第一話『蛮族達の午後』その8

 入浴シーンと聞けば、多くの男性はその実行者を女性と期待するだろう。

 だが悲しいかな、湯煙の中に浮かぶ背中は、どうみても男のそれだった。


「……一体、俺は、どこで何を間違えたんだ?」


 勢十郎は思わず白目をいていた。


 大槻八兵衛が愛した大花楼には、シャワーなどという文明の利器はない。かわりに旅館の名に恥じない露天風呂がある。

 七条市は隠れた温泉名所として知られており、この屋敷が建てられた四百年前から、風呂を目当てにする旅人も多かったという。湯船にかりながら勢十郎が見上げる星空は、たしかに値千金あたいせんきんの絶景だった。


「今際の際に、なんつう厄介事を残していきやがるんだ。ウチのじいさんはよ」


 擦り傷だらけになった全身に、温泉の熱がじわりと染みる。


 熊に襲われた勢十郎を雑に介抱したのは、なぜかナース服に転じたお蘭であった。

 嬉し恥ずかしの超展開に興奮を隠しきれない勢十郎へ、金髪美女は「あたしは神通力じんつうりきが使えるのさ」と、意味不明な事を得意げに語った。


 ただし、すでに広間で超常現象を目撃していた勢十郎が、今さら変身程度の特殊能力に驚く事はできなかった。だがその直後、お蘭にバニーガールへ変身されてしまい、彼が有頂天うちょうてんになってしまったのはここだけの秘密である。


 とにかく、大花楼の住人達が『モノガミ』という妖怪なのは、確かなようだった。


「……モノガミ、ねぇ」


 ペンギンは太刀、お蘭は小刀、そして黒鉄は鍔に宿るモノガミ――、いわゆる付喪神つくもがみのようなものらしい。八兵衛は骨董あきないいのかたわら、彼らのようなモノガミの面倒をみていたというのだから、酔狂すいきょうな話である。


 塀の外からは、相変わらず得体の知れない獣の鳴き声が聞こえていた。 


 広間で大立ち回りを演じた黒鉄も、「あなたは二代目当主です。だから我々の面倒をみて下さいね」と、手の平を返すように強引な介護を迫ってきた。ゆえに勢十郎は、こうして風呂場まで逃げてきたわけだ。


 それが、十分前の話である。

 温泉特有の金属臭に包まれながら、勢十郎は肩まで浴槽に沈み込む。


「考えが甘かった、のか?」


 この世界のどこかに、自分だけの運命がある。


 誰もが一度は抱くそんな妄想も、いつしか薄れてしまうものだ。夢や希望といった幼心は、長い人生のどこかで、必ず裏切られてしまうのだから。


 そのセオリー通り、勢十郎も十六年という歳月の中で、多くの可能性と選択肢を失ってきた。むしろ彼の場合、はじめから他人よりも少ない選択肢の中で生きてきた、という方が正しい。


 何もしなければ、人生は基本的に悪い方向へ流れていく。立ち止まっている自分を、周囲の人間が努力で突き放していくからだ。より迅速じんそくかつ正確に、判断を下し続ける者が勝つように、世の中はできている。


 そうして気が付くと、勢十郎の目の前には運命どころか、ロクな選択肢も残されていない現実が広がっていた。


 だからこそ彼は、今回の一人暮らしに並々ならぬ思いを馳せていたのだ。

 水道代などきっかけに過ぎない。自分を取り巻く閉塞感に嫌気が差して、ただ一人になりたかった。それが勢十郎の本音だった。


「明日朝イチで家に帰ろう。さすがにやってられねえ」


 今日一日で、勢十郎の祖父に対するイメージも、完全に破壊されてしまった。

 あんな妖怪共と暮らす事の何が楽しかったのか、それすらわからず仕舞いだが、彼は八兵衛のように、伊達だてや酔狂で人生を棒に振るつもりは毛ほどもない。


 だというのに勢十郎は、あの濃紺の瞳を持つ少女との別れが少しだけ名残り惜しかった。


「……なんか、久しぶりだったな。ああいうの」


 ガラの悪い見た目のせいで、誤解を受けることが多い勢十郎には、黒鉄のように真正面からぶつかってくる者は珍しい。以前通っていた高校では、男女を問わず、体よく避けられていたものである。


