第二話『ハレ、時々、ケ』その7

 よく干された布団の匂いが、体を包んでいる。


 自室に運び込まれた勢十郎は、病人よろしく介抱されていたらしい。意識を取り戻した瞬間、昨夜と同じ天井が見えたので、彼はそれですべてを察した。


 こめかみが馬鹿に痛んだが、膝蹴りをモロに喰らってこの程度なら僥倖ぎょうこうだろう。


「……それがしがうかつでした。まさか勢十郎どのが、ここまで阿呆あほうだったとは」


 お蘭の神通力で私服姿に着替えた黒鉄は、頭痛をこらえるように呟いた。


「やめてくれ……。 今はそういうの、すげえ傷つく……」

「ほう? あなたにも傷つくような心があったので?」


 布団をかぶり直して、勢十郎は引きもりのフリをした。


 喧嘩けんかに負けた事は何度もある。むしろ勝ったことの方が少ない勢十郎である。自分の体が人よりも頑丈で、そして人よりも意識が途切れやすい事も、彼はちゃんと知っていた。


 しかし、これまでの人生で勢十郎が体験してきた喧嘩の敗北は、どちらかといえば不意打ちや、複数人からの襲撃によるものがほとんどだ。今日のように一方的なやられ方は、さすがに初めてだった。


 勢十郎が布団の中でいじけていると、枕元から哀れみのこもった声が降ってきた。


「だいたい、霊気で実体化したモノガミを、素手でどうにかできると思う方がおかしいのです。 まったく嘆かわしい。……ほら、顔を出して」

「あ、ヤダ。恥ずかしい」

「某、あまりこういった言葉を使うのは、好きではないのですが……、キモいです」


 黒鉄は失神した勢十郎を部屋まで運び、今の今まで看病していたらしい。

 照れ隠しで「そんなに俺の事が好きなの?」と尋ねたところ、「あなたはおめでたい野郎ですね」と返されて、勢十郎は死にたくなった。


 氷枕を入れ替えた黒鉄は、呆れ顔のまま救急箱を抱えて立ち上がる。スカートを履いているので、かなりきわどいところまで脚線美が見えていたが、勢十郎はノーコメントを貫いた。


「これに懲りたら、大治郎に喧嘩を売るのはやめる事ですね。次は死にますよ」

「……負けるくらいなら、死んだ方がマシだ」

「あなたに死なれると、『大花楼』の主が不在になる、と言っています」

「安心しろよ。あの般若はんにゃ野郎に勝つまでは、黙って逃げたりしねえから」

「おや? 勢十郎どのは、すでに一生ここで過ごされるおつもりでしたか。感心なことで」

「う、ぐ……ッ」


 黒鉄の皮肉は容赦なく頭上から落ちてくるが、勢十郎は部屋を去る彼女の尻を眺めていたせいで、言い返すタイミングを逸していた。彼は後悔しなかった。


「まぁ、あの野郎は、ぶっとばすけどな」


 言って、勢十郎が被り直した布団から、やけに良い香りがした。


 この布団の元の持ち主は彼の祖父、八兵衛だったはずである。しかし、齢九十過ぎの老人が、こんな良い匂いを発するわけがない。


「あー、そういやアイツ、じいさんが死んでから、この部屋で寝てたんだよな」


 布団の匂いが黒鉄のものだと気づいた途端、勢十郎は妙な気分になる。


 普段から黒装束を着こなすあの少女は、一体どんな姿で寝床に就いているのだろうか。常識で考えればまず寝間着なのだが、勢十郎の脳裏には、裸身を布団に包む黒鉄の姿がありありと再現されていく。もちろん、ピンク色のエフェクトをともなって。



「――、?」



「……どうしてこの屋敷の住人は、いきなり人の背後に現れるんだよ?」


 会席ぜんを抱えるお蘭が、いつのまにか襖の前に立っていた。


 金髪美女は黒のカットソーにデニムパンツという、いかにも人間らしい服装で、どこにでもいる大学生にしかみえない。――が、まぎれもなくこの女もモノガミ。妖怪である。


 お蘭はずけずけと部屋の中へ入ってきた。


「聞いたよ、大治郎にこっぴどくやられたんだって? バカだねえ、モノガミに人間が勝てるわけないだろう」

「それはさっき黒鉄に言われた」

「それで? メシは食えるかい?」

「食えるよ。あと俺はまだ負けてない。そこんとこ、よろしくな」

「あきれた。あんた、まったくりてないねえ」


 布団から半身を起こした勢十郎は、会席膳と向かい合う。


 会席料理は一汁三菜いちじゅうさんさいが基本だが、今日は山菜飯まで付いている。滑茸なめこ汁に鰹のタタキ、わかめの茎煮くきにたらの塩焼きというラインナップに、勢十郎は生唾を呑み込む。


 だが、会席料理はあくまでも酒を飲むためのものである。当然ながら、お膳には徳利とっくりとぐい呑みが供えられていたが、勢十郎が呑まない事を知っているお蘭は、それらさっと取り上げた。


