百鬼夜行 現代伝奇

クファンジャル_CF

第一部 物語の始まり 2023年春

プロローグ 妖怪を狩る男

第1話 狩人と獲物

【兵庫県 六甲山地東端】


昼が終わりかけている。

瑞々しい新緑の匂いに包まれた山肌は暗い。枝葉の覆いが陽光を遮っているのは一因だが、それ以上に光量を落としているのは光源―――太陽そのものが沈みつつあるという事実だろう。まもなく夜の帳が降りるのだ。

人間の時間は終わり、獣の時間が始まる。

木々と地形の合間に身を隠した獣は、谷を挟んだ反対側をじっと見つめていた。木々の合間にいる人間を観察していたのである。獣は十分に大きい。それは、二つの目の間隔が広いことを意味していた。木々の向こうを見通す能力において獣は、人間を圧倒していたのである。視力そのものも。嗅覚。聴覚。触覚に至るまで、ありとあらゆる性能が。

彼は待っていた。獲物を口にする刻を。

人間は何やら動き回っている。それも、まだ日が高いころから。結界に閉じ込めてすでに幾分も経つ。十分に観察し、攻撃を仕掛けるのが獣の流儀であった。人間は手ごわい。遠い過去。何百年も前には、手痛い目に遭わされたこともある。

だが、あの人間についてはその心配はあるまい。単独で、武装もしていない。山から下りるための無駄な努力を何度も続け、今は野営の準備をしているところなのだろう。枝を束ねて作った松明に、火を灯している。あのあたりで今夜は眠るのだろうか。どう食ってやろう。今から楽しみだった。

いや。待て。

獣の内で、警戒心がもたげた。

人間は松明を、地面に向けた。そこに堆積していた枯葉の山や、倒木に対して。

ゆっくりと燃え上がっていく炎。

その光景に満足することなく、人間は斜面を下り始める。時折、松明による点火が繰り返された。山を焼くということについて知識を持っているのだろう。炎を制御するには頂から順に焼いていくことが必要だ。という事実を、獣は知っていた。

となれば、昼間人間が行っていたのはそのための下準備。

獣の張った結界は、人間の方向感覚を狂わせる妖術である。あの人間は、山ごと焼いて結界を破壊するつもりであろうか。

厄介だった。これ以上縄張りを焼かれては叶わぬ。

獣は、重い体を起こした。

斜面を駆け降りる。木々の合間を駆け抜ける。時折ひっかかった枝が千切れ飛んだ。獣は快速だ。人間どもの作る自動車にも追いつける。そしてその巨体。

ゾウと呼ばれる異国の獣にも匹敵する体格と合わされば、ろくな武装もしていない人間などたちどころに食い殺せる。

谷川を踏み越える。斜面を駆け上がる。歓喜の咆哮を上げる。

獲物は目の前だ!

木々の向こう、人間の背が見えた。全力で疾走しているのだろう。こちらを振り返りさえせず、一目散にかけていく。それを追う。大木に阻まれるのを力づくで突破する。煙が視界を遮る。炎を踏み越える。人間を見失う。立ち止り、周囲を見回し———いた。

驚くべき逃げ足だった。だがそれも時間の問題。やがて追いつくだろう。

斜面の向こう側へと姿を消した人間に向け、獣は再び駆け出した。

地形を飛び越えようとしたところで。

—――!

持ち上がったのは、倒木。その断面が、重力に引かれたこちらの腹部に向けられていることに、獣は気付いた。

支えているのは、先ほどまで逃げ回っていた人間自身。

獲物は人間ではなかった。獣が、罠にかけられたのだ。

重力と運動エネルギーが、獣の脇腹を引き裂く威力を倒木に与えた。


GGGGGUUUUOOOOOOOOOOOOOO!?


苦鳴が上がる。重傷を負った獣が、上げたのだった。

どう。と倒れ込む、十トンの巨体。

それでも獣は、首を巡らせようとした。敵を探すために。

人間は、すぐ近くにいた。この時初めて獣は、敵の姿を子細に見分する機会に恵まれたのである。

中肉中背の男だった。帽子を被り、ジャケットを身に着け、山歩きに適した上下の服と登山靴。背中にはザック。左手には杖だろうか。長い木の枝とそして、右手に持っているのは紐。―――紐?

疑問はすぐさま解消された。飛来する石礫。という形で。

—――!?

強烈な一撃。印地撃ち投石紐によって投射された石ころの速度は時速百八十キロにも達しそして、獣の左目を穿つに至ったのである。とっさに閉じた瞼など、何の防御の役にも立たなかった。

再び上がる絶叫。

苦痛に気を取られていたのは一瞬であった。その間に獣は、再び敵手の姿を見失っていたことに気が付く。残された右目と聴覚、嗅覚を総動員する。ダメだ。山が燃える音と煙の臭い、欠けた視界では見つからぬ。

再度人間の姿を捉えた時、すでに事態は致命的なまでに進行していた。

高所を取った人間。獣から見て左手側に陣取った彼は、右手に先ほどの杖を構えていた。

いや。それは杖ではなかった。先端を尖らせ、火で焼き固められたそれは、槍だった。

更に、その根元には紐が幾重にも巻き付けられ、持ち手へとつながっていた。知識を持つものが見れば、それが原始的な槍投げ器の一種だということに気が付いただろう。古代世界で人類が、マンモスのような大型獣を狩るために使っていた強力な狩猟具のひとつ。

一撃が、放たれた。

それは腹を貫かれ、視界を失った獣の首筋を正確に貫通する。

致命傷であった。

獣はそれでも身を起こそうともがき———やがて力尽きる。

急速に流れ出ていく血。

獣の意識は、闇に飲まれていった。


  ◇


死闘を征した人間は———山中竜太郎は、深いため息をついた。安堵のそれを。心臓はいまだにバクバクと脈打ち、全身が火照っている。燃え盛る炎の熱と立ち込める煙で涙が出る。

だが、まだ生きている。

竜太郎がこの獣―――アフリカゾウ並みの質量はありそうな山犬やまいぬの存在を察知したのはSNSを通してだった。山菜採りのスポットとして拡散された地域で、行方不明者が相次いだのである。警察による捜索も功を為さなかった。現場となった山林は私有地。そこに勝手に入り込んで山菜採りを行うような愚か者が遭難しようが竜太郎にとってはどうでもよかったが、しかし背後にこの、山犬のような妖怪がいれば話は別だった。彼は自らを囮として、怪物を討ち取ったのである。

極めて危険な戦いだった。妖怪には人間と同等の知性を持つ者もいることを、竜太郎は経験上知っていたから。ひょっとすれば山菜のスポットだという、最初に拡散された情報自体がこの、山犬の発信したものかもしれない。愚かな人間をおびき寄せるために。加えて巨体と運動能力、鋭敏な感覚。武装した多勢で山狩りをしても無意味だ。妖怪は人間から身を隠す術に長けている。警戒されれば発見は不可能だった。油断させ、隙を突くしか勝機はない。

こんなことは二度とごめんだ。

戦いの後はいつもそう思う。しかし、過去。神前に捧げた誓いがまだ、果たされていない。

人に仇為す妖怪百匹を退治する。という。

視線を巡らす。先ほど投げ捨てた松明は、山犬の亡骸の向こうに転がっていた。歩み寄る。拾い上げる。すでに周囲は暗い。山を下りるには灯りが必要だ。この場にとどまっていてはいずれ煙に巻かれるか、焼け死ぬか。

生と勝利を存分に実感した竜太郎は、最後に一度だけ山犬を振り返ると、その場を立ち去った。

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