 それを思えば、黒鉄とは仲良くできそうな気もするのだが、いかんせん彼女は勢十郎を嫌っており、かつ、人間ですらないのだった。


「黒鉄……、か」

「お呼びでしょうか?」

「ああ悪い。なんでも――、なくねえよ! どうしてお前がここにいるッッ!?」


 真後ろに現れた黒鉄から五メートルほども遠ざかり、勢十郎は仁王像のような顔になる。突如とつじょ露天風呂にエンカウントした彼女の姿は、いたいけな青少年を非行へ導くものだった。

 

 肌が白いだとか、スタイルがどうだとか、言葉による描写限界を超えてしまった光景がそこにある。見る者の倫理さえ問われる、湯煙ゆけむりによって巧妙こうみょうに隠されるはずだった、それ。


 裸でこそないものの、黒鉄はサラシにショーツという、けしからん姿であった。


「おっ、おっ、おおおおおま、おま、おま、何してんだッ!?」

「お背中をお流ししようかと思い、参ったのですが?」

「参ったって、お前……」

「まかりこしました」

「言いえんな。意味くらいわかっとるわ」


 勢十郎の動揺を察した黒鉄は、彼の視線から逃げるように、両腕で胸元をさっと隠していた。が、それですべてがおおい隠せるはずもない。むき出しになった腹や脚のなまめかしさが、否応なく勢十郎の視界を支配し始める。


 もちろん、風呂場に侵入されたのは勢十郎の方なのだが、おそらくこの状況を見た世のフェミニスト達は、こぞって彼を非難するだろう。理不尽であった。


「だからってお前……これは……」

「あまり、じろじろ見ないでください。あなたが変態なのは存じておりますが」

「存じんな! 俺を犯罪者にする気か!」


 勢十郎は慌てて黒鉄から目を逸らした。

 彼女の足元には、わざわざ持ち込んできたらしい木桶があり、その中には子供が使うようなお風呂セットが備えられている。あんなもの、ここ最近、勢十郎はよくないDVDでしか見たことがなかった。


「さ、始めましょう」

「始めるったって……、あいにく俺の性癖はノーマル仕様だぞ?」

「何の話ですか?」

「何でもないから忘れろ。そして誰にも言うな、つうか出て行けッッ!」


 肩で息をする勢十郎は、問題のお風呂セットが相当使い込まれていることに気がついた。

 順当に考えれば、妖怪である黒鉄の物ではないだろうから、元の持ち主は八兵衛という事になる。が、それはそれで恐ろしい話だ。


「俺のじいさんは、毎日こんなもんを使ってたのか?」

「はぁ。毎日それがしが洗っておりました」


 勢十郎は戦慄せんりつした。


「……もう一度、言ってみろ」

「ですから、某がお背中を流すのを、八兵衛殿は毎夜楽しみにしておられました」

「あンの狒々ひひジジイッッ! もう勘弁ならねえ――ッッ、ぶっ殺す!」

「すでにお亡くなりに」

「ああそうだったな畜生がッ!」


 怒りの矛先ほこさきを一瞬で失い、勢十郎は歯噛はがみする。


「それにしても……。その、ずいぶん鍛えておられるのですね」


 湯船からせり出した勢十郎の半身を見て、黒鉄が不審ふしんそうに呟いた。


 黒鉄は、どうあっても勢十郎の背中を流す気でいるらしい。現実を生きる男には夢のような申し出だろうが、それは夢で終わらせるべきだと勢十郎は考えた。


「だいたいお前、俺のこと嫌いなんだろ?」

「ええ」


 即答であった。


 勢十郎は血管がぶっちぎれそうになるのを持ち堪え、この状況の成立過程を想像した。クソ真面目な黒鉄の事である。大方、お蘭あたりに唆されて、風呂場へ乗り込んできたのに違いない。

