第75話 天使の旅路
ノドカは放心状態にあった。
そこはホテルのシャワールーム。流れ出る湯の音が他のすべてをかき消し、外界の音を遮断している。その中で、彼女は呆然と己の下腹部を抑えていた。
そこに、あのマステマ。そう名乗る天使の精が、流し込まれたのだ。抵抗などできなかった。あんなものに抗うことなど人間には不可能だ。少なくとも、普通の人間とほとんど変わらないノドカには。
犯された。
最悪なのは、それで終わりではないことだ。これは始まりなのだった。世界の破滅のための。
どれほどの時間、そうしていただろか。
やがてのろのろと、ノドカは立ち上がった。体をバスタオルで拭き、与えられた服を身に着け、シャワールームから出る。
そこでは、エシュだったか。そんな名前の男が待ち構えていた。恭しくノドカに対して一礼したのである。
「……心配しなくても、自殺なんてしない。静流はきっと助けに来る」
「かもしれません。しかし我々がこの国から逃げる方が早いかもしれない。勝負はまだ終わっていないのです。花嫁よ」
「やめて。私はあの怪物の花嫁なんかじゃない。ただの、人間の女の子よ」
「あのお方も怪物ではない。単に人間より強大な力をもって生まれただけのこと。その内面は人間とさほど変わらない。我々の存在を規定するのは人間であるからには。人間の想像力は、真に異質なものを生み出すことはできないのです」
「人間がここまで酷いことなんてできないわよ。あなたたちは何人殺したの。警察署でもそう。私を捕まえるためにどれだけ殺そうとしていたの」
「人間だからこそできるのです。私はあのお方に従って二千年近く生きてまいりました。だから断言できる。人間に対して最も冷酷になるのは人間です」
「……」
「いいでしょう。お話ししましょう。私とあのお方の出会い。そして今に至るまでの道筋と、その過程で何を見てきたのか。少しばかり長い話になりますが。場所を移しましょう。茶を用意いたします」
そうして、人類史そのものとも言える長い話が始まった。
◇
「私が生まれたのは古代ローマが地中海全域を支配していた頃です。物心ついたとき、私は怪物の子供として売買の対象でした。奴隷だった。ああ。当時、我々のような存在は、ごく自然に人間の暮らしのすぐそばにあったのです。人間は我々の実在を当たり前に信じ、我々もまた彼らの前にごく当然のように姿を現していた。
あのお方と初めて出会ったのもそのころです。当時、あのお方はローマ東部の
あのお方は私を奴隷ではなく、戦士として扱いました。来るべき戦いに備え、大勢の
そして、最も重要な真理。この世界に創造主はいない。という事実を。
そう。当時すでに、我々は人間の想いが神々や精霊、怪物、数多の諸霊を生み出すという事実を知っていた。素朴な人間たちとは違って。神々の中でも特に思慮深い者たちは、世界の成り立ちについて考察しました。何故世界各地でこれほど多様な神々が生まれたのかを。そのいずれもが、人間たちの神話とは異なり世界を創造していないという事実を。そうして、真実を導き出したのです。当然、天使たちは"主"が真の意味では造物主ではないという事実も知っていた。あの方は―——我が主人、天使マステマは、神が人を生んだのではなくひとが神を生んだのだと、しばしば幼い私に言い聞かせました。仲間の天使たちからの覚えはあまりよくないようでしたが、表立って抗議されることはほとんどなかったように記憶しています。あのお方の力が天使の中でも抜きんでていたからでしょう。
それでも、あのお方は本分を忘れなかった。主を信じる者たちを見守り、慈しむという使命を。聖書に書かれているような冷酷な方ではなかったのです。
あのお方が生まれた時代、キリスト教はまだ存在しなかった。私が生まれた時期になってようやく、ユダヤ教の一分派として誕生したキリスト教徒は徐々に数を増やしている段階だった。そうした彼らも、あのお方は庇護の対象としたのです。
そんな中、ある事件が起きました。64年、ローマ大火です。多くのキリスト教徒が皇帝ネロによって焼き殺されました。あのお方の悲しそうな顔を覚えています。それはキリスト教徒の弾圧を目的としたものではなく、キリスト教徒だから処刑されたわけでもなく、ただ大火の責任の所在を求める民衆の圧力にネロが応えざるを得なくなったから起きたことです。ユダヤ教時代から存在していた様々な軋轢のひとつでしかなかった。どうしようもなかったのです。大局的に見れば小規模な事件でした。そしてそういった事件はたびたび繰り返された。歴史を俯瞰する我々の視点ではそれは悲しいことではあってもありふれた事件でしかありませんでしたが、しかし当事者にとっては違います。有限の生命と限られた視点しか持たない人間たちにとって、それはまさに世界の終わりとも思える出来事だったでしょう。だから彼らは一連の書物を書き上げた。『ヨハネの黙示録』を。
