第二話『ハレ、時々、ケ』その2

 居間での不毛な議論は、すでに一時間ほども続いていた。


 冷めきった茶碗の飯は、恨めしそうに勢十郎を見上げている。だが対面に陣取る黒鉄は、彼にそれ以上箸を取る自由を許さなかった。


 他の住人の姿はまだ眠っているのだろう。どうやらこの屋敷では、勢十郎と黒鉄以外に朝食を必要とする者はいないようだった。



「――、勢十郎どの。それがし、と言いました」



 もう何度も繰り返したその台詞を、黒鉄は改めて口にした。


 耳にタコの勢十郎は辟易へきえきするばかりだが、さりとて無視を決め込もうにも、この忍者女の説教は、ますます激しくなるだけである。


「ああ言った。確かに言ったけど、学校まで付いてくる必要はねえだろ」

「行きます」

「いや、だからな……」

「勢十郎どのが行くなら、某は付いて行かねばなりません。それが貴方の権利です」


 卓袱台ちゃぶだいから身を乗り出し、息がかかるほど近づいた黒鉄の、濃紺の瞳が輝いた。墨色の髪から漂う椿油の匂いに当てられて、勢十郎はますます気まずくなってしまう。


 確かに彼は、『大花楼』の主となる事を承諾し、八兵衛の『遺産』を継ぐ権利を得た。しかし、権利とは義務とのセットメニューであるのが世の常だ。


 風呂場での一件以来、事あるごとに身の回りの世話を焼こうとするこの黒鉄には、正直なところ、勢十郎もかなり疲れていた。たしかに食事や寝具の用意は有難ありがかったものの、勝手な部屋の掃除やプライベートの拘束には、彼も心がさんでしまう。


「だいたい、刺客に襲われたらどうするつもりなのです?」

「いねえよ! そんなもん!」


 勢十郎に言わせれば、正体不明の刺客よりも、『大花楼』に巣くうモノガミ達の方が、よほど危険な存在である。昨夜など、あやうく殺されるところだったのだ。


 ちなみに一晩経った今でも、勢十郎はまだ黒鉄が妖怪であるという事実を受け入れきれないでいる。……否、すでに本心では彼も納得しているのだが、こうして人の姿で会話する彼女を見ていると、やはり昨夜のあれが夢だったのではないかと、つい気持ちが揺れてしまうのだ。


 勢十郎の想いをよそに、目の前の食卓には、黒鉄の依り代だという例の『竜の鍔』が陣取っていた。あろうことか、彼女はこの首飾りを彼に着けさせて、高校までついてくる気でいるらしい。


 いくら姿を消すことができるとはいえ、この鍔が持ち物検査で引っかかったら一巻の終わりである。無駄に心労が増えるのは火を見るよりも明らかなので、勢十郎は頑として彼女の要求を拒否し続けている、というわけだ。


「とにかく、学校はマズい。連れて行けねえよ」

「どうしても?」

「どうしても、だ」


 飯粒を口元に付けたまま、勢十郎は眼を伏せてそう言った。しかし黒鉄のやわらかな細指は、そんな彼の頬に触れ、飯粒以上のものまで彼から奪い取っていく。


「……どうしても、駄目ですか?」

「そ、そんな言い方したって、俺は……。うっ!?」


 しおらしい一言に、目を開いたのがまずかった。

 先ほどよりもさらに近い距離にある濃紺の瞳と、その下にある胸元を直視する羽目になり、勢十郎の心拍数はオーバーヒート寸前まで跳ね上がる。風呂場の件にしてもそうだが、どうやら黒鉄は、パーソナルスペースの感覚が一般人とは大きくズレているようなのだ。


 勢十郎はかぶりを振る。


「そ、そんな目をしても、ダメなもんはダメだ」

「主になると言ったのは? 約束を破るおつもりで?」

「いや、だからな……」


 人と話をする時は相手の目を見て話しなさい、とは、幼い頃、祖母が勢十郎に言った言葉である。その後、勢十郎は何度か母へ試してみたことがあるが、その度に「何怒ってるのよ、気分悪いわね」と突き放されて、母親似の彼は大層傷ついた。


 だが、あの時の祖母の言葉を体現する者は、今こうやって現れた。黒装束で、人間ですらないものの、美しい墨色の髪の隙間から、黒鉄はまっすぐな目で勢十郎を見据えている。


 そして彼女は言うのだ。


「……?」

「ねぇーよ! 畜生ッッ!」

 

◇     ◇     ◇

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