優しい鬼瓦
ハルカ
優しい鬼瓦
ケンタが姿を消した。
夕方の散歩に出て、飲み物でも買おうかとコンビニに立ち寄ったほんのちょっとのあいだに。
葉子は戸惑い、ケンタを繋いでおいたポールを呆然と見つめた。手にはさっきまで握っていた散歩用のリードの感触が残っている。ざあっと血の気が引いた。
コンビニの駐車場を見回すが、やはりケンタの姿はどこにもない。
葉子は目についた相手に片端から声をかけた。
店の前で煙草を吸うサラリーマン風の男性。車内でくつろぐ若いカップル。店から出てきた下校途中の中学生たち。店の前を通りかかった通行人にまで尋ねた。
それでも収穫が得られず、葉子はコンビニに戻り店員に協力を求めた。
「あの、外に繋いでおいた犬が、店にいるあいだにいなくなってしまって」
「犬ですか? さあ……」
「ほんの5分ほどの間なんです」
「短時間であっても、フンとかおしっことかされると困るのでご遠慮いただきたいのですが」
さっき飲み物を買ったときはにこやかに対応してくれた店員が、まるで別人のような態度だ。相手の顔には明らかに「迷惑だ」と書かれている。
それでも葉子は食い下がった。
「そうだ、防犯カメラを見せていただいてもいいですか」
「それはできません」
「えっ、なんで」
「他のお客様も映っているのでプライバシーの侵害になる恐れがあります。そもそも個人のお客様相手に防犯カメラをお見せすることはしておりません」
けんもほろろである。
こんな店など二度と来るものかと心の中で毒づき、外に出る。
コンビニの周辺を歩き、狭い路地や駐車場、公園などを根気よく覗いてみる。それでもケンタは見つからない。
日が落ちてあたりも暗くなり、一度帰宅して懐中電灯を持ち出す。
ついでに閉店まぎわのスーパーに駆け込み、菓子パンを買ってそれをかじりながら夕暮れの住宅地をさ迷い歩く。
暗闇に目をこらし、建物の隙間やよその家の庭にも視線をやる。
3時間ほど探した頃、スマホに着信があった。
夫からだ。家にいないからどうしたのかと電話をかけてきたらしい。
事情を説明すると「なにやってるんだよ」と怒られた。
「犬を逃がすなんて、まったく。誰かを噛んだらどうするんだよ。道路に飛び出して事故が起きたら
あまりの剣幕にびっくりし、葉子はおろおろと答える。
「……飲み物がほしくて。ほんのちょっとの時間だったし」
「それでもコンビニの前に繋いで放置するなんてありえないだろ。リードが緩かったんじゃないか?」
「しっかり繋いだつもりだったんだけど」
「家事はどうするんだよ。夕食も作ってないんだろ? 風呂は? 洗濯は?」
「……ごめん。じゃあ家に帰るから、あなたがケンタを探してくれる?」
「は? 明日仕事なんだから無理に決まってるだろ。だいたいコンビニなんて歩いて10分もかからないんだから別のときに行けばいいのに。ケンタの散歩だって雨の日は勝手に休んでるし、最近は寒いからって……」
スマホからはくどくどと夫の説教が聞こえてくる。
葉子は泣きたくなった。
私だって、明日は朝からパートなんだけど。二人で飼い始めた犬なのに、あなたは仕事を言い訳にして全然世話をしてくれないじゃない。
そんな言葉を涙と一緒に呑み込む。
すっかり心が折れ、葉子はファミレスに入った。
とても家に帰って家事をする気にはなれなかった。
家族連れやカップルや大学生らしきグループでにぎわう中で、ドリンクバーだけを注文する。
スマホの電池残量を気にしながら、青い鳥のアイコンのSNS系アプリを開く。
インターネットに個人情報を探すのは気が引けたが、背に腹は変えられない。
数分後、いくつかの反応があった。
「えっ、ケンタくん、いなくなっちゃったんですか!?」
「暗くなってきましたね。もしまだ外で探してるなら気をつけてください」
「おつかれさま! 今日ちょっと寒いよね、暖かくしてね~(>_<)」
そうそう。こういう反応がほしかった。
しおれていた葉子の心が、少しずつ回復してゆく。
「リードもなくなってたんですか? 首輪が抜けてワンちゃんが脱走することはよくあるみたいですが、今回の状況だと違うっぽい?」
「連れ去りかな、怖いね」
連れ去りという言葉に、葉子はドキリとした。
その可能性は考えていなかった。てっきりケンタが自分でどこかへ行ってしまったのだと思っていたのに。
