第三章 疫病の生んだもの編
第9話 陰謀論と呪い
歳をとると、何をするのも大変になる。
老人は、苦労しながら入浴の準備を進めていた。
立っているのも年々難しくなっている。時折壁や手すりで体を支える。昔はそんなことはなかったのに。今年で九十二歳。息子や孫たちは施設に入れとうるさいが、自活できる限りはこの、長いこと暮らしてきた文化住宅で過ごすつもりだった。
世界は移り変わっていく。自分が生きていられるのも、歴史という大河の中ではほんの一瞬だ。心残りはなかった。ただ一つ、孫のことを除いては。
すでに独立し、結構な歳になっている孫は、この数年ですっかりおかしなことばかり口にするようになってしまった。元に戻ってほしいが、孫は自分の言うことに聞く耳など持たないだろう。
よっこいしょ。とばかりに浴室の扉を開ける。ぷるぷると震える足で、浴室に踏み入れる。壁を支えにして一歩を踏み出す。
そこで、滑った。
「―――あ」
後頭部に衝撃。あっという間に意識が暗転していく。
倒れている彼が発見され、よくある独居死として結論付けられるのはもうしばらく先のことである。
実際、死そのものはごくありきたりな独居死だった。
死、そのものは。
◇
「はい。はい。そうでっか。わかりました。明日になったらすぐお伺いしますわ」
「死んでまうなんてなあ。俺のいう通りにせえへんからや」
ぶつぶつと呟きながらパソコンの前に戻る。飲みかけのビールを手に取る。ぐいっといってから、大森はSNSへ書き込んだ。
>>『コロナなんてものはそもそも存在しなくて、ただの風邪だった。
ただの風邪の為に洗脳されワクチンを打たされ亡くなったり後遺症になっている。
うちのおじいさんも言うことを聞かずにワクチンを打ったから死んでしまった』
たちまちのうちにいいねやリツイートが増える。仲間がこんなにいることに大森は勇気づけられた。
—――なのになぜ祖父や家族はみな、自分の言うことを信じてくれないのだろう。すべては政府の陰謀なのに。
大森は気付いていなかった。おかしいのは自分たちの方なのだと。家族は、おかしくなった大森を遠ざけるしかなかったのだと。大森が信じているのは科学的根拠もない、根も葉もない陰謀論なのだということを。
もっとも、それを信じている人間の数。そしてその想いは侮れないものがあった。事実かどうかは関係ない。そこに巨大な力と指向性があるかどうか。それだけが重要なのだ。
大森は、気付いていなかった。
◇
「ただいまー」
翌日の夜。大森は電灯をつけると、施錠。のそのそと靴を脱いだ。
疲れた。今日は半休を取って祖父の死に顔を確認し、午後はそのまま仕事だ。通夜と葬式の手配も必要だったが、それは警察の検死が終わってからになるだろう。事件性はなくても独居死の場合は検死するらしい。というか事件性がないことを確認するためか。仕方がない。
よっこいしょ。とカバンを置くとテレビのスイッチを入れる。そのままネクタイを外しスーツの上着を脱ぐ。晩飯は面倒くさいのでコンビニで買ってきた弁当だ。用意してくれる家族はいない。子供たちはもう独立したし、妻は仲が悪くなって先日とうとう息子のところに移ってしまった。別居である。どうして孤独を感じなければならないのだろう。
世の無常を感じながら、ニュースを見る。
何やら検死待ちの遺体が盗まれたとかやっている。祖父の遺体が運び込まれたところでは。物騒なこともあるものだ。
などと思っていたら電話がかかってきた。
スマホを手に取る。警察からだった。
『もしもし。大森さんのお電話でお間違いないでしょうか。兵庫署の権藤ともうします』
「ああ、昼間はお世話になりました。どないしはったんですか」
『はい。実は、おじいさんの遺体が行方不明になりまして。ご連絡を』
「え?うちのじいさんが?ニュースでやっとるやつですか」
『はい。それです』
「うわあ。事件の当事者になるなんて思うてもみんかったですわ。こないなことよくあるんですか?」
『いえ。うちも初めてでして。捜索中です』
「こわいわあ。見つけてくださいね」
『それはもちろん。では、失礼いたします』
電話が切れた。
気持ち悪さを感じ、大森はスマホを置く。老人の死体を盗んだやつは何が目的なのだろう。何となく不安を感じた彼は立ち上がると、戸締りを確認していく。窓よし。こっちのベランダもよし。玄関はさっき鍵をかけたがもう一回。
マンションの部屋の入口は、チェーンロックと鍵の両方がかかるようになっている。チェーンをかける。鍵が大丈夫か確認しようとして。
ぴんぽーん。
インターホンが鳴った。
のぞき穴から外を見る大森。―――誰もいない。うん?いたずらだろうか。
そこで再びぴんぽーん。
誰かいるのは確からしい。出るべきだろう。
やむを得ない。チェーンはそのままに鍵を開け、ドアを開く。
最初に入り込んできたのは、腐臭。
……?
眉をひそめた大森は、外を覗こうとして。
突如として差し込まれた、腕。
「ヒィっ!?」
大森はひっくり返った。心臓が止まるか。というショックを受けたからである。強盗!?
腕を押し返そうとして握る。何だこの冷たさは!?驚愕しつつも悪戦苦闘。なんて力だ、枯れ木のような腕だというのに!
それでも何とかドアの向こうへ押し返す。閉める。鍵をかける。
ドンドンドン!
ドアが立て続けに叩かれる。まずい。破るつもりか。助けを呼ばねば。
奥に駆け込む。スマートフォンを掴む。電話を———警察って何番だっけ?いや、先ほどの権藤という警察官!!
履歴をタップしようとしたところで、スマホが震えた。反射的にタップ。
画面に映り込んだのは———顔だった。ギョロリとした目をした老人の。昼間みたばかりの、青ざめ、死相が浮かんだ顔。
亡くなったばかりの祖父だった。
「~~~っ」
流れ出た声がまるで冥府の底から聞こえてきたように感じ、大森はスマホを取り落す。
異変はそれで終わらなかった。
じ……じじじ……
蛍光灯が明滅すると、フラッシュを炊いたように閃光を発する。かと思えば、灯りがすべて消滅したではないか。
残されたのは、闇。
その中で大森は、スマホが流す言葉が何なのかに気が付いた。それは名前。大森をずっと呼び続けているのだ。
「くそっ!くそ!!」
電源を切る。いや。切れない。頭がおかしくなりそうだ。
それだけではない。
パソコン。テレビ。それらのモニターも、一斉に変化した。ブラックアウトしたかと思えば、顔が浮かび上がったではないか。スマートフォンと同様の、祖父の死相が。
「あ……あ……」
もはや恐怖で声も出ない大森。そんな彼を、最後のダメ押しが襲った。
ドンっ!!
見れば、ベランダ側。外へとつながる窓に、何かが張り付いているではないか。人型の影が。
嫌だ。見たくない。見てしまったら俺は……!
「ああ……窓に!窓に!!」
大森はそのまま、気を失った。
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