第三話『ハゲタカの夜』その9
いつのまにか、東条は中庭の外にいた。
もとより、この交渉が決裂することを、二人は心のどこかで悟っていたのかもしれない。どれだけ言葉を交わしても、相手の信条を理解していても、勢十郎と東条は決定的な『何か』が、互いにすれ違っているからだ。
石垣にのぼった蛙が、ゲコリ、と鳴き声を上げている。
「人質になった気分はどうだ?」
おそらく東条は、この奇妙な『壁』を自在にすり抜ける事ができるのだろう。
勢十郎の予想通りなら、東条のモノガミである狐面とゴーグル少女は今、大花楼にいるはずだった。
ただ、依り代である日本刀を人間に携帯させなければ、モノガミは遠くへ移動できない。つまり、何か小細工を使ったのだ。
「逃げられねえ、とでも思ってんだろ? あんた」
「強がりはよせ。
焦る勢十郎が突き出した拳が、またしても不可視の壁に阻まれる。
「どうなってやがる……?」
固くも、柔らかくもない。生まれて初めて遭遇する未知の感触に、彼が困惑していると、東条は奇妙なことを言い出した。
「ある民俗学者が、『結界』というモノの定義について、“三点以上の基点で結ばれた、境界線の『内』と『外』である”と述べていた。君が今殴りつけたのは、私が仕掛けた『中庭の石灯籠を基点とする境界線』だ。君のいる場所と私のいる場所は、一見、繋がっているように見えても、別の領域ということになる。解るかな?」
すぐに周囲を確認した勢十郎は、自分が東条の言う通り、中庭に配置された三基の石灯籠の中にいる事を知る。彼は一通り境界線を叩いて回ったが、石灯籠が形作る三角形の内側からは、どうあがいても逃げ出せそうになかった。
「……いい気になるんじゃねえぞ、東条」
勢十郎の負け惜しみを聞き流し、東条はホテルの中へ去っていく。
刀仙は型遅れの携帯電話を取り出すと、最近登録したばかりの番号を呼び出した。
「……首尾はどうだ?
ロビーに戻った東条は、リクライニングチェアに身を沈ませた。中庭で何やら物音がしたが、彼が結界を解かないかぎり、大槻勢十郎が区画の外に出る事は叶わない。
東条は勢十郎を生かしておくつもりなどなかったが、わざわざ刀を使うのも気が引けたので、あのまま中庭に放置して、適当に餓死させる腹づもりでいる。あの少年がどれだけ騒ぎ立てたところで、音も姿も、結界の外からは誰にも確認できはしない。
『――、聞こえてる? 東条?』
「ああ、ちゃんと聞いている」
ひどく
もっとも東条にとって、狐面は大事な愛刀である。現在、彼と行動を共にしているゴーグル少女も、その依り代は、東条が選び抜いた一振だった。
「……
『だんまりさ。相変わらず、あんたがいないと一言も
「そうか。……では、ハコミタマはどうなった?」
『それは帰ってからのお楽しみ、ってヤツさ』
鼻唄まじりに帰路につく狐面の姿が、目に浮かぶようだ。
愛刀に宿るこのモノガミの
モノガミは、個性的だ。
狐面の青年とゴーグル少女は、作り手の想いが霊格化した『ヒトガタミ』だが、一見して、彼らを同種のモノガミと看破できる者はまずいまい。しかし、その多様な在り方に、東条は強い魅力を感じるのだった。
彼らは、その正体が日本刀であるにもかかわらず、何かにつけて右へ
感慨に
『……ところで、あのガキはどうなったの?』
「今は結界に封じてある」
言いながら、彼は妙な胸騒ぎがした。
手筈通りに進捗している物事ほど、ろくでもないトラブルに見舞われるものである。東条の杞憂を不審に押し上げたのは、やはり狐面だった。
『予想通りだね。じゃああのガキ、ずいぶん無駄な抵抗をしたんだろ?』
「!?」
……そう。中庭が静かすぎるのだ。
東条は珍しく慌てた様子で窓際へ駆け寄ると、即座に中庭の状態を確認した。
すると、どうしたことか、勢十郎の姿がそこにない。しかし東条はすぐ、ロビーの窓から眺望する中庭に、いくつかの死角がある事を思い出し、渡り廊下へ急行する。
仮に、大槻勢十郎が中庭から脱出したのなら、それは石灯籠の結界を破った、という事だ。だがそんな真似をすれば、結界を施した術者である東条に、一発で行為が
まさか術者である東条が、一切気付かないほどの結界破りを、大槻勢十郎がやってのけたとも思えない。つまり彼はまだ結界の中に閉じこめられていて、ロビーからでは見えない場所で、東条を待ち伏せしている可能性が極めて高い、ということだ。
ところが、中庭に出るまでもなく、東条は脱走の形跡を発見してしまう。
道路に面した旅館の塀の一部に、大穴が開けられていたのだ。
東条は脱走者を追うような不細工はせず、疑問の解消に専念していた。
「……どうやって、逃げた?」
ライトアップされた中庭は、一部の潰れた塀以外に破壊の跡がない。東条にはそれが、かえって不思議に思われるのだ。
ついさっきまで、ここに一人の少年がいた。
しかし、いかなる手段によってか、姿を消した。
それも、東条の張った結界を破る事なく。
『……なんだか、さっきから会話が間延びしてるんだけど?』
「小僧に逃げられた」
『ふぅん。どうやって?』
「わからん」
『へえ。あのガキ、あんたの結界を破ったの?』
刀仙は顔色を変えると、中庭を再確認していた。
彼のモノガミが指摘した通り、結界は破られていなかった。
破ったのでなければ、一体、どうやって?
「これは……」
その決定的な『証拠』を発見した途端、東条の頭に痺れが奔っていた。
数分前と変わらぬように見えていた中庭には、致命的な異常がある。
…………三基あったはずの石灯籠が、一つ足りない。
「……頭のいかれ具合は、八兵衛以上だな」
『どうしたの? なにかわかった?』
「…………正宗、あの小僧は――」
言いかけて、東条はその先を言うべきかどうか、少しだけ迷う。超常の存在たるモノガミに聞かせるにしても、それはあまりに荒唐無稽な推察に思えたからだ。
『もしもーし、東条?』
結界とは、三点以上の基点で結ばれた、境界線の内と外。
あの最低な失言に、東条は舌打ちする。しかし、彼はあえて自省の意味も込めて、ここで何が起こったのか狐面に説明してやった。
「正宗。あの小僧は今――――、
――――、石灯籠を担ぎ上げて、結界を広げながら逃げている」
◆ ◆ ◆
……多角形というものは、点をずらすと変形する。やったのは、それだけの事だ。
人通りの少なさと、月明かりが淡いのは幸いだった。こんな顔を見られたら、即通報されてしまうだろう。石灯籠は予想よりもはるかに重く、いまにも血管が破裂しそうだった。
「……ね。……く、黒鉄……ッ」
獣のような荒い息で、大槻勢十郎は大花楼を目指していた。
第三話 終
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