第463話 荒神
【大阪湾 明石海峡】
大阪湾とはその名の通り、大阪平野と淡路島に挟まれた湾である。その入り口は明石海峡と紀淡海峡の二つであり、その巨大さは長軸60キロメートル、短軸30キロメートルにも及んだ。
膨大な海水の相当量が、膨れ上がっていく。それは足。長い、タコの触手がゆっくりと持ち上がっていくのだ。ゆっくりとはいっても音速の十倍は軽く超える。何故ならばその大きさは、足一本の長さだけで12キロメートル。それが七本に頭部と、そして半ばで千切れた一本の足もあったからである。
発生した衝撃波だけで、大阪湾に面するすべてが壊滅するほどのエネルギーがまき散らされていく。その脚が振り上げられた反動で海底の地殻が破壊され、地震が拡大していく。もはやそれは動くだけで災害をまき散らすのだ。
神と呼ぶに相応しい。荒神であった。
そのままであれば復活と同時に大阪湾や阪神地域から岡山、淡路、徳島は壊滅状態となっていたに違いない。しかしそうはならなかった。大阪の地に根付いた巨大な大樹"魔女の庭"。その梢から、巨大な魔力が膨れ上がったからである。
大ダコを囲むように生じた上昇気流は衝撃波を飲み込み、空高くへエネルギーを発散させた。のみならず、大ダコの動作によって生じた巨大な津波をも水竜巻として巻き上げ、大部分を太平洋の遥か遠方へと排出したのである。それですら最初の津波、100メートル級のそれは完全に消し去ることはできなかったが。
悪天候の魔女の霊力が為せるわざであった。
気象学の常識を無視した振る舞いに、人間たちも頭を悩ませることだろう。しかしそれもすべては大ダコを排除してからの話だった。
破壊と殺戮を邪魔された大ダコは、海面に目を浮上させる。そこから視認できる大樹へと怒りを募らせていく。あれが邪魔をしたのだ。破壊と殺戮を!
大ダコが、進路を定めた。その行き先は大阪。
神の戦いが始まろうとしていた。
◇
【明石海峡大橋】
明石海峡大橋とは、神戸市垂水区と淡路島をつなぐ巨大な吊り橋である。その大きさは3911メートルにも及び、高さは298メートルもある。2022年にチャナッカレ1915橋が開通するまで長らく世界一位を誇っていた。
その大橋も、今は無惨な姿となっていた。前日に発生した巨大地震によってひび割れ、乗り捨てられた車も何台も散見される。通行不能となったのだ。落下した車両もあるほどだった。それでも橋は強靭で、その姿を留めていたが。
そこに、駄目押しとなるような出来事が起こった。もはや無人と化していた橋へと巨大な―――高さ100メートルもの津波が襲ったのである。橋の大部分が、飲み込まれていく。それはどれほどの間続いたのであろうか。
やがて、波が轢いた時。橋はまだ残っていた。停止していた車両は流され、大きく損傷し、今にも倒壊しそうな有様であったが。
とはいえ、その余命はさほど長くない。もしも大ダコが魔女の庭を攻撃目標に定めていなければ、この橋が真っ先に狙われていたであろうから。
人類の英知の結晶は、ボロボロになりながらもその存在を誇示し続けた。
◇
【兵庫県神戸市灘区 標高800メートル付近 六甲山神社】
「見て。町が―――」
網野圭子は、他の避難者の声に振り向いた。
既に朝日が昇り始めている。彼女の乗り物は400CCのバイクだ。それに必要な荷物を背負い、いち早くここまで逃れて来た。昨日の地震以降連絡が取れない真理や神戸コミュニティのことは心配だったが、圭子自身はただの人間に過ぎない。昨日海面から伸びる、まだ非実体のタコの足を見た瞬間、脱出を開始したのである。会社には一応『即座に山へ避難を』と張り紙をしてきたがどこまで効果があるか。通信は今も回復していない。辛うじてラジオが叫んでいる。『数日の間高い津波の危険があります。速やかに山へ避難してください。命を守る行動をとってください』と。昨日の地震でそんなことは起きないだろうから、恐らく行政の方でもあのタコ足について把握しているに違いなかった。どのレベルかは分からなかったが。
だから、巨大な津波が神戸の街並みを飲み込みつつある光景を目の当たりとしても驚くには値しない。去年の年末、ネフィリムとヤマタノオロチの戦いがあった時から覚悟していた光景だ。住んでいた町が、妖怪によって滅ぼされるというのは。
どれだけの人間が事前に脱出できたろうか。分からない。
そして彼女は、昨日足を見た方角を向いた。
タコはそこにいた。途方もなく巨大な、馬鹿げた大きさの生物が。明石海峡に近い。二十キロは離れているというのに目と鼻の先に見える。端が蜃気楼のように揺らめいていた。明石海峡大橋の全長より明らかに大きい。あんな妖怪が、実在するとは。
「なにあれ……」「タコ……?」「え、幻覚じゃないの」「写ってない……?」「そんな馬鹿な、写らないなんてわけあるもんか。ほら、写ったぞ」
休んでいたのだろう避難者たちの聞き捨てならない言葉に、圭子は振り返った。即座に自分のスマホを取り出し、大ダコに向ける。
写っている。そんな馬鹿な。
そこで気付く。妖怪は人間が信じた通りの性質を持つ。ならば何万、何十万という人々がこう信じたら?『写らないなんて馬鹿なこと、あるはずがない』と。普通の妖怪は機械に写らなくても、大勢の人間が同時に目の当たりとし、実在すると認識した妖怪ならば?
