
もちろん勢十郎は、大花楼でこんなモノガミは見た事がない。
ところが、
「……わからぬか? 小僧」
仮面兜の奥から、なじみのある声がした。
荒武者のそばには、さっきまで二階にいたはずのお蘭が侍っていた。
これが、モノガミとしてのお蘭の本性なのだろう。
彼女は空になった荒武者の杯へ、
「まさか……、先生なのか?」
「応よ」
「マジかよ……」
「小僧、この姿で会うのは初めてになるのう」
荒武者が愉快そうに笑うたび、鎧の
「俺、東条と勝負するよ。もう決めた」
こうして座ってみると、あらためて相手の大きさがよく分かる。
そびえるような巨体は、かつて出会ったどんな大男よりも雄大で、かつ危険な気配に満ちていた。その気配の正体に、勢十郎は心当たりがある。
東条が、旅館の中庭で一瞬だけみせた気配……、『殺気』だ。
勢十郎を見下ろす仮面の奥には、獣のような瞳が
「運命に魅入られたな、小僧」
この世界のどこかに、自分だけの運命がある。
はじめて大花楼に来た日、あの露天風呂で勢十郎はそう思っていた。
自分だけの特別な体験や、出会い。そうしたものを望んで、勢十郎はここへきたのだ。だが目の前にある『これ』は、彼が想像していたものとは似ても似つかない。
東条も、そうだったのだろうか? 百年以上もかけて、理想とかけ離れていく自分の姿に、苦悩していたのだろうか? あれほどの男でも。
「己の内に答えがない時、人は外の世界へ答えを求める。小僧、お前はあの男に見込まれたのじゃ。次に相まみえる時、あやつはお前の命で、己の切れ味を存分に試すじゃろうな」
「どういう意味だ、そりゃ?」
「運命とは、時にそれを避けようとする者にさえ牙を剥く。様々な出会い、別れ、あるいは試練という形でな。そして運命は、状況に取り乱した者を、順に殺しにかかるのじゃ」
運命というものを甘く夢想してきた勢十郎にとって、この言葉は痛烈だった。まさに彼は今夜、神さえ見放すほどの大
勢十郎の沈黙を、心の迷いであると読んだ荒武者は、酒を呑む手を止めていた。
「小僧、この際はっきり言ってやろう。お前が今熱を上げている『それ』は、一過性のものにすぎん。これから先に待っている、ヒトとしての幸せを、自ら棒に振るつもりか?」
それは、優しい言葉だった。
あの賢明な松川切絵が、けして勢十郎にかけようとしなかった種類の。
……彼女は知っていたのだ。
それを言ってしまったら、この少年がどうなるか。
「……ざけんなよ」
「明日の重みを知れ、小僧」
「あんたが言ってるのは、『親の理屈』だ。勉強して、いい大学行って、就職して結婚してよ。そうやって築き上げた何十年分の成果を“幸せ”だって言いたいんだろ? そんで自分が手に入れたもんを、他人のそれと見比べんのかよ? 俺に、それまでずっと我慢しろってのか?」
「当たり前じゃ。すべての人間は、明日の為に生きている」
「明日なんか意味ねぇんだよッ! 俺は今、勝ちてえんだッッッ! 明日幸せになったってなぁ、今日負けたって事実は、一ッッ生、消えねえんだよッッッ!!」
反撃される、とか。
殺される、だとか。
そうした考えは、まったく勢十郎の頭に浮かばなかった。
あらゆる勝負には、哲学がある。
人生を左右するほどの勝負なら、誰でも慎重になるだろう。たとえ一時の負けであっても、最終的な勝利を目指すのが、戦略の王道である。だが、そうでない者もいるのだ。
たった一度の勝敗に、一生分の価値を見出す哲学が、大槻勢十郎の中にある。
物事を先延ばしにする生き方が、人生の価値を薄めている気がしてならないのだ。
マッチ棒一本分、それ以下でも構わない。一瞬だけ強く輝いて消えたい。他人が一生かけて使うエネルギーを、花火のように使い切る生き様に、勢十郎はよほど価値を感じる。
