静河政男 ~ 1 ~
04 CatchBall
二〇〇五年五月十三日 金曜日
姿勢も腕の振りもストレートのそれなのに、手首の力とボールの握りでひゅるひゅると落ちる球筋になる。フォークボールほど暴力的に落ちはしないが、一三〇キロメートル台のストレートの後にならドでかい空振りを期待できる。
そして朝見大輔のギターは、時に一六〇キロメートルにも届くストレートになる。何の変化もしないストレートだと判っていても誰もクリーンヒットすることができない剛速球。
そんなとりとめもないことを考えていたら無性にキャッチボールがしたくなった。
ぱくっと折り畳み式の携帯電話を開いて、ムニムニとボタンを操作する。
ぷるるると呼び出し音。二回で相手が出た。
「おー
『は?』
「だからキャッチボールさ。してーんだよ」
『壁にでも向かって投げりゃいいじゃん』
半分冷めたような態度はいつものことで、しかもそれは大体シズが突拍子もないことで電話をすることが多いからなので仕方がない。仕方がないから気にしない。その程度の自覚はあるのだ。ただそれにしたって壁に向かって一人でやれとは冷たすぎやしないか、と思わないでもない。なので千晶の言葉は無視に限る。
「グローブ持ってない?」
『持ってないよ』
「んじゃオレの一コ貸すから明日やろうぜ」
『明日スタジオでしょ』
千晶と知り合ってから約二週間。先週のスタジオで山雀拓がメンバーになってくれたが、明日は拓がどうしても外せない用事があるとのことで、再び千晶と二人でスタジオに入ることにしていた。
「終わってからに決まってんじゃん。なんつーのかなぁ、インビテーションってやつ?」
『インスピレーションのこと言ってんの?』
フスマが開いてシズの兄、
「そうそれそれ」
似たような言葉だが、大した違いもあるまいとシズは千晶の言葉を流した。
『音楽に関係してるとは思い難いなぁ』
確かに、ただ単にキャッチボールとロックバンドが直接的につながる訳ではない。そしてシズはチェンジアップも一六〇キロメートルのストレートも投げられない。だから千晶にはこの裏で深くつながっている事象が一生判らないのだ。
「それが深ぁく繋がってんのよ。ま、とにかく明日な。十分くらいでいいからさ」
『ま、まぁ判った。そんじゃ明日』
「あいよ」
ぱたり、と電話を閉じる。
「お疲れ兄貴。兄貴さ、グローブ余ってない?」
お世辞にも広いとは言えないこの家の中で、シズと政希は一つの部屋を共有している。スーツを脱いでいた政希にシズは話しかけた。政希は会社の野球チームに所属しているのだ。
「あったかなぁ。前使ってたの捨ててなけりゃあると思うけど、何だ、野球やんのか?」
「キャッチボールだけね。久しぶりにさ」
「おーそっか。そんなら俺が今使ってんの使っていいよ」
「うん。明日だけだからすぐ返すよ」
「じゃあ出しとく。風呂入ってくらぁ」
「うぃ」
シズの家族は父、母、祖父、兄、自分の五人家族だ。父と母は進路のことをあまり考えていないシズに気を揉み始めているが、兄と祖父はゆっくりやればいい、と実に暢気だった。家族の仲は昔から良く、政希とは四つ離れた兄弟だが、シズは昔から政希が好きだったし、政希も昔からシズの味方をしてくれる優しい兄だ。また新しいバンドを組む、といった時にも好きでやってるのなら楽しくやれ、と言ってくれた。プロになる気は更々ないが、もしも例えばシズがプロになる、と言い出したとしたら、政希だけは賛成してくれる。そういう兄だ。
二〇〇五年五月一四日 土曜日 七本槍中央公園
この辺りでは一番大きな市営の公園の遊歩道から少し外れた芝生の上でシズは千晶に向けてボールを投げる。
「いや、確かに言ったけど?」
妙な疑問詞だと自覚しつつシズは言った。
「だって他に方法ないじゃん、シズが歌うしか。俺は無理だからな」
いや、確かに初めて二人で練習したときも、先週の練習も、千晶はコーラスすらしていなかった。ボーカルが決まるまでは、と静がしかたなく歌ったのだが。
「でもさー、オレ自分の声嫌いなんだよー。そんだったらさ、唄一人入れようぜ」
自分の声というのは気導音と骨伝導の両方で耳朶を震わせるため、骨伝導しない他人に聞こえている声と、自分が”自分の声”と認識している声とは違って聞こえる。自分の声を録音して聴く場合、骨伝導がなく聞こえているので、他人には何ら変わらない声に聞こえるのだが、声を発した本人が聞くと、こんな声をしているのか、とそのギャップに嫌になる者が多い。シズもそのタイプで、録音された自分の声を聴くことに抵抗がある。