それは一見すると、世界の終わりを予言する書物でした。しかし実際は違います。当時を生きた我々からすれば意味は一目瞭然でした。当時のキリスト教徒たちが体感した絶望を、多彩な比喩を用いて描き出した優れた文学という側面しか持たないものだったのです。しかしやがてキリスト教徒が増え、時が流れ、本来の意味が忘れ去られていくにつれて意味合いは変わった。それは終末を予言するものだと真剣に信じる者が増え始めたのです。それは地中海世界を襲った幾つものカタストロフを経て強まっていった。ご存じの通り、多くの人間が強く信じたものは現実となる。世界の破滅も現実のものとなる日が近づいてきたのです。
もちろん、いくら大勢が信じたとはいっても全人類には遠く及びません。そもそも人類の総数が今とは比べ物にならないほど少なかった。他の幾多の神々を討ち破った上で世界を破滅させるなど、現実問題として不可能だったでしょう。そして、破滅を実行するべき主と天使たちの多くが生まれた時は黙示録など存在しなかったのです。人間たちが信じているからと言ってそれを実行するべきかで、天使たちの間では議論が交わされました。幸いなことに、古い天使の多くは慎重派でした。あのお方を含めて。しかしキリスト教の勢力拡大に伴って増えた新しい天使たちは数も多く、力も強かった。彼らは急進派だった。そんな中、"主"は中立を宣言なさりました。天使たちの議論に加わらない。自らは今後、人間世界に対して行動を起こさないと表明されたのです。
そうして天使たちの間で、対立は深まっていき―——やがて、破局が訪れました。戦争が起こったのです。およそ1500年前のことです。
あの方は、古い天使たちの先頭に立って戦いました。古い世界の存続のために。私をはじめ、あの方に従う悪霊たちも戦った。大勢が死に、特に由来が忘れ去られたような古い起源をもつものは永久に蘇ってくることはありませんでした。我々とて真に死ぬことはあるのです。
戦いは、我々の陣営の勝利に終わりました。しかしその傷は深く、勢力は大幅に減退しました。そして、この戦いの影響はそれだけにとどまらなかった。世界中の多くの神々を震撼させたのです。終末論の恐るべき威力に。
終末神話はキリスト教徒だけのものではありません。世界中に類似のものが数多く存在します。同様の事件が起きることを恐れた神々は、それらに呪いをかけた。そう。世界を終わらせる出来事など起きない、と。生き残った天使たちも彼らに倣い、同じことを行いました。黙示録に呪いをかけ、終末の訪れを禁じた。最後の審判は来ません。天使たちが来させないと決めたからです。その時、多くの世界を終わらせる怪物や事象は永久に封じられた。あなたの胎に宿ったネフィリムもそのひとつです。
そのままであれば、あの方が世界の滅亡を望むことはなかったでしょう。本来ならば今でも、人の世界の守護者であられたはずです。しかし事件が起きた。
天使同士の内乱から何百年も経ったある時、あの方は西ヨーロッパにいました。かつての同族同士の争いに絶望したあの方は半ば隠遁生活を送っておられた。普通の人間として旅の暮らしをしておられたのです。そしてある時、恋に落ちました。千年を生きて初めてだと笑っておられた。天使と人間の恋は戒律に反しましたが、大した問題ではありませんでした。もはやそのようなものは権威を失っていたからです。
その地にとどまり、子を成しました。普通の人間の赤子が生まれ、あの方は安堵されていました。奥方が寿命で亡くなられるまではその地に留まるであろうと思われた。しかし十年が過ぎたある時、事件が起きました。
お子が、天使としての力を発揮された。普通の子ではなかったのです。それを見た人間たちは恐慌状態となりました。不幸なことに、私もあの方も不在の時でした。恐怖し、混乱した暴徒によって家は囲まれ、そして奥方もお子も殺されました。私たちが駆けつけた時には手遅れだった。
あの方は真の姿を現しました。それを見上げる人間たちは許しを請いましたが、無意味だった。彼らは皆殺しとなったのです。そしてあの方は———自害されました。絶望のあまり、自らの首を剣で刎ねて。
私があの方と再会したのはそれから百年以上後のことです。十字軍でヨーロッパ全土が沸いていたころでした。蘇ったあの方は、行軍する軍勢を冷たく見下ろしておられた。こうおっしゃっていました。「人間はいつまでも無知で愚かなままだ。彼らは自分たちの信念が何を引き起こすか考えたこともないのだ。誰が世界を守ってきたのかも」と。あの方は人間に世界の真実を教えるべきだと考えた。私を連れ、あの方は昔の仲間を訪ねました。天使たち。悪霊たち。大勢の者と会いましたが、賛同するのはごくわずかだった。天使たちはあの方に警告し、それを聞き入れないとなれば命を狙った。私たちは各地を転々としながらどうするべきか考えました。すでに我々の存在は人に対して秘され始めていた。完全に人間たちから忘れ去られるまでは、さらに何百年もかかるにしても。人間と我々との間で幾たびも起きた衝突のせいです。神々や精霊、怪物たちは闇の中に消え、結界で閉じた聖域に籠り、あるいは人の足元に落ちる影の中に身を潜めることとなった。そんな中、あの方と私は、とある古い神に出会いました。いかなる神よりも古い、誰も名を知らぬ神に。彼は人類に真実を教える方法を知っていた。それに必要なのがネフィリムです。原理は単純だ。世界の破局を封じた神々の呪いの力の根本は、人々の想いです。世界は明日もきっと続いていくという。ならば、その逆。世界が滅ぶと多くの人々に心より信じさせることができれば、破局は訪れる。それで人類は絶滅することはなくとも、もはやすべては白日の下にさらされるでしょう。真実を知った人類は謙虚に生きていくことになるはずです。ネフィリムは単体では人類を滅ぼすことなどできはしないでしょう。今を生きる多くの神々や、進歩した人間の武器で殺されるに違いありません。しかしそれでいいのです。人間たちが、ネフィリムの実在を知れば。ネフィリムがいると信じれば、他の多くのことも信じるでしょう。世界の滅亡も。その時、神々の呪いは弾け飛び、封じられた禍いが蘇るのです。人間たちは知るでしょう。我々がずっと隣にいたという事実を。自らの野放図な想いが、世界をどれほどの危険に晒していたのかを。
私たちがブラジルに渡ったのは500年ほど前です。天使たちの追撃を逃れて身を隠すため、人間たちの船に乗り込んでやってきました。そこでも多くの愚行を見た。それまでと同様に。あの方は、かの地で己の本分に立ち返りました。人間を試す者として、新たな悪霊の軍勢を結成したのです。そして、長い時をかけてあなたを見つけた。あなたは我々の希望なのです、ノドカ=藤森」
◇
そうして、長い。本当に長い、
ノドカは一言も発することができなかった。その内容に圧倒されていたからである。
誰もいないホテルの一角で、ソファに腰かけながらふたりは向かい合っていた。
やがて、茶が冷めるほどの時間が経った頃。ぽつり。とノドカは呟いた。
「……死なせるために、子供を産ませるのね」
「はい。ですがそれは———」
「あなたたちだって愚かな人間と何も変わらない。人間とあなたたちは内面において何も変わらない。そう言ってたわね。今私の中に宿った子だってそうなんでしょう?なのに、人をたくさん殺して、恐怖をまき散らして、最後には殺されるために生まれろっていうの?怪物として?最初の子が殺されたときは、絶望のあまり自殺したのに?酷いと思わないの?」
「……」
「そんなことはさせない。私が許さない」
「あなたがそう望んでも、子は生まれてくるでしょう。そのようにあの方は祝福された。2200年の時を生きてきた天使の術です。あなたには破れない。いや、誰であっても不可能だ。あなたが仮に我々の手から助け出されたとしても、必ず産むこととなるでしょう」
「いいわ。本当にそうなら、私がそうならないように育てて見せる。あなたたちが人間と同じだというのなら。生まれてくる子供だって、育てる親次第でよくも悪くもなるはず。そうじゃないの?」
「……あなたは偉大なひとだ。この状況で、そう宣言なさるとは」
ノドカは、震えていた。震えながらも、その視線をまっすぐに、この二千年間生きてきたという
「勝負よ。私とあなたたちと、世界を守るか滅ぼすか。この子を生かすか殺すかの。静流が私を助け、この子を正しく育てられれば私たちの勝ち。あなたたちが私を連れ去り、目的を果たしたならあなたたちの勝ち」
「勝算があるとお思いか」
「もちろん。私たちにも、神様のご加護はちゃんとある。祈ればきっと応えてくれる。だから」
母となることが運命づけられた少女は、窓の外を見た。やってくる助けを信じて。
こうして、世界の行く末を定める戦いが始まった。
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