もしかしたら、法力僧はそれを、『刀仙』と呼ぶのかもしれなかった。
「他人がどう生きるかなんて知らねえよ。けど俺は、どうせくたばるなら、駆け抜けて死ぬぜ」
「愚か者が……ッ」
ばきゃり、と音を立てて、漆塗りの大盃が真っ二つに砕け散る。
盃を握り潰した荒武者の手が、勢十郎の顔よりも大きい。まさか東条と戦う前に、この化け物と殺し合いになるのでは――。
「……いいじゃないか、先生」
畳にこぼれた酒を拭き取りながら、お蘭が急にそう言ったので、勢十郎は面食らう。だが昨日の晩、誰よりも彼を責めたのは、ほかならぬこの金髪美女だ。
格下のツクモガミに口出しされた荒武者は、即座に殺気をぶちまけた。
「お前ごときが、儂に意見か? お蘭」
「死にたい奴は、死なせてやりゃあいいのさ。ねえ? あたしらはいつだって、そうしてきただろう? 先生?」
それは、モノガミが常に人の味方をするわけではない、という意思表示だった。
お蘭の
「小僧。お主はどうしてそこまで、あの刀仙にこだわるのだえ? あやつはすでに黒鉄の依り代を手に入れた。お主が波風を立てねば、穏便に事がすむものを」
勢十郎は、ツクモガミに卑屈な笑いを返していた。
「……先生。あんた、頭はいいけど人間を知らねえんだな。目的を達成してハイおしまい、なんて野郎はいねえよ。後始末が残ってる」
「……後始末、じゃと?」
「アイツはそれだけじゃすまねえよ、必ず俺を殺しにくる。俺でもそうするぜ。目的の邪魔になる奴は、
勢十郎の東条へのこだわりは、それが大部分を占めていた。
こちらからアプローチをかけずとも、あの刀仙は絶対に自分を殺しに来る。その確信が勢十郎にはある。だからこそ、準備は万全にしておかなくてはならなかった。
荒武者が上座を陣取る広間の隅では、先ほどから般若の面の大男が手酌で酒をやっている。
驚くことでもない。モノガミは
「お前も手伝ってくれ、大治郎」
「…………」
「あきらめな、勢十郎。そいつは誰にも手を貸さないよ」
畳を拭き終わったお蘭が、無駄な努力といわんばかりに手を振るが、勢十郎は構わず大治郎に話しかけていた。
「じいさんの……、八兵衛の遺書を読んだ。そこに、お前がなくしちまった記憶の事も書いてあったよ。――、お前が『誰』なのか、教えてやる。だからついてこい」
大治郎は動きを止め、ゆっくりと勢十郎の方を見た。
その般若の面からは、やはり喜怒哀楽は感じられない。しかし、大治郎がはじめて大槻勢十郎に興味を持った事にはかわりない。
さらに勢十郎は、二体のツクモガミに向き直った。
「先生。お蘭さん。俺を助けろなんて言わねえよ。あいつを……、黒鉄を助けるまででいい。手を貸してくれ」
「……おやおや、ようやく言いやがったね」
「なんだよ?」
「いつになったら、あの子の名前を出すのかって思ってたよ」
お蘭はそう言って茶化したが、勢十郎は
黒鉄を助ける、という
しかし大広間には、彼を超える凶悪な思想を持つ者がいた。
「青いのう。誰かを助けるだの、何かを倒すだの、理由をつけては戦いおるか」
「あんたは、違うのか?」
年老いたモノガミは、言った。
「儂か? 儂はただ斬りたい。人が斬りたい。三度の飯より人が斬りたい。それだけで、ええ」
「…………そうかよ」
ようやく勢十郎は、自分がここまで致命的な勘違いをしていた事に気づく。
最も危険なモノガミは、敵陣にはいない。
目の前にいるこの『怪物』だ。
古刀に染み付いた
「儂は、野蛮な時代のモノガミじゃから、のう」
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