第182話 魔導書と儀式
【兵庫県神戸市中央区 旧居留地東洋海事ビルヂング 食堂"季津菜"】
「はははっ。そりゃあおもしれえな」
古狸に笑われて、クリスティアンは仏頂面をした。
たまり場でのことである。
店内では客の入りはぽつぽつ。奈良での戦争からまださほど経ってはいない。みんな自宅でダウンしているに違いない。あの山中竜太郎でさえ体力を使い果たし、仕事を終えると自宅に直帰してすぐ寝ているという。というかあの戦いの後に仕事に行ける体力はあるのが驚きであるが。本当に人間なのか。下手な妖怪より人間離れしている。
カウンターで隣に座っている芝右衛門は、ジュースをすすっていた。小学生くらいの姿をしたこの古狸も淡路コミュニティの仲間数名を連れて参戦した。自宅療養明けだというのに大変だったはずだ。移動には真理が協力していると聞く。
「しっかし幽霊ねえ。単体ならともかく三人組たあ珍しいな」
「同感だ。雛子のような事例でもなさそうだ」
話題は先ほどの幽霊三人組のことである。彼女たちだけなら大した問題ではないが、電車の中で人を襲う奴がいるのは解決しなければならない。犯人を捕らえ、あるいは最悪殺してでも。すでに阪急電車の件は小さなニュースになっていた。乗客数名の錯乱・昏倒事件として。ドアのガラスが数枚破られたのもそのためだと警察が解釈してくれれば良いのだが。まあ、今までのパターンからすると真相にはたどり着けまい。
「少なくとも、その少女は三人を死んだ幼馴染が帰ってきたと信じていた。当人たちの自己認識もそうだ」
「まあ幽霊ならそう見えるだろうな。死者の魂なんかありっこねえってのに」
死者の霊魂は存在しない。少なくとも、死後の世界は妖怪たちにとってすら未知の領域だ。幽霊と呼ばれるものは生きた人間たちのイメージの具現化した、そういう生物に過ぎない。だからあの三人の幽霊は少なくとも生きてはいる。
「事故が起きた際、生きているうちに妖怪があの三人の魂を抜き取ってあの姿にしたというなら辻褄は合うな。肉体は死んでも魂は生きているというわけだ」
「魔神を呼び出す魔法の儀式を行ったんだっけか。子供でも実行できる奴なら、日本国内で当時手に入って、なおかつ簡単なもんでないと無理だな。そっちはお前さんの方が詳しいかもしれねえ」
「私も十年前には日本にはいなかった。出版事情も分からないが、魔神と言われれば
グリモワール。主にヨーロッパで広まった魔導書類を指す。悪魔や精霊、天使などを呼び出して願いを叶える内容が多く、中世後期から19世紀まで流行した手引書・便覧としての性格が強い。霊的存在を呼び出す降霊術的なものから雑多なおまじないを収録したものまでがグリモワールには含まれ、その定義は厳密なものではない。有名どころでは『ソロモンの鍵』『黒い雌鶏』など。これら魔法書はキリスト教・ユダヤ教・イスラム教が共存していた時期のイベリア半島やシチリア島などから流入した占星術や魔術と、それにインスピレーションを得たキリスト教徒によって発展し、様々な写本が書かれていった。識字率の低い時代であり、そういった魔術の実践者は主に神学者や学生、司教といった教養のある人々である。そこが主に口承されていた民間の魔術との違いだった。聖職者が担い手となったことで、キリスト教的儀式が多く転用された儀式魔術として発展していったのだ。儀式魔術は魔女狩りの時代には一時下火となるものの途絶えることはなく、近代に入って識字率の増加とともに、グリモワールは民衆的な書物となっていったのである。
「あるいは近代魔術かもしれないが、子供には難解だろうな。まだ具体的に霊を呼び出す古典的な降霊術の方が簡易だろう」
近代魔術では霊を呼び出す手法は「召喚」と「喚起」に分けられる場合もある。召喚は霊に請願し、術者の内に呼び入れて同一化する手法で主に高位の霊的存在、天使や神霊に対して行う。対して喚起は術者の外に霊的存在を呼びつける手法で、主に悪魔や四大元素の精霊など人間と比較して同位あるいは下位の存在へ行う。
これらはあくまでも近代魔術における分類であって、それ以外の魔術では厳密に区分されずひとまとめに「召喚」と呼ぶことも多い。
グリモワールの本場であるヨーロッパで生まれ育ったクリスティアンは、魔術絡みの事件を扱った経験もあった。
それらの説明を聞いた芝右衛門は、グラスの中の氷を見つめながら思案する。
「問題は、魔神がいるとしてそいつはどこに?っていう点だなあ。その翠ってお嬢ちゃんは?」
「分からない。最初は妖怪かと思ったが、感じた妖力は件の魔神のものかもしれない。私にわかるのは妖力の有無とその形、強さだからな。少なくとも普通の家に住み、親もいるのは確かだ。もちろん話は全て嘘で、家族も術で記憶をいじられており、あの家には娘など最初からいない。という可能性もないではないが」
「疑い出したらきりがねえな」
「同感だ」
「まあ書類を調べりゃ娘が実在するかどうかなんてすぐ分かるだろ。真理ちゃんに頼めばどうだ」
「彼女は忙しいからな……奈良の件、隠蔽で走り回っている。今日もよそと共同で働いているはずだ」
「あー。それがあったか」
と、そこで店内のモニターの画像が切り替わった。顔を出したのは真理である。
『呼びました?』
「おおう。聞こえてたか。いやな。頼みたいことがあるんだが忙しいだろうからどうかなと思ってなあ」
『まあ、内容次第なら……』
クリスティアンは芝右衛門と顔を見合わせると、ざっくりと概要を説明した。ふんふんと頷く真理。
『分かりました。時間を見てやっておきます』
「ありがとう。急がなくていい。今も大変だろう」
『全くですよ。シナリオに合わせた防犯カメラの録画差し替えだけで何百台じゃ効かないですし。変な情報が出回らないようにどんだけ苦労させられてるか。今、関東や中国地方からも応援来てもらってるんです。無茶苦茶大変です』
「だろうなあ。能見の奴ら、何てことしてくれやがったんだか」
何故、封印された妖怪があの晩蘇ったかについてはすでに現場検証が行われ、主要なコミュニティ間で共有が図られている。能見一族のお家騒動が主たる原因であった。静流たちは巻き込まれたに過ぎない。迷惑にもほどがある。幸い神戸コミュニティでは死者は出ていないものの、全体では参戦した各地のコミュニティや隠れ里で十数名、民間人は二十人も亡くなったのだ。生け捕りとした数名の妖怪の処遇も問題だし(再び封印するのは人道的にどうかという意見が頻出した)、破壊された地域の復興にもどれほどかかるかわからない。例の巻物についても、原本は失われたものと見られているが静流たちが全体を撮影しており、火伏は主要コミュニティにその全貌を公開した。能見一族のあまりの非道に多くの妖怪たちが震え上がったのだ。
「ま、潰せる事件の芽は小さいうちに潰すに限る」
「全くだ。では私は帰る。明日も講義があるのでな」
『じゃあ私も。この後も会議なんで』
「お疲れさん」「お疲れ」
会計を済ませ、店を出るクリスティアン。彼は、明日以降どうなるか心配しながら帰途についた。
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