「誰かが勝手に連れて行った可能性はありそう」
「世の中、変な人がいるからなあ」
「たとえ短い時間でも置き去りにしないほうが良かったかも」
「警察には相談した? あと保健所や動物愛護センターにも問い合わせて」
なるほど、と葉子は唸る。
夫が協力してくれないなら、他人を頼るしかない。
現に今だってインターネットの向こうにいる他人のほうがよほど真剣に話を聞いてくれているではないか。
翌朝。
葉子は勤め先に休みの連絡を入れ、意を決して近所の交番に向かった。
緊張して引き戸を開けて中に入ったものの、すでに先客がいた。五十代くらいの女性が若い女性警察官になにやら相談している。
奥のデスクには男性警察官の姿が二人見えるが、どちらも電話対応中のようだ。
諦めて帰ろうとしたとき、声をかけられた。
「お待たせしました。ご用件は?」
振り返った瞬間、思わず「うっ」と声が出かかった。
まるで鬼瓦のような恐ろしげな顔をした警察官がぬっとこちらに近づいてくるのが見えた。さっきまで電話応対をしていた男性警察官のうちの一人だ。
できれば向かい側の席に座っている優しそうな人のほうが良かったな、などと葉子は思った。女性警察官のほうも話が終わる気配はない。時折聞こえてくる「徘徊」「おじいちゃん」「どっか行っちゃう」などの言葉からして、どうやら高齢の家族の徘徊に困っているらしい。
鬼瓦に威圧されながら、葉子はしどろもどろに答えた。
「あっ、あのっ、ケンタがいなくなってしまって……コンビニに行ってて、ちょっと目を離した隙に……」
「息子さんが行方不明?」
「いえ、犬です。ケンタっていう雄の雑種で……」
「飼い犬が行方不明になったってこと?」
「はい」
「じゃあ、とりあえず遺失物届を書いて」
「……はい」
言われるがまま書類に記入をしていると、鬼瓦顔が横から覗いた。
「結婚したんだな」
「はい?」
「中林から中森になって字面がにぎやかになってるところが、いかにも中林らしい」
「え?」
遺失物届には、葉子が記した「中森葉子」の名前がある。
だけど旧姓までは知らないはずだ。
「あ、あの、どこかでお会いしましたか?」
「高校で同じクラスだっただろ」
「えっ? えええーっ!?」
こんな人いたっけ。いたような、いなかったような。
記憶の隅をつつくが、すぐには思い出せない。
相手もそれを感じ取った様子で、さっさと話を戻した。
「それで、いなくなったときの状況は?」
「えっと……飲み物を買おうとして、ポールに繋いでコンビニに入ったら、出てきたときにはいなくなっちゃって……」
説明を聞くなり、鬼瓦の表情がいっそう険しくなった。
「店の外に犬を繋いで置き去りにしたのか?」
責めるような口調に葉子は苛立った。
犬を店の前に繋いでおいて少し買い物をするなんて、みんなやってることなのに。夫もSNSのフォロワーもこの警察官も、同じことで葉子を責める。
人間のトラブルに比べれば、ペットの行方不明なんて優先度が低いのかもしれないけど。それにしたってこの態度はあんまりだ。葉子にとっては家族がいなくなったも同然なのに。
「もういい。頼りにならない。自分で探します」
葉子は背を向けたが、すぐに鬼瓦が追ってきた。
「待てよ中林。ケンタは俺が見つけてやる」
「どこに行ったかわかるの?」
「わからないから探すんだろ。もし俺が先に見つけたら、さっきの言葉を取り消せ」
「さっきの言葉って?」
「『頼りにならない』ってやつ」
この人はなにをそんなにムキになっているのだろう。
そのとき、別の警察官が声をかけた。
「おーい
「ッす」
短い返事をして、幡野と呼ばれた警察官はそのままデスクへと戻ってしまった。
交番を出た葉子は、口の中で「はたの、ハタノ……」と繰り返してみた。
そうしているうちに、おぼろげな記憶がよみがえってきた。たしかに、教室の隅にそんな名前の男子生徒がいたような気がする。まさか警察官になっていて、こんな形で再会するだなんて想像もしていなかったけれど。
あの鬼瓦は大人になってから完成したようだが、高校時代からそのきざしはあったように思う。あの顔のせいで女子はあまり近寄りたがらなかった。だから記憶が薄いのだ。
それにしても、彼はよほど「頼りにならない」という言葉が引っかかったらしい。いつのまにか「どちらが先にケンタを見つけられるか」という勝負のようになってしまった。