 でなければ一体誰が、嫌いな人間の背中など流したがるというのか。


 勢十郎は湯船に浸かったまま、黒鉄に背中を向けた。


「とにかく出て行け。頼むから」

「そうは参りません。勢十郎どのは『大花楼』の主なのですから」

「ああそれな、俺は降りるぞ。明日朝一で実家に帰る」

「では、承諾していただくまで、某はこの場を去りません」

「あのな……」


 勢十郎は思わず身を乗り出していた。

 気の短い彼にしてみれば、この数時間内の忍耐力は、まさに不滅の大記録である。

 だが、もう本当に、勢十郎は我慢の限界だった。


 銀幕の夜空のもと、彼が風呂場の床を怒りとともに踏みつけた、その時だ。


「ひょぅわっ!?」


 可愛らしい、声がした。


 何もしていないのに、なぜ彼女がそんなに怯えた声を出すのか、勢十郎には理解不能だった。こんな事は中学校の時、隣の家のえりちゃん(当時五歳)に、「顔が怖い!」と泣かれて以来である。あまりにも泣かれた為、あとで勢十郎は警察に事情聴取を受けた。


 思わぬ悲鳴に驚いたのも束の間、フリーズしている黒鉄を見て勢十郎は気づく。

 今の己の有様ありさまに。


「……あ」


 何もおかしなところはない。


 ネイキッド。


 すなわち全裸であった。


「ほらな? やっぱ焦るとロクな事がね――」

「なななななっナニを見せるか――っ!?」


 動転した黒鉄が投げ放つ風呂桶が、勢十郎の鼻っ面に高速でヒットした。

 めごしゃッ! という音。


「へぐわッッ!? い、いや、まぁ、一発で気が済むならぶるぁあああ!?」


 もちろん、一発で済むワケがなかった。


 半裸少女が全裸少年に投げつける風呂桶は、容赦なく急所狙いだった。眉間みけんから金的きんてきまで、正中線をフルコースで連打された勢十郎は、そのまま馬乗りで殴られる。

……繰り返すが、『馬乗り』である。


 痛い。なのに気持ちいい。何がどうしてそんな感覚が生まれているのか、想像すると鼻血が出そうだったので、勢十郎はそれ以上、考えるのをやめた。


「こん不埒者ふらちものがッ! 不穏分子ふおんぶんしがッ!」

「何とでも言え! けどやっぱ馬乗りはマズい! 馬乗りはマズいだばッ!?」

「ばかやろう! ばかやろう!」

「おいバカやめろッ。ちょ、シリが! フトモモが! 摩擦まさつするな! 摩擦は本気でまずい!」


 誰か警察を呼んでくれ、と叫び出したい勢十郎だったが、実際に駆け付けた警官は迷わず彼を連行していくだろう。半裸の黒鉄に殴られながら、勢十郎はひたすら世の中の理不尽を思い知る。


 黒鉄はなおも、彼の上にまたがっていた。


「大花楼の主になって下さい! なるべきです! なれよ!」

「首をめるな! 首もマズいだろ! 死ぬる!」

「なると言え! 主になると約束しろ!」

「わーったよッ! やる! やりゃいいんだろが!」


 投げやりに叫んだ途端、勢十郎の首を締め上げる手の力が、ふっ、とゆるんだ。


「……本当に?」


 湯気にれた濃紺の髪から、勢十郎の胸板へしずくが落ちてくる。彼は風呂場に押し倒されたまま、殴られた痛みも忘れて、人間の形をした、人間ではないものを見上げていた。


 雲が少ないせいで、月明かりが映えている。


「本当、ですか?」


 もう一度、透明な声がした。


 一辺数センチの金属片に宿った化物とは思えない、重さと、感触と、息遣い。

 そのすべてが、今ここにある。


 澄み切った瞳の中に、濃紺の炎が揺らめいている。

 見ているだけで吸い込まれそうなその眼光は、まるで日本刀のようだった。触れてはいけない。しかし、解っていても手に取ってしまう。黒鉄の瞳は、そんな危うさで満ちている。


 なるほどそういう意味では、この少女はまさしく妖怪だった。

 湯気に紛れた椿つばきの匂いが鼻腔びくうをくすぐり、勢十郎のだった全身が、背中から徐々に冷めていく。


「本当に、大花楼の主になっていただけるのですね?」


 人ならざる者の声に無言でうなずきながら、彼は八兵衛を思い出す。



……なぁ、じいさん。


 あんたも、この声にだまされたのかい?



 だとしたらお笑いだった。

 親子二代を通り越し、孫までそろって呪われたのだ。

 日本刀のように美しい、このモノガミという名の妖怪に。


 頭上の月はひどく不安定で、足場を無くした現実のようだと、勢十郎は思った。


                                 第一話 終

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