「コイツはあたしがいただくよ」

「そうしてくれ。……いただきます」


 山菜と魚ばかりの夕食は、育ち盛りの胃袋にはボリューム不足かと思いきや、味付けも量も、現代食に慣れた勢十郎に合わせて作られていた。念の入った事である。


「今日も黒鉄が作ったのか?」

「大花楼で飯炊きができるのは、あの子だけさ。八兵衛が生きてた頃からずっとね」

「じいさん飯にうるさかったから、作るの苦労したろうな」

「皿まで食いそうな勢いだったよ。よく喉を詰まらせて、呼吸困難になってたねえ。その度にあたしと黒鉄が世話してやって、『あぁ、今日も生き延びた』なんつって、みんなで笑ったもんさ」

「ふぅん。…………


 つい三ヶ月前の事を懐かしそうに語るお蘭の姿が、勢十郎には寂しかった。 


 何かにつけてこだわりを持っていた堅物かたぶつ、大槻八兵衛は、身内同士の食事中にあまり笑顔をみせなかった。口を開けば素材や調理方法への文句ばかり、そんなグルメ気取りの老人に、親類達はよく陰口を叩いたものである。しかし今思えば、あの頃の祖父の不満顔は、料理の味が原因ではなかったのかもしれない。


 そうしている間にも、お蘭はかぷかぷと徳利の中身を干していた。が、酒ばかりではいずれ酔いが回るだろう。勢十郎は気を利かせて、「適当につまんでくれ」と彼女に言った。


「いらないよ。あたしはモノガミだからね」


 手酌てじゃくをしながら、お蘭はにべもなく首を振る。


「『神饌しんせん』つってね、特別に供えられた物しか体が受け付けないのさ。モノガミにとって食事は、栄養じゃなく霊気を得る行為なんだよ。だからあたしは、コイツだけでいい」


 勢十郎は山菜飯を頬張りながら、頭の中を整理した。


 大花楼の住人達は、刀に宿ったモノガミである。

 つまり、お蘭のこの姿もまた、黒鉄と同じく霊気によるホログラフィーに過ぎないという事だ。だからこそ彼女は、酒という『非日常の食品』から、実体化に必要な霊気を取り込んでいるのだろう。


「……って、黒鉄のやつは普通に飯食ってたぞ?」

「変わり者なのさ。たまーに、そういうヤツもいる」

「適当過ぎるだろ……」


 飄々ひょうひょうとしたお蘭の態度に、勢十郎もそろそろ真面目に考えるのが馬鹿らしくなってきた。


 とはいえ、食事本来の楽しみがない。そんなモノガミの食事は、勢十郎には味気なく思えたが、酒を飲んでけらけらと笑うお蘭からは、不満は感じられなかった。


「温泉もある。メシもでる。……今でも、旅館でやっていけるんじゃねえのか?」

「そいつはあんた次第さ。旅館やるもよし、八兵衛の跡を継いで骨董屋やるもよし」

「別に俺、仕送りがあるから金はいらねえよ」

「ふぅん? この屋敷、住人の食費だけで月に五十万はかかるんだけどねぇ」


 勢十郎は飯を吹いた。


「ぎゃっ!? 飛んできたよ! ったく、汚いやろうだね」

「げっほ! げほ! ……ま、まじで言ってんのか?」

「あたしは酒しか飲まないし、先生は高い酒しか飲まない。大治郎は鯛ばっか食べるし、他の連中もまぁ似たようなもんだね。さらにそこに人間が一人加わって、三日に一度は数万円の食料調達ってな具合だよ」

「ま、まさかお前ら……、タダ飯喰らって、じじいを破産させたのか?」

「そうなるねえ」


 衝撃の事実であった。


「……じじいがベガスで全財産使い込んだってのは、デマだったわけだ」


 すっかり夕食を平らげ、勢十郎は手を合わせた。


 だが、月数十万円の食費とは、また現実味のない話である。

 戦争に従軍していた八兵衛は、それなりの年金も受け取っていたはずだ。が、とてもまかないきれる額ではない。彼が日本刀の中古販売で高額取引を行っていたのは、この屋敷での生活を維持するためだったのかもしれなかった。


 空の会席膳を持ち上げたお蘭は、ニッカリと八重歯を覗かせた。


「まぁ、いざとなりゃあたしらが、あんたに稼ぎ方ってもんを教えてやるからね」

「言い方がいちいち不安になるんだよ、この屋敷の連中はよ」

「男が細かいこと気にしてんじゃないよ!」


 ジーンズの尻を盛大に蹴っ飛ばし、金髪美女は呵々かかと笑った。


「痛ってえな!」


 家主を足蹴あしげにするなど言語道断な話だが、他人に礼節を説けるほど、己が徳の高い人間でない事は、勢十郎が一番よくわかっている。


「そうだ、あんたの惚れてる黒鉄だけどね。今は風呂に入ってるから、話があるなら後にしな。……わかってるだろうけど、覗いたら殺されちまうよ?」


「やらねえよ」と、勢十郎が答える前に、襖はぴしゃりと閉ざされた。


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