そんな幡野に乗せられたわけではないが、葉子はふたたびケンタを探し始めた。
今日は捜索範囲を少し広げて、飲食店でにぎわう繁華街を中心に歩き回ってみる。今頃ケンタはお腹を空かせているかもしれない。
犬の鳴き声がするたびに振り返るが、どれもケンタとは違う犬だった。
ひと休みするために帰宅したものの、平日の家の中はしんとしている。
甘えたがりのケンタがいないと、どうにも考え事ばかりしてしまう。今頃どうしているだろう。もし本当に連れ去られてしまったなら、二度と会えないかもしれない。
次々と不安があふれ、胸が押し潰されそうだ。
気を紛らわせるために、葉子はSNSを開いた。
昨夜の呟きは広く拡散されていて、たくさんの
「早く見つかることを祈っています」
「飼い主さん自身もちゃんとお食事をとってくださいね」
温かい言葉が並ぶ中、一件のダイレクトメッセージが届いていた。
開いてみるとそこにはシンプルな文章があった。
「そっくりな犬を見かけました。くわしいことは会って話します。あしたの3時に、会えますか?」
葉子はうなった。
もしその「そっくりな犬」が本当にケンタなら、情報は欲しい。
でも、見ず知らずの人といきなりリアルで会うのは恐い。
夫は――きっとダメだ。自分でどうにかしろと言われるのがオチだ。
やはり、
返信を保留し、葉子はふたたび警察署を訪れた。
幡野は相変わらず忙しそうだったが、葉子の姿を見つけてこちらへ来てくれた。
「見つかったのか?」
「ううん、SNSにメッセージがきて、ケンタに似てる犬を見たって。これ、会ったほうがいいのかな」
「旦那には相談したか?」
「きっと来てくれないよ。自分でなんとかしろって言われちゃう」
「そうか」
「話を聞きに行ったほうがいいよね? なにか知ってるかも」
「やめておけ。本来ならわざわざ会う必要なんてないはずだろ。地図でも描いて説明すれば済む話だ」
「でも……ケンタが……」
葉子は唇をかみしめる。
そのとき、幡野が頷いた。
「わかった。俺も一緒に行く」
「えっ?」
「明日なら非番だし、ちょうどいい」
「来てくれるの?」
「気になるんだろ」
「……まあ、そうだけど」
「じゃあ決まりな」
手際よく明日の待ち合わせ場所と時間を決めると、幡野はさっさと仕事へ戻っていった。その姿を見送りながら、感情に任せて「頼りにならない」と言ってしまったことを葉子は後悔した。
翌日、待ち合わせ場所に現れた幡野は私服でもやはり鬼瓦のままだった。これでは相手が委縮しかねない。
葉子はやんわりと、少し離れた場所で待機してほしいことを伝えた。
「張り込みっぽくて腕が鳴るな」
非番の日に引っ張り出したことを申し訳なく思っていたが、意外にも彼はノリノリのようだ。この調子ならどんな相手がやってきても心配ないだろう。
そう思っていたのだが、時間になって現れたのは、小学4、5年生くらいの女の子だった。
「ケーキ頼んでいい?」
ファミレスの椅子に身を沈めるなり、彼女はそう言い放った。
支払いは当然こちら持ちだろう。だが、相手がケンタの情報を持っている可能性がある以上、無下にはできない。仕方なくケーキを注文してやる。
「うちの犬と似た犬を見かけたの?」
「うん」
「いつ頃?」
「きのうより前」
「どこで?」
「えーとね、ウサギのお店の近く」
「ウサギ? ペットショップ?」
「ちがう」
子どもだから仕方ないとはいえ、どうにも要領を得ない。
葉子は手帳を1ページ破ったものとボールペンを手渡して、地図を書いてほしいと頼んだ。
女の子はそこにたどたどしく地図を書き込んでゆく。
「ここがウサギのお店で、これはポスト。こっちが公園。道がこっちに曲がってて、リサちゃんが白い犬をだっこしてた」
「それはその子の家の犬じゃないの?」
「リサちゃんちは犬かってないもん」
そこまで聞き出したとき、ケーキが運ばれてきた。
女の子は小さく歓声をあげて食べ始め、あとは何を聞いても生返事になり、地図も書いてくれなくなった。
店を出て女の子と別れると、幡野が声をかけてきた。
「どうだった?」
「うーん、って感じ」
地図を見せると、彼もまた微妙な顔をした。
「……まあ、その、なんだ。子どもの証言が正しかったケースもある」