へなへなと、圭子の腰から力が抜けた。そうだ。これが、破滅の封印が決壊するということだ。大ダコの写真や映像はたちまちのうちに世界中に流出するだろう。その実在をたくさんの人々が信じるだろう。そしてこう誰かが呟く。『あれ1体なのか?他にもいるんじゃないか?』そうなったらおしまいだ。2体目。3体目。10体。100体。破滅の怪物が連鎖反応的に出現する。止められない。
だが、それでも生きねばならぬ。圭子には娘がいたから。
ここもいつまで安全か分からない。圭子はバイクにまたがると、内陸を目指して出発した。
◇
【神戸市内 山中家】
長い間主人が不在だった竜太郎の自宅にも、災厄は及ぼうとしていた。
まず、阪神大震災を乗り越えた家屋の構造が大きくダメージを受けた。すでに一回打撃を受けていた家は、二回目に耐えられなかったのだ。一階部分が大きく壊れ、傾きつつあった。竜太郎が寝室としていた仏間も、仏壇は傾き、元は台所にあったものを雛子のために移して来た神棚も無茶苦茶になっていた。竜太郎と雛子が一緒に夕食を取り、テレビを見ていた居間も。古びた台所も。どれも耐久限界を超えていたのだ。それだけでは終わらなかった。明石の大ダコによって生じた津波は川を逆流し、膨大な水量は川沿いの家々を飲みこんで行く。竜太郎が初めて雛子と出会った川岸も大きく破壊され、あふれ出た水は山中家を丸ごと押し流していったのである。まだ、残されていた多くの住民や家屋ごと。
山中竜太郎と小宮山雛子が一年弱の間共に暮らした古い家は、完全にこの世から消滅していた。
◇
【大阪府大阪市梅田 "魔女の庭"】
どこまでも、空が荒れていた。
ミナは庭の端から海を眺める。ずっと向こう、淡路島や徳島。神戸。瀬戸内海を一望できる。風が強い。マントにくるまって身を守る。ずっと前に魔女から貰った意思を持つマントだ。それが寒さから守ってくれる。
夏とは思えないくらい、今は寒い。ここが高度千数百メートルにある大樹の梢だということを差し引いても。
「ミナ」
声に振り返ると、ヒメがそこにいた。同じようにマントにくるまっている。
ふたりで庭の端っこから、海を見た。そこで蠢いている、生物を。
タコだ。ありえないほどに大きなタコ。足を延ばせばそれだけで、高さは富士山を超える。何倍もだ。大きすぎて動くだけでも津波ができる。膨大な水は高さ百メートルになって海岸沿いを洗う。山々に至るまでもう水の底だ。破壊し尽くされ、都市の痕跡は消滅しつつあった。
逃げきれなかった人は大勢いただろう。昨日の夜からラジオやテレビ、ありとあらゆる媒体が叫んでいる。高いところへ逃げろ、山を越えろと。淡路島なんかはもう、ほとんどの土地が水で流されたのではないだろうか。そう思える。このペースでは水に山さえも削り取られて消えてなくなってしまうかもしれない。本当に大きな怪物はそういう存在なのだ。
この星が何千万年もかけて起こす地殻変動を、人間のタイムスケールで起こすことができる。
今のところ大阪はそれでも無事だ。尼崎や西宮の端っこくらいまでは。魔女の庭のおかげだった。この生命の樹は巨大な根を大地に張っている。その霊力は津波を阻止し、強固な根が地震を食い止めている。更には、魔女がその力で風や波を抑えられるだけ抑えている。そのおかげで瀬戸内海の人間はまだ、一掃されていない。
だからだろう。タコがこっちを目指しているのは。もうすぐ戦いになる。ミナやヒメよりタコはずっと強い。勝てるだろうか。分からない。勝てない可能性の方が高い。それでも戦わねばならない。ミナはそう考える。東洋海事ビルヂングはもうなくなってしまっただろう。それでも神戸コミュニティのみんなや、ママや、おじいちゃんたちはまだきっと生きている。彼らなら逃げられたはずだ。間違いない。山に守られた内陸もまだ無事だ。だから、みんなが生き延びられるように戦わねばならない。
ヒメと手を繋ぐ。怖い。でも一緒ならきっと戦える。手を離す。身に着けたものを脱いでいく。ヒメも同様にした。
やがて、一糸まとわぬ姿となった二人は振り返った。この戦の本陣の主である、魔女を。
駆けつけた何柱もの神々に囲まれ、魔女は頷いた。
ミナが肉体をほどいていく。
魔女の庭の前方、大阪湾。そこに巨大な円が生じる。その中から何かがせり上がって来る。全身の数十か所から白い翼を伸ばした、美しい人型の存在が。地上から見上げても理解不能であったろうが、魔女の庭の梢からならば違う。それはネフィリム。とうとう大人になったミナの真の姿だ。
実体化した彼女の全身を鎧が覆っていく。樹木と白亜からなるそれを破壊できる者は地球上でも数少ない。それでさえこれからの戦いでは足りない。そして手に出現したのは、生きた樹木からなる槍。
ミナが真の姿をさらしたのを見届け、ヒメも自身の正体を現した。頭から大気に溶けて行く。海水が盛り上がり、その下から水でできた首が伸びあがる。一キロメートルを優に超える巨大な鎌首は、蛇だ。続いて岩石でできた首。海水を蒸発させながら溶岩の首も持ち上がる。土砂や絡み合う樹木の首も。そうして八つの首が持ち上がって、完成だった。
ヤマタノオロチ。日本神話最大最強の怪物も、迫る大ダコ相手では心もとない。
大ダコが間合いに入るまでまだわずかだが時間がある。最後の一線を越えた瞬間、戦闘は開始されるだろう。
空気が、張り詰めていった。
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