「最初に三人がいいっつったのシズじゃん。てっきりシズが歌うもんだとばっかり思ってたのに」
「オレは千晶に歌ってもらう気満々だったの!」
「や、でも巧さで言っても声質で言ってもシズの声は充分通用するって」
千晶の評価などどうでも良かった。バンドにおいてギターボーカルとギターでは全くと言って良いほど役割が違う。
すぅー、ぱんっ、すぅー、ぱんっ、とボールが飛び、グローブにキャッチされる音を繰り返し聞きながらキャッチボールも会話も続けられる。
「じゃあさ、カラオケでも行ってみる?一曲だけなら歌うけど」
「できるできないの問題じゃないってことか?」
つまりは音痴。いや、一概にそう判断してしまうのも乱暴だ。声というものは機械ではない。例えば千晶に、ベースでEを鳴らせと言えば、千晶は難なくEを鳴らす。だが、声でEを出せと言ったらFになってしまう。千晶自身はEを出しているつもりで、楽器ではEを鳴らせるにもかかわらず、だ。
音感がない訳ではなく、声に出すと思っていた音程とはずれる。音感があれば外れていることに気づくが、音感がない、本当の意味での音痴はその音が外れていることに気付くことができない。
つまり千晶の場合は、音痴という訳ではなく単純に歌が下手、ということになる。
「そ。でもさ、俺はシズの歌、巧いと思うし声も結構好きだよ」
「え?マジで?」
急に顔の筋肉が緩む。直後、ちくりと千晶の視線が刺さったような気がして。
「今、バカにしたろ」
「してない」
「あ、そ」
どうやら気のせいだったらしい。
「でもさ、ドラム、
「あぁ、凄かったな。チョーウメーよ、あのヒト」
自分たちよりもわずかに二歳年上なだけだが、楽器を触っている年数としての二年は大きい。技術の向上という面では突き詰めれば突き詰めるほどに際限も節操もないのはどの楽器でも同じだが、それでも二年という月日は、技術面のみで言えば全くの素人から熟達の域まで達することができる年月だ。
「シズも充分上手いけどね。俺ももっと練習しないとなぁ」
「大丈夫だって。あれだけ弾けてりゃ充分じゃん」
本人の自信と技術力は別物だ。大体自分で自分を上手いだとか、あいつより弾けているだとか、他人のことを見下しているような人間に限って致命的なところが欠落していたりすることが多い。上手さと格好良さも全く別次元だ。
それはさて置いても、千晶ほどの腕ならばどこへ行っても使われる。自分と比べれば千晶は温和な性格だし、トラブルを避けようとするところに気弱な面はあるような気もするが、一緒にバンドをやっていく人間としては、明らかに自分よりも千晶の方が好まれるはずだ。
「そう思ってくれるのは有難いけど、まぁ練習はしなくちゃね」
「そうだなぁ。ドラムのレベル考えたらオレらももっと上手くならないとだよな。ま、千晶がオレの声気に入ってくれてんならとりあえずは三人でやってくしかねぇかー」
悪い気はしない。
「そうだね」
千晶の投げた球をキャッチして、シズはグローブを外した。
「なん……」
「は?」
(なんでキャッチボールなんかしてんだっけ?)
危うく口に出すところだったのだが、本当に、シズにはその理由が思い出せなかった。
二〇〇五年六月五日 日曜日
楽器店兼練習スタジオ
そんなやりとりをしたのが一ヶ月ほど前だっただろうか。それからなし崩し的にボーカルで
「さしあたってなんだけど、私のことは呼び捨てでいいからね。妙な気兼ねがあるとやりにくいしメンドい」
「了ぉ解」
シズはノーテンキに言う。予想通り癇の強い女らしい。
「でさ、バンド名とかあんの?」
拓がテーブルに置いたライターを弄んで莉徒が言う。
「あー、考えてなかったなそういえば。千晶、何かない?」
拓も千晶もいるのだ。考えるのはシズの役割ではない。そうシズは決めていた。大体にしてバンド名などどんな突拍子もない奇妙奇天烈なバンド名でもすぐに慣れてしまうものだ。投げやりに見えてしまうかもしれないが、シズにとってはバンド名など何でも良かった。
「何で俺に振るかな」
「何でってリーダーじゃん」
「え、嘘だろ!」
シズが想像した通りの言葉が返ってきて、少し笑う。
「だってこのバンドの発起人じゃんよ」
「最初に組もうっつったのシズじゃん」
ライターを弄んでいた莉徒が煙草をくわえ、火を点ける。
「でー、バンド名は?」
深く吸い、ふー、とゆっくり煙を吐き出しながら莉徒が言う。その態度にカチンとくる。
(ナッマイキな女ぁっ!)