「慰めるのが下手ね」
「とりあえずその『ウサギの店』とやらを探そう」
算段をつけていると、幡野のスマホが鳴った。
「職場からだ。ちょっと出る」
短く断りを入れ、彼は画面をタップする。
次の瞬間、スマホごしに犬の鳴き声が聞こえてきた。
「はい、幡……」
幡野が応答しきらないうちに、電話の相手が話し始める。
『もしもし幡野か? 例の騒音トラブルで現場に来てるんだけど、今日はとくに酷いらしい。住民が夜眠れなかったんだってさ。それでな、相談者が
背後がうるさいせいか、話の内容がわかるほどの大声で、葉子の耳まで響いてくるありさまだ。
「了解ッす」
幡野は通話を切ると、葉子に視線を向けた。
「悪い。ちょっと行ってくる」
「え、お仕事?」
「一昨日から俺が対応してた件なんだ」
「あの、騒音トラブルって……もしかして犬の鳴き声?」
「聞こえてたか。もうずっと鳴きやまないらしい」
やっぱり思った通りだ。
葉子は提案する。
「私も連れてって」
「犬が気になるのか?」
「あのね幡野くん。犬は理由もなく吠えたりしないのよ」
「なにか理由があるってことか?」
「そうだと思う」
葉子は頷く。
電話の向こうの犬は、どこか怯えているようだった。恐怖の理由はわからないが、それを取り除いてやれば静かになるかもしれない。
それに、わざわざ非番の日に付き合ってくれた幡野に、何か少しでもお礼がしたかったのだ。
仕事に連れて行くわけにはいかないから、ついてくるならあくまで道を尋ねた
そう言われたので葉子は了承した。
現場に向かう途中、ふと幡野が呟いた。
「ウサギがいる」
「えっ?」
彼の視線の先を追うと、窓際にぬいぐるみを並べている店があった。子ども向けの玩具店のようだ。その中にひときわ大きいウサギのぬいぐるみがある。
「ウサギの店ってもしかしてこれ?」
「他の目印はあるか?」
「うん……ポストと公園だって」
「あそこにポストがあるな」
「ほんとだ」
「そういえば、この先には公園もある」
「……!」
二人は顔を見合わせた。
心なしか歩くスピードが速まってゆく。角を曲がると遠くから犬の声が聞こえた。
怯えたような、哀しそうな声。
葉子は思わず駆け出していた。
「……ケンタ、……ケンタっ!」
たまらず叫ぶと、犬の鳴き声がぴたりと止んだ。
そして、先ほどとは違う声で鳴き始めた。それはまるで誰かを呼んでいるようで。
「ケンタ、ごめんね、置いていってごめん……! 今すぐ迎えに行くから!」
息を切らせながら、葉子は鳴き声に向かってまっすぐ駆け寄る。
民家の庭に犬の姿が見えた。
犬はもう吠えていなかった。待ちかねていたように葉子を見つめている。
「ケンタっ!」
もう一度名前を呼ぶと、ケンタはちぎれそうなくらい強くしっぽを振った。
少し痩せてはいるが元気そうなその姿に、葉子の瞳から涙がこぼれた。
「……痴呆症になった老人が、昔飼ってた犬を探して毎日徘徊してたんだ。それで、その家の女の子がコンビニの前にいたケンタを見つけて家に連れ帰ったらしい。結局その老人は施設に入ることになったってさ」
老人の徘徊、騒音トラブル、そして行方不明になった犬。
ここ最近の問題が一気に解決し、幡野の鬼瓦も今日は心なしか緩んでいる。
「お手柄だね、幡野くん」
「それともう一件。最近このあたりに不審者が出たという話があってだな」
「不審者?」
まだ事件が続いているのかと葉子はいぶかしむ。
「下校中の中学生に『飼い犬がいなくなった。知らないか?』と声をかける事案があったらしい。心当たりはないか、中林?」
「……めちゃくちゃあります」
いなくなった犬や猫を一緒に探してほしい、というのは誘拐の常套手段だ。
仕方なかったとはいえ、もっと気を付けるべきだったと葉子は猛省した。
迷惑をかけてしまったことを謝るとともに、葉子は幡野に感謝を伝える。
「幡野くん、本当にありがとう。すごく頼りになったし、心強かった」
「そうか。よかった。子どもの頃からの夢なんだ」
「夢?」
「『頼れるおまわりさん』ってやつ」
そう言って幡野は嬉しそうに笑う。
葉子の目には、その鬼瓦がとても優しく映った。
優しい鬼瓦 ハルカ @haruka_s
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