第四話『彼らの秘密』その3
教室の中には、ぬるま湯のような心地良さが
隣に座る切絵の目は、教壇に固定されたまま動かない。シャープペンを握る細い指だけが、まるで別の生き物のようにノートの空白を埋めていく。学生らしく彼女と同じ作業をすべきなのだが、チョークを黒板で削る音は、とめどなく勢十郎の耳を通り抜けていた。
……彼の意識は、朝からずっと窓の外を泳いでいた。
ただ、先生に言われるがまま、時間だけが過ぎていた。
胸のあたりが心許ないのは、あの鍔の首飾りがないせいだろう。どうにもしっくりこないというか、調子が出ないのである。あんな不格好なアクセサリに、磁気ネックレスほどの効果があるとも思えないのだが、とにかく勢十郎はあれを外してからずっと、肩が凝ったようになっていた。
もはや大花楼がどうなろうと、あの刀仙が何をしようと、勢十郎にはどうする事もできなかった。隣の席の法力僧が、朝からまったく絡んでこないのも、彼の考えを察してのことだろう。
だというのに、勢十郎はいまだに自分の気持ちを整理できずにいる。
「ま、それも今日でおしまいだ」
授業が終わり次第、彼はこの街を出ていくつもりだった。
わざわざ登校したのは、最後に切絵と会っておきたかったからだった。短い間だったが、彼女には世話になったので、彼も礼ぐらいは言っておいた方がいいと思ったのである。
消化試合のような授業に集中力が発揮できず、勢十郎は暇潰しにスマートフォンをいじろうとした。だが、残念ながら電池が切れていた。
「ツイてねえな……」
ならばチャイムが鳴るまで寝てしまおうと、勢十郎が机の上に両腕を重ねた――まさにその時、彼は腰のあたりに妙な違和感を覚えた。
「……あ」
尻ポケットにねじ込まれていたのは、押し入れの中で見つけたあの奇妙な『遺書』だった。大花楼の主でなくなった今となっては、もはや何の意味も持たないが、それでも勢十郎は茶封筒の中身をあらためる。
万年筆で書き付けられた『遺書PART2』というタイトルには、やはり勢十郎の祖父らしい
ところが、一行目を読んだ途端、勢十郎は頭の中が真っ白になった。
『――なぁ、こいつを読んでいるんだろう? 勢十郎』
「ッッッッッ!?」
力ずくで悲鳴を押し殺した、勢十郎の背中が汗を吹く。
なぜこの文章は、自分が読む事を前提に書かれているのだろうか?
手の中の便箋を握り潰しそうになりながら、勢十郎は
『……俺は、お前が大花楼に来るものと確信している。他の親戚の誰でもない、息子の勘九郎でもない、お前だ。勢十郎』
紙面に書きつけられた
『水道局の人間には、道術をかけておいた。順当にいけば、いずれ引き落としはお前の口座に切り替わっているはずだ』
だがむしろ、勢十郎にはこの遺書を書いた人物こそ本物の祖父だと感じられた。文章から浮かび上がるイメージは、彼の記憶の中にある大槻八兵衛そのものだ。
『……この手紙を読んでる時点で、お前は大花楼のモノガミ共と出会ってるだろうから、そのあたりの話はナシでいく。俺がこいつを書いているのは、お前に頼みがあるからだ。黒鉄にはもう会っているな? ――――、かなり手を尽くしたが、あいつの体がどうしても見つからねえ。俺の代わりに探してやってくれ』
勢十郎は、思わず首を傾げた。
モノガミの本体は、依り代のはずである。黒鉄のそれは鍔であり、彼女の外見はあくまでも霊気で再現されたホログラフィーに過ぎない。大花楼の住人達と親交の深かった八兵衛ならば、それは承知しているはずだった。
『ヒトガタミやツクモガミに関する説明は、あのお
「……ハコ、ミタマ?」
それは、勢十郎も身に覚えがある話題だった。
大花楼の住人達ですら意図的に明言を避けていた、モノガミの秘密。
『ハコミタマ』。
あの刀仙は初めて出会った夜、黒鉄の事を確かにそう呼んでいた。
そして八兵衛は、彼女に生身の肉体がある事を前提に、この遺書を書いている。
勢十郎も、妙だとは思っていた。
大花楼の住人達は、全員がモノガミであり、人ならざる者である。
しかし、黒鉄は違う。少なくとも勢十郎は、この数日、彼女を見ていてそう思ったのだ。
黒鉄だけが人間のように服を着替え、同じように食事をとり、そして何より他のモノガミにはない、人間への特別な思いやりがある。
たしかに彼女が勢十郎に残していった言葉の数々は、
その意味に、勢十郎だけが気付いてやれた、はずだった。
……
東条の言葉を思い出した勢十郎は、あの大雨の中で黒鉄が何を呟いていたのか、なんとなく察してしまう。
両手の中にある八兵衛の言葉は、まだ続いていた。
『あの娘との約束を守れなかった事が唯一の心残りだ。情けねえ話だが、俺の代わりに黒鉄を人間に戻してやっちゃくれ。もちろん、タダでとは言わねえよ。俺の持ってるもんは、全部やる。全部な。お前もきっと気に入るはずだ。俺の、お気に入りの――、』
「じいさん。俺はもう……」
モノガミにも刀にも、関わるつもりはないんだ。と言いかけて、勢十郎はそれが言葉にならなかった。
諦めたくはない。だが、続ける資格が自分にはない。
やりたい事と、できない事と、やってみなければわからない事がぐちゃぐちゃになって、勢十郎は頭を掻きむしった。
これは、自分のやり方ではない。
理屈を放棄した途端、勢十郎の頭の中に、祖父によく似た自分の声がした。
……お前を、お前にしてるものは、なんだ?
「――、ど、どうした大槻?」
気の弱そうな壮年の教師は、突然立ち上がった赤ジャージの少年に眼を白黒させている。他の生徒達も、転校二日目にサボりをかました彼に良い印象は持っていないらしく、
「すんません、気分が悪いんで保健室に行ってきます。……松川、案内してくれ」
「……へ?」
面食らう切絵の、ペンを握ったままの手を取って、勢十郎は教室を出て行く。
「え、えっ? ち、ちょっと、大槻君――?」
慌てる彼女の顔を見ていれば、少しは冷静でいられたかもしれない。
だが、もう勢十郎には無理だった。
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