「おーし、じゃあいいよ。オレが考えっから文句言うなよ」
「あんまり変なら言うわよ」
「文句あんだったら莉徒も考えろ。メンバーなんだかんな」
さっ、と莉徒の唇から煙草を奪い、灰皿に押し込む。
(オレは出す音が良けりゃ性格には文句は言わない……)
そう自身に言い聞かせた。一緒にやってシズが楽しい、と思えるほどの音楽センスさえあれば。演奏していること自体が楽しければ、多少のことは目を瞑る。
三十分ほど簡単なセッションや
「ねぇシズ」
シズがカフェオレを飲んでいたところに、莉徒が声をかけてきた。
「んあ?」
「さっきのコードって何?」
さっきのと言われて少し頭の中で時間を巻き戻す。セッションは本格的にやっていた訳ではないので、莉徒がどの部分のことを言っているのか判らなかった。
「……ゴメン、判んねぇや。ドレ?」
「どーよこのリフ、とか言って弾いてたアレ」
「あぁ」
今日のために少し考えて創ってきたリフか、と思い当たる。
「キーはEでいいんじゃん?コード自体はEmだからそれ一本でいけるだろ」
「あのリフって歌メロにも乗っけるの?」
「あー、考えてねぇなぁ。おし、ちょっくらやってみっか。千晶、拓さん、いい?」
一気にカフェオレを飲むと、シズは立ち上がった。莉徒はギターや歌のコードにも精通している。こういう話がすんなりとできるのはシズとしても有難い。
「おっけおっけ、面白そうじゃん」
拓も言って立ち上がった。
何周かリフレクションを回しているときに、莉徒が右耳の穴を指で押さえて、口をパクパクさせていた。恐らく小さめの声でハミングをして、リフにそのハミングが乗るかどうかを確認していたのだろう。
「そのリフなら……」
ほどなくして莉徒はマイクを通し、スキャットでメロディを口ずさむ。
「あぁー、いいねいいね」
口では軽く言いながらだったが、内心では驚いていた。声が喋っている時とはまるで違う。喋っている時は低めで少しかすれたような声だが、歌うと高音域になる。女性シンガーでは珍しい訳ではない。いわゆるハスキーボイスだがそれは、ロックという音楽で一番生きる声だとシズは思っている。そして莉徒のメロディのセンス。シズのリフレクションから生み出されたメロディは、シズでは絶対に思いつきそうもないメロディラインだ。
(いけ好かねぇ女だと思ったけど、やるなコイツ)
どこかで習ったことがあるのか、基本が確りしている。千晶のベースや拓のドラムとは袂を分かつ、演奏に力をつける何かがある。そこに音があれば楽しむことができる、を良く知っている。
それはセンスこそ違うものの、シズのスタイルと同じだ。
「これで一曲創れそうじゃね?」
「そうね。どうする?どっちが歌う?」
「オレは弾きに専念したいな。せっかくいいメロ着けてくれたんだから莉徒が歌ってくれ」
「オッケー。じゃ、とりあえずこのリフでドラムとベース入れてみよ」
莉徒は言ってマイクから離れた。各々が楽器をミュートして拓の出方を待つ。軽く出足だけ叩いて、テンポを確認するように叩くと、すぐに止めてシズに尋ねてくる。
「こんなもん、かな?」
「基本はこれでいっすね。あとはアレンジ次第ってことで」
シズが答えて、トグルスイッチをいじる。
「んじゃとりあえずソレ基本でジャムろう」
拓はそう言ってドラムスティックでカウントを取り始める。曲の中心になるリフレクションだ。ループで回しても使える。テンポを落とせば莉徒の声が生きるスローロックにもなりそうだった。リフを繰り返し、シズが弾きながらマイクで言う。
「千晶、もうちっとうねってみて」
千晶は頷くと四小節をルートで弾いた後に、試すように音を動かし始めた。E基本のブルースコードで少し音数を減らしたフレーズがシズの下腹を刺激する。こういうことをすんなりとできてしまう千晶は絶対に自分で言うほど下手ではないし、センスもある。
「あー、あー、いいねいいね」
莉徒がシズのリフレクションを真似している上に、ソロらしい弾きを重ねる。だんだんと気分が乗ってくる。
(くぁー、気持ちいーぜ。コレだから辞めらんねーんだよなー!)
そう心の中で喚きながら、シズは左手の速度を上げる。
「……」
(……あれ?)
は、と我に返った時には音を鳴らしているのはシズだけだった。
「あぁ……ゴメン。やってもた……」
しっかりと構成を固めた曲ならばもちろんこんなことはしないが、こうしたジャムセッションで気分が乗ってきてしまうと、ついつい暴走してしまうのだ。こういうことをやりすぎて前のバンドでは諍いが生じるようになっていってしまった。それに関しては自分に非があることはシズも判っていた。
「ま、まぁ気持ちは判るけどね……」
拓が苦笑して言う。莉徒と千晶の目は心なしか冷たい。ふぅ、と莉徒が溜息を漏らす。
「ま、曲にした時にソロの尺とコード進行さえ守ってくれれば別に好きに弾いてくれていんだけど。あんたって元々そういう方が座りがいいんでしょ」
「え、あぁ、まぁそうなんだけどさ」
別段莉徒の声に怒気は孕んでいないように思えたが、それでも少しばつが悪くなりシズは頭を掻いた。
「幸いリズムが確りしてんだから、その辺はいいと思うけどね。ただジャムってる時は抑えてくれる?」
「面目ない」
かくん、と頭を下げる。
「千晶ちゃんもさ、さっきから黙ってるけど言いたいことあんだったら早いうちに言っといた方がいいよ」
「あぁ、うん」
「そうだぜ千晶。お前さ、オレの性格もう判ってんじゃん」
それに関しては莉徒の言う通りだ。前のバンドとは比べ物にならないほど面白そうなバンドだ。手前勝手で終わらせたくない。自分以外の意見があるのならばきちんと聴きださなければ。
「んじゃ言うけど、とりあえず『ちゃん』はいらない」
「え?私?」
「そ、シズもな」
そう言った後にふ、と表情をやわらげ、千晶は続ける。
「バンドの音の方向性としちゃ俺はまだ何とも言えないかな。拓さんのドラムのおかげで俺も安定して弾けてるから後はフロントがそのリズムをどう生かすか、なんてちょっとジャムっただけじゃまだ判んないかなぁ。でも今の曲自体はすっげぇ好きだけど」
千晶の言葉はやはりどこかにしっかりと、いやどっしりとした自信があるように感じる。それが何故、頼りなく見えてしまうのか、乱されてしまうのかは、シズと同様に、以前組んでいたバンドに何か、依る所がありそうだとシズの直感が告げている。それをどうしたら解決に導けるのかは、シズには全く判らなかったし、判ったとしてもどうこうするつもりもなかった。
「それはそうだね。シズも莉徒も独創性って面じゃかなり突飛してるからさ。バンドの音を破綻させるかどうかっての、フロントにウェイトかかってくると思うよ」
「私はやらないけどねぇ……」
「じゃ、じゃあもう少しやってみようぜ」
「そうね。なんかメロとリフ、カチ合ってるとこあったような気もしたし」
まだ全員がこれで、と固定した演奏をしていないので、そうした部分が出てくるのは当たり前のことだ。それを一つずつ潰していって、曲の精度を上げてゆく曲の創り方もある。たった一つのリフレクションからメンバー全員がそれに肉付けをしていって、あるいはつけすぎた肉を削いで、完成度を上げて行く。シズはこうしたセッションからの曲創りの方が性に合っていた。
「さっきのシズさ、
千晶が言って眼鏡を押し上げる。確か随分と前に話題になった洋画のはずだ。観たことはなかったが、バンドの映画なのだろうか。
「あー、一作目ね、確かに」
莉徒も観ていたのか可笑しそうに言う。
「何、そんなカッコイー訳?」
「見てみりゃ判るわよ」
少しの沈黙の後、莉徒が苦笑する。首の後ろがチクリとした。
「……何かバカにされてる感じ」
「いい勘してるよ、シズ」
拓が言って、シズ以外の三人が笑った。
CatchBall END
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます