第122話 受け売り

「店長。この子、ちょっとお店においてていいですか」

アルバイトの中田の言葉に、安住初音は小首を傾げた。

開店前の喫茶店である。中田が連れてきたのは昨夜の子だ。親を探さねばならないが、警察はあの体たらくでどうにもならない。中田自身が何とかやるしかない。

「どうしたのこの子」

「昨日うちのドア叩いたんですよ。警察呼んだんですけど要領得なくて、帰っちゃったんで……ほっとくわけにもいかないですし」

中田は安堵した。幸い、店長は正気のようだ。ちゃんと子供に視線を向けている。

店長は腰を落とすと、子供に目線を合わせる。

「こんにちは。どこから来たの?」

問われた男の子は指をさした。たぶん昨日と同じ方向である。

「そっか。じゃあお名前は?」

これには答えない。昨日と同様に。

「帰るお家は?」

ぎゅ。中田にしがみつく子供。

「こんな感じです」

「なるほどね。どうしようかしら」

安住初音は思案。大人しくしているならまあ問題はないか。

「仕方ないわね。今日一日は隅っこにいてもらいましょ」

こうして、座敷童は店の隅に行くこととなった。


  ◇


【神戸市灘区王子動物園】


うだるような暑さだった。

日陰を選んで詩月が黙々と描いているのは動物のスケッチ。被写体は檻の中の猿たちだ。

神戸市立王子動物園。内部には遊園地や上映型設備のある資料館を備え、パンダとコアラを国内で唯一両方見ることができる(※)、神戸市を代表する動物園のひとつである。1928年に開園された諏訪山動物園を前身とするこの施設は老朽化のために再開発計画が立ち上がっているが、今も現役であった。

詩月がここに通い出したのは物心ついたころだ。家のすぐ先にあるのだから当然かもしれなかった。スケッチブックにはここで描いた絵がたくさんある。書き溜めた分の相当量が先日の事件で失われてしまったが。

一心不乱に猿たちを描くのも一段落し、ペットボトルに手を伸ばしたとき。

手の甲へと、女の子を象った落書きが。かと思えばそれは吹き出しを使ってではないか。

『あんまり根を詰めると体に毒よ』

「へいき、です」

『自分で思ってても、駄目。感覚なんてあてにならないんだから』

お母さんみたい。と思う詩月。実際ある意味ではそうだ。この落書きを操っているのは、母の肉体の本当の持ち主なのだから。

七瀬初音。学校の美術室にかかっている絵画の妖怪であり、母の親友。先日の一件以来、ずっと詩月の体に分身の落書きという形で居座っている。いや、本気で嫌といえばたぶんすぐに消してくれるはずだが。

「それ、実感ですか」

『そうね。どうなのかしら。一般論だと思う。何しろ私、絵だし』

「絵でいる、ってどんな感じですか」

『普通かな。慣れれば。人間だった時の感覚なんてもう、ほとんど覚えてないから』

会話が途切れる。ペットボトルの中身を半分ほど飲む。息をつく。今年の夏は殺人的な暑さだ。熱中症警戒アラートは常に真っ赤で、特別な事情を除いてはスポーツをしないように訴えている。猿たちも元気がない。動きのある絵がうまく描けそうになかった。

スケッチブックを仕舞い立ち上がる。切り上げ時だろう。

類人猿舎から出る。向かいは老朽化した遊園地。なだらかな道を降りるとアシカ舎。パンダ舎。クジャク舎やゾウ舎も見える。抜けていく。出口を出て、前は大きな駐車場。そこを右に降りて信号を渡り、一つ奥に入ると見える共同住宅の一階が詩月の家の喫茶店だ。建物全体が祖父母の持ち物である。店は祖父母が経営していたのを母が引き継いだとかなんとか。

中を見る。ウィンドウ内にはフロートやパフェ、コーヒーやパンケーキといった軽食や飲み物のほか、エビフライののった定食の食品サンプルもある。タルタルソースを付けたそれは動物園帰りの親子連れに人気だ。

そして、店内に入ろうとしたときだった。店を凝視している、何らかの気配を感じたのは。

「―――あの。七瀬さん」

『分かってる。そのまま店に入って。気取られる』

店の入り口を、平静を保って入る。中田や常連にあいさつし、奥へ入った段階で、詩月はへたり込んだ。

「……今の、一体」

街角からこちらを見ている気配。真昼間だというのにありえないような寒気を感じた。病気ということはないだろう。何しろ七瀬初音も感づいていたのだから。

姿は見えなかったが、あれは一体。

『この店は大丈夫。悪い者は近づいてこれない。よっぽど強力な妖怪なら話は別だけども。人間の姿を取れるような、はっきりとした肉体を持った妖怪でもない限り』

言い換えれば、低級な妖怪であればこの店には手出しできない、ということだ。今の母はほとんど妖怪としての力を持っていないが、それですらごく低級な―——人間の想いが凝っただけの悪霊程度には勝る。その力で描かれた絵により守られているからだ。

『私がいるから大丈夫。いざとなったら、先生たちも呼べばいい。そうでしょう?』

「は、はい……」

『まああんまり居座るようなら追い払わないといけないけどね。今のところお店の客にも手出しはしてないようだし』

そうだ。いざとなったら助けを呼べばいいのだ。妖怪相手に警察は役に立たないのは承知しているが、頼りになる知り合いは何人もいる。

安堵した詩月はエプロンを付けると、店を手伝うべく部屋を出た。


  ◇


閉店後。後片付けをする母の前で、詩月はへたり込んだ。

「どうしたの、詩月。大丈夫」

「大丈夫、じゃないわ。お母さん。店の外に何かいたでしょう」

「ああ。あれね。大丈夫。あれくらいなら」

「あれくらいならって……」

手を止めた母が、こちらを見てほほえんだ。

「弱い犬ほどよく吠えるものよ、詩月」

「ええ……?」

「本当に恐ろしい妖怪は、人間に存在を悟らせない。人間の実力を知っているもの。人間を侮りはしないわ。ましてやあんな殺気むき出しだなんて」

「そんなものなの……?」

「実はこれ、先生の受け売りだけどね。間違ってはいないと思うわ」

「あー……」

確かにあの先生なら言いそうだ。山中竜太郎。普通の人間でありながら悪の妖怪を退治して回っているという男なら。

「それに、もう気配しないでしょ?」

「そういえば」

いわれてみれば、確かにあの異様な気配は消えていた。一体いつの間に。

「たぶん中田さんについていったから」

「……へ?中田さん危ないじゃない」

「大丈夫。中田さんが連れてた子、見たでしょ」

「あの子がどうかしたの?」

首を傾げた詩月に、安住初音は頷いた。

「ほら。気付いてなかった。あの子、人間じゃあないわよ」

「……気付かなかった」

「あの子が中田さんを守ってる。だからへいき」

「そっか……」

詩月が納得したのを見た母は、止めていた片付けを再開。詩月もそれを手伝う。

そうして、夜が更けていった。




(※)2024年(令和6年)3月31日、パンダのタンタンは天国に旅立ちました。ご冥福をお